「一香さん?」

 ふと耳に低い声が届いて目を上げた。
 そこには私服姿に黒ぶち眼鏡をかけた颯ちゃんがいた。

「帰り道に何気なくよって見たら、聞香処に灯りがついていたので立ち寄りました」

 彼のおっとりとした口調に不思議と気持ちが穏やかになる。

「一人きりでどうかされましたか?」

 オレンジ色のライトが当たった優しい瞳を見ていると、弱音を零しそうになる。

 はじめて聞香体験をしたこと。緊張して、うまくできなかったこと。大切なお客様にまたラベンダーの香りをお届けできなかったこと。

 最後はお客様と素敵な時間を過ごせたように思うけれど、それも全部彼女の力。

 私は彼女の優しさに甘えていただけで、従業員としてはダメな所ばかりが目立った。
 反省点を振り返っていたら、いつの間にか時間が経っていたようだった。

 でもそれらを話してしまえば、颯ちゃんは全て包み込むように私を許してくれるだろう。

『大丈夫ですよ』『次がありますよ』『今日はよくがんばりました』
 そう言って、幼子をあやすみたいに、私のことを甘やかすのだろう。