「えぇ!!?」

 私の素っ頓狂な叫びが廊下に響き渡った。魔王様は顔をしかめている。でも、そんな事を言われると恥ずかしくて仕方がない。……一体、私のどんなところを見ていたのだろう。

「へ、変な事してなかったですか!」
「安心してほしい。ずっと君の事を監視していたわけではなく、君が【エイヨウシ】としての素質を見たかっただけだ」
「それなら良かったですけど……」

 私は胸を撫でおろす。魔王様はもう一度立ち止まり、またまっすぐ私を見つめた。その瞳は、先ほどよりも優しくなったように見えた。

「見ている間、君はとても熱心に勉強していた。他の学生がいなくなる時間まで図書館に残り、それに、子どもの扱いも上手い。よく子どもたちが集まるところにいって、一緒に遊んだりしていただろう」
「あぁ、保育園の事ですか?」

 子どもと遊ぶのは本来やりたかったこととは少し離れていたのだけど……私は本当の胸の内を明かすことなく、曖昧に頷く。

「それを見て、子どもにも慣れていると思ったんだ。それに……」
「ん? それに?」
「……いや、これはいい。とにかく、エミリアのよき理解者になってくれると思ったんだ。だから、君を召喚させた」

 魔王様はスッと視線を私からそらした。

「でも、やっぱり困ります。私だって、まだまだ勉強したいことがたくさんあるから、こんな所で油を売っている場合じゃないし」
「少しだけでいい。私たちに協力してくれないだろうか。……このままでは、エミリアは将来困ることになってしまう」

 私はその言葉を聞いて、ふとお母さんの事を思い出していた。そういえば、お母さんも私が大人になってから困らないようにって言って、料理を工夫していた。

 そして、頭をよぎるのは……この世界に来る直前に見た【不思議な夢】の事。

――小雪の事を【今】必要としている人が、もしかしたらいるかもしれないよ。

「私の事を、必要としている人……」
「どうかしたか?」

 私は魔王様を見上げる。彼は私の考えを探っている様子で、少し不思議そうな表情をしている。

 もしかしたら……この人こそ、お母さんが言っていた【私の事を今必要としている人】なのかもしれない。私の背中を押した母の手を思い出す。久しぶりに触れたその温かさは、私に向かってエールを送っているかのようだった。

「そんなに役に立てないとは思うんですけど……いつか、元の世界に戻してくれるって約束してくれるなら」

 思わず飛び出ていた言葉に、私も驚いてしまった。でも、私は……夢に出てきたお母さんの言葉を信じてみたくて仕方がなかった。

 私の返事を聞いた魔王様は、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。それはどこか安堵したかのようにも見える。そして、手を広げた。そこに黒いモヤが集まったと思えば、それはみるみるうちに巻紙に姿を変える。

「なんですか、それ?」
「契約書だ」

 魔王様はその巻紙を広げる。そこには私が普段から使っている言語で、色々書いてある。

「君は、エミリアの偏食が治るまでこの世界にいてもらう」
「も、もし王女様の好き嫌いが治らなかったら!? 私ここで寿命を迎えるの!?」
「安心してくれ。魔国にいる間は、君の体の時間を止めて、一切老けないにする。そして、我々の目的が達成され次第、君は召喚された日時に、元の世界に戻す。この契約はどうだろうか?」
「……必ず、守ってくれるなら」
「安心してくれたまえ。この契約書に書かれる契約は絶対だ。破れば……それなりの代償を払ってもらうことになる」
「だ、代償って!?」
「さあ、その時にならないとわからない、な」

 魔王様の声が少し怖い。私は少し縮こまってしまう。

 少し尻込みをしてしまった私に気を使ったのか、魔王様が、同じようにモヤと一緒に現れた羽ペンで先にささっと名前を書き込んでいった。彼が書いた文字は、私が今まで見たことのない言語だった。私もその隣に名前を書いていく。

 私が名前を書き終えた契約書は光に包まれて、細かな粒子に姿を変えていく。その光の粒は私たちをつつんで、やがて消えていった。

「よろしく頼む、コユキ」
「は、はい! こちらこそ!」
「それでは、今度こそ厨房に行こう。こちらだ」

 魔王様が足取り軽く歩き始めるので、私もそれに続いた。

 厨房は、思っていたよりも遠かった。私の息が切れ切れになるが、魔王様は慣れているみたいで涼しい顔だ。

「コユキが来るのは、城中の者が知っている」
「え? 私、そんなに有名人なんですか?」
「それもそうだろう。国家プロジェクトの中心人物だからな、コユキは。ここが厨房だ、調理人が複数働いている。ここを好きに使ってくれて構わないし、もし補助が必要なら命じてくれても構わない。……だが」
「だが?」

 少しだけ不穏な空気が流れる。

「いや、君は先ほど、エゴールを見て倒れただろう? もしかして、ああいった種族は君の世界にはいないのか?」
「ええ! そりゃそうですよ。……魔王様は私たちに姿は似ているけれど、私の世界にツノが生えた人もいないですし。やっぱり、違う世界なんだなって感じです」
「そうか」

 魔王様は少し考えている様子だ。

「もしコユキが必要と感じたならば、君専用の調理室を作ってもいい。その時はすぐに言ってくれ」
「え?! いいですよ、調理室の隅っこを使わせてもらえたら十分ですって」
「君がそういうならいいが……」

 魔王様は、何だか私の事を心配しているみたいだ。何をそんなに気にすることがあるのだろう……? ふっと、嫌な予感が胸をよぎる。

「開けるぞ」
「……はひ!」

 ギ―ッと重苦しく厨房のドアが開く。その中にいるのは……まるでどぶの底みたいな、ヘドロのような色をしたスライム状の生き物だった。

「――――っ!」

 叫ぶことも出来ず、私の体は固まってしまう。今まで見たことのない、おどろおどろしい生き物が……包丁で食材を切ったり、鍋で何かを煮込んでいる。私が言葉もなく震えていると、魔王様は「やはりだめか」と小さく呟いた。

「君専用の調理室が必要なようだな」
「は、はひ……」

 私は途切れ途切れになりながらも、よろしくお願いしますと小さく呟いていた。