次回公演の本格的な打ち合わせは明日から始まる。
 部室にいるのは辛すぎるし、そのまま帰る気にもなれなかった。いったい自分がどんな顔をしているかわからないまま外なんか出歩きたくなかったわけで。
 緊急避難先はすぐに思いついた。
 うちの高校の体育館はかなりデカい。内部には、卓球台やバレーボールのネットなんかを管理する器具庫がひとつと、隣には演劇部の大道具や歴代の文化祭で使用してきた看板やオブジェなんかも収納されている倉庫が併設されていた。どちらも教室ひとつ分はある。
 もともと存在感の薄い僕は、さらに気配を消してから体育館に入ると、そそくさと倉庫に忍び込んだ。扉を閉めると静寂が訪れた。キュッキュと響くバッシュのスキール音も練習中の掛け声も、少し遠い世界のことのようだ。
 でも、そう思えたのもつかの間のこと。
 うつむいたままここへ来たから、バスケ部の練習にこいつの姿がなかったことに気づかなかった。
「あれ、コウじゃん。どした?」
 誰もいるはずがないと決めつけていた倉庫に(かえで)がいた。
 彼は前回の舞台で小道具として使ったソファに胡坐をかいている。いきなり現れた僕を見ても、たいして驚く様子はない。
「いや、そっちこそなに。サボり?」
 胸中を悟られたくなくて、質問に質問で返す。
 はめ殺しの窓から差し込む光で、倉庫の中は電気なしでも意外と明るかった。
「んいや、ちょっと休憩」
 楓は手元でスマホを操作しながら答えた。
 白を基調としたバッシュに、赤のビブス。背番号7。
 僕はバスケにはあまり明るくないが、たしか漫画なんかで『7』をつけてるやつにはエースが多かった気がする。
「プレーのチェックがてら撮影して、その編集中」
「ああ、あれか」
「なんかいま、侮蔑的なニュアンス込めた?」
「どこに」
「あれ、って言い方」
「そんなん気のせいだって」
「いや、間違いなく感じた」
「バレたか」
「バレバレだよ」
 さすが小学校からの腐れ縁。あれ、二音で僕の真意を読み取る男。
たしかに思ったよ。自分のプレー動画をSNSで世間様にお見せできるほど僕は厚顔無恥じゃないと。
「女子にも人気あるんだろ、あれ」
 僕がまた、あえて「あれ」と言うと、
「なかなかほっといてくれないんだよ」
と楓が飄々と言った。
「また、ぬけぬけと」
 悔しいが、実際のところかなりの再生回数を誇っているようだ。
 もちろんこいつが異性の目を気にしていないのは知っている。
 楓はバスケに対してだけはバカがつくほどストイックだ。修行僧かなにかのようにひたすらボールばかり追いかけている。練習試合なんかで女子たちに  キャーキャー騒がれても、それで鼻の下を伸ばすことがない。
 ただ、それが妄想女子たちにクールな楓像として映り、さらに人気を博すという好循環。楓はそういう点では器用でソツがないのかもしれない。口数が少ないくせに、クラスでは憎たらしいくらいに人当たりがよく、物腰柔らかだと思われている。実際には喜怒哀楽が一部欠損しているだけなのに。
「コウも徳を積め」
 楓が仰々しく言った。
 徳を積め、ときたか。
 もう十年来の、互いに気心の知れた男。アドバイスも深いじゃないか。
「そだな」
 まあ楓の積んできた徳は十分にわかる。
 生まれながらにハードルの高い名前を授けられたら、僕なら確実にグレてただろう。もしも非モテ体型だったらさらに最悪の末路をたどっていたかもしれない。
 しかも、楓――。
 よりによって有名バスケ漫画の人気キャラクターと同じだなんて!
 バスケを志さなかったら逃げたと後ろ指を指され、身の程をわきまえたかとこけおどされ、バスケをやったらやったでお前ごときがと嘲笑される可能性だってある。野球でいえば球児とか飛雄馬とか名付けられた少年への同情を禁じ得ない。
 それなのに。楓は自分の名付け親を呪うことなくあろうことか小学校でミニバス、中高でバスケ部に入った。
 当初は被虐性欲の強い変態マゾヒストかと疑ったこともあったほどだ。
 でもこいつはそうじゃなかった。感情表現の薄いただのバスケバカだ。
 一目置いているのは、自分の顔のよさによりかかって生きることを是としないとこ。そういう信念を持ち合わせているのはさすがだと思う。
と、ひとがせっかくいい面に触れてやったのに、
「なんか素直すぎて逆にキモイ」
 楓が拒否するように鼻で笑った。
 前言撤回。
 こいつにはこういう毒吐き魔の一面があったことを忘れてはならない。
 日頃無理してクールガイを演じているストレスを、『僕といるときだけ派手に発散してるんじゃね?説』もある。(僕調べ)
「でもまあ、あれだな」
 スマホを眺めたまま、楓が急にしっとりとした声を出した。
 なんとなくぎこちなく、歯になにか挟まったような言い方でもある。
「なんだよ」
「二度あることは三度ある」
「は?」
「じゃなくて、三度目の正直……、いやちがうな」
 そこで僕はこいつがなにを言おうとしているか思いあたった。
「誰から聞いた」
 僕の、次回公演脚本落選の報を。
「いや、ちょっと、知り合いからな」
 なんだなんだ。楓のやつ、柄にもなくこの僕に気を使ってるのか。
「あ、これとかどうよ? 『百年河清(かせい)()つ』」
 目の前で検索した言葉を慰めに使う気か。しかもそのことわざ、黄河の濁りは百年経っても消えないっていう、いつまで待っても実現する見込みがないことのたとえだろーが!
「なんか違うような」
 そう言って楓がヘラヘラ笑った。
「全然違うわ! つーかひとの傷口に塩塗り込んで楽しいか」
「やっぱ傷心なんだ」
 楓に全部知られているとあらば、もう取り繕って平然と構えているふりをする必要もない。ダム、決壊。
「みんな心で思ってるよ。三回落ちて後輩にも負けた恥さらって」
「すげー自虐。病みまくってるな」
 こいつ、もう慰めを放棄しやがった。
「でもさ、そこがコウらしいって」
「そこがってどこがだよ」
「おまえ、演劇部入るって決めたときなんて言ったか覚えてる?」
「いつの話始めるんだよ」
「まあ、いいから答えてみ」
 楓に促され、しかたなくその話題に乗ってやる。
 記憶を遡るまでもなく、よく憶えているさ。
 中学三年の夏休みの課題一覧から選んだ県の文芸コンクール小説部門。
 原稿用紙二十枚以内という規定。
 短編ながら処女作に取り組む中学生には大作だった。
 『水の世界』というタイトルの応募作は、陸地が水で満たされたあとの世界を、小舟で旅する家族の話だった。書き切るのに八月まるっとひと月使った。
 渾身の一作は、神の気まぐれか県知事賞なるものを与えられ、学校名と顔写真、受賞コメントが新聞にも載った。当時ほとんど話したことのなかったクラスメイトからも「すげーじゃん」などと声を掛けられ、親戚のおじさんおばさんたちにも称賛された。
 当時、作品は市の文芸誌に収録された。
 図書館に行けば読めますよ、というレベルの刊行数でもあったので、ほとんどの人間は僕の書いたものを読んでいなかったのだが、そういえば楓だけは、ご丁寧に直接感想まで報告してきた。
 たしか、ディストピアのなかにメルヘンが入ってて斬新、だとか、漢字にカタカナルビはさすがにキザすぎだとか、こいつにしては珍しく饒舌だった気がする。
 そして――だ。
 処女作のいきなりの受賞に舞い上がったのか勘違いしたのか、僕は自分の創り上げた世界をみんなにも知ってほしいと思ってしまった。
「――図書館の隅っこにひっそりと置かれた物語でなく、今度は生身の人間に演じてもらいたい。たくさんのお客さんに観てほしい」
 そんな願望というか、もはや妄想レベルの夢を、たしかに楓に語ったのだ。
「そう、入学式の日、コウ少年は言った」
 楓はナレーターのような言い回しをした。
 なんかその返し、イラつくな。
「しかしコウ少年には、ひとつ忘れていたことがあった」
 なんだよそれ。
「自分にコミュニケーション能力が乏しいことを」
 ! おまっ――。
 さすがにキレるぞおい。そう思ったが、楓はふだんの話し方に戻して続けた。
「コウはひとのことよく見てるしいろいろ考えてるし、言葉もモノも俺より全然詳しいし、教養もあるとは思うんだよ。でもさ――」
 きた。よくあるやつ。
 日本語文脈は「でも」のあとが重要だ。
 今回はフォローしておいてからグサッと刺すやつか。
「おまえ、自分の思い、ここにためすぎなんだって」
 楓は親指を立てて自分の胸をつついた。
「インプットとアウトプットのバランス考えてみ」
「バランスって……」
「演じられない脚本だけじゃだんだん悶々としてくるだろ」
「選ばれなかったんだからしょうがないじゃん」
 落ちたんだから、と言わなかったのはちっぽけなプライドが顔を出したからだろう。
「だからさ」
 楓の声からもどかしさがにじむ。
「コウ、小説とか書いたら?」
 扉の閉まった倉庫の外から「おーい、楓どこ行った?」と声がした。さすがにバスケ部員たちも、彼の長い不在を気にし始めたようだ。
「おい楓、戻らなくていいのか」
「行くよ」
 胡坐をかいていた楓はゆっくりとソファから腰を上げた。
「小説書きなよ」
 また同じことを言った。この話題続ける気か?
「共同作業より性に合ってんじゃね? いま一番書きたいことを、自分の思い描く世界を、自分だけで作り上げてみ」
「……」
 僕は返事をしなかった。
 できなかった。
「俺もみんなも同じだよ。理想を描いて生きてるのは」
 楓はスマホを持ったまま僕の前をスタスタと通り過ぎ、倉庫の扉まで行った。
 扉を開くと、そこで振り返り、思い出したように付け足した。
「ああ……。あと、あれだ。『石の上にも三年』」
 言葉だけ置いて扉が閉まる。
 石の上にも三年。
 さっき慰めのつもりでかけてきたとんちんかんなことわざの続きか?
 たしかに今度のは良さげだ。つらくても辛抱して続ければ、いつかは成し遂げられるという意味だろうし。
 ……でもなあ。
 三年も経ったら高校卒業しちゃうんだよな。