ミンミンゼミが忙しなく鳴きつづける葉月の上旬のことである。
城島武雄 六十五歳、彼は商店街を歩いていた。商店街は決して賑わっているとはいえず、店のシャッターがところどころ閉まっており、道行く人々は高齢者がほとんどである。そんな商店街を歩く武雄の目的は花屋で向日葵を購入することである。
彼は太っているせいかズボンを固定するベルトの上に腹が乗っかっている。身につけた半袖カッターシャツの下半分はボタンが弾け飛びそうであるが、当の本人は気にもとめない。
額から汗が吹き出ており、それが頬から顎の真下までつたい、コンクリートに染みをつくる。武雄は、ふっと大きく息を吐くと進む足を止め、ズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。
しかし、目当てのものが見つからない。探していたのは汗を拭うためのハンカチである。
「ティッシュどうぞー!」
若い男の声とともに、視線を下に落としたままの武雄の視界にポケットティッシュが入り込んだ。差し出されたポケットティッシュをたどるように顔を上げれば、年若い笑顔の青年がそこに居た。
「ありがとう。助かるよ」
武雄は笑顔で礼を言うとポケットティッシュを受け取り、歩きながら三枚ほど引っ張って、それで汗を拭う。額や頬をぬらす汗を拭いながら、武雄は先ほどの青年を思い出していた。
バイトの割には随分と変わった格好だったな……。
青年と遭遇した場所から歩きはじめてそう離れてはいない。もう一度、その姿を確認しようと武雄は振り返るが、彼の姿を捉えることはできなかった。
武雄が気になるのも無理はない。先ほどの年若い青年は、真夏であるにもかかわらず、黒いコートを身につけていたのだから。
向日葵を購入するという目的を達成した武雄は、寄り道することもなく家路に着いた。家は、三十一坪の昭和感ただよう平屋である。
居間には赤褐色のタンスがある。そのタンス上にはタンクトップと麦わら帽子を身に付け、一輪の向日葵を掲げている笑顔の少年の写真立てと枯れた花を挿した花瓶がある。
武雄は、枯れた花と先ほど購入した向日葵を入れ替えた後、写真立てに手を合わせ目をつむり、額を合わせた手の指先に近づけた。
しばらくして、武雄はちゃぶ台の上に氷の入った麦茶を置いてテレビのリモコンを手に取ると、電源を入れた。
『今日午前八時頃、富嶽川で遊んでいた小学五年生の子どもが流され現在───』
点けてすぐに映ったのは、ニュースである。武雄は慌ててリモコンのボタンを押してバラエティに変えた。彼はカッターシャツの胸の辺りをくしゃりと掴んで真っ青になりながら荒くなった息を整える。
「和哉、ごめんな……」
武雄はちゃぶ台に額を擦りつけ突っ伏す。ちゃぶ台の上で握られつくられた両手の拳が震える。目からあふれ出た涙はちゃぶ台に小さな水たまりをつくった。声を出して泣き出してしまいそうになり、奥歯をぎりりと強く噛み締めどうにかたえようとするが、鼻を啜った拍子にうなり声のようなものが時折り漏れ出ていた。
日が沈み、夜の主役である月が出現すれば、同時に夜空に夏の大三角を描く。街灯が少ないせいか星ひとつひとつの大きさがよく見えた。
風呂あがりの武雄は、首にタオルを巻き、縁側で風鈴の音を聞きながら、缶ビールを飲んで夜空を見上げていた。時折り吹く夜風はぬるく、武雄の身体にまとわりついてじめりと湿らせ、もう片方の手で団扇をあおいだ。これが武雄の普段の生活スタイルであったが、彼にとって普段はないイベントが今日あった。それは、ポケットティッシュを貰ったことである。
ここは、ポケットティッシュを配るほどの都会ではなく、むしろ田舎である。だから、この土地に住む武雄を含めた住民がポケットティッシュをもらうなんて滅多にないイベントなのだ。
武雄はまた、あの年若い青年のことを思い出して、はっとし立ち上がった。
「洗濯物⁉︎」
ズボンのポケットに入れたポケットティッシュをそのままにして、洗濯機に入れてしまったことに気がついたのである。
時既に遅しとは、こういうときに使うのだろう。
慌てて洗濯機まで走って行ったものの、すでに洗濯は終わっており、洗濯機の中にも洗濯物にもティッシュがへばりついていた。
「あちゃー……」
こりゃやり直しだな……。
武雄は洗濯物にへばりついたティッシュを丁寧にはがして全て取り除いた後、つぎに洗濯機の中を覗いた。洗濯機の内側にへばりついたティッシュの他にカラーで描かれた写真よりも小さなサイズの紙らしきものが一枚あり、手を伸ばしてそれを手に取る。
手に取ってわかったことだが、それの表面はつるつるしており、紙ではなくプラスチックでできていた。
「居候屋……あなたの家に居候しにいきます……って、なんだこれ?」
プラスチック状のものにはそんなおかしなことが書かれており、武雄は眉間に皺を寄せて首を傾げた。
武雄は、居間に腰を下ろし、あぐらをかいて、じっとプラスチックに書かれた文字を見つめた。
────────────────────
『居候屋』
あなたの家に居候しにいきます!
独り身で寂しいヒト、いろいろ相談にのってほしいヒト、いかがですか?
一泊 二千九百五十一円から!
電話番号: 29451-29451
二十四時間営業!
※決していかがわしいお店ではありません
※いかがわしいサービス提供の強要はお断りします
────────────────────
といった内容が書かれていた。読んだ後に、武雄はあの年若い青年のことをまた思い出し、
あのときの……これの宣伝だったのか。
と、ようやく理解に至る。
「居候、なあ。知らんやつが住むってことだろ?」
武雄は思わず怪訝な顔をする。この広告を読んだものは、本当はいかがわしい店なんじゃないか、これは信用できるところなのか、詐欺ではないか、という心配や見知らぬ人が家に住む抵抗感、というものを武雄だけではなく誰しもが抱くに違いない。
「だが……」
武雄は、背後にあるタンス上の写真立てを見やり考える。この平屋には武雄という男ひとりしかいない。広い平屋にたったひとりきりで住み続けるのは寂しいと武雄は感じていた。さらにいえば、家には盗まれても困るものもない。
「もしもし、ポケットティッシュの広告を見たんですが……」
気づけば武雄は、携帯電話を手に取っていた。武雄の中で怪しさや抵抗感といったものよりも寂しさが圧倒的に上回っていたのである。
『もしもし、こちらは"居候屋"ですが? ご利用でしょうか?』
その声は、あの年若い青年を彷彿とさせた。
「は、はい」
武雄は緊張した声で肯定し、深く頷いた。こういったサービスを受けるのは初めてのことで、思わず身体が石のように硬くなる。
『ではまず、ご説明させて頂きますね』
利用の説明は、おおむね広告に書かれてある通りだった。
『居候の相手ですが、男性と女性どちらをご希望ですか? あぁ、年齢まではご指定できませんので、ご了承下さい』
「男性で、お願いします」
武雄は迷わず答えた。
『期間はどれくらいに致しますか? 最長で十日間までになります』
どうしようかと武雄は首を捻る。期間まで考えずに電話をかけてしまったのだからすぐに答えられないのも無理もない。
それを電話の向こうがわで察したのか、『とりあえず一日に設定しておいて、その後に延長してもいいですよ!』と提案してきた。
「じゃあ、そうします」
『わかりました。何時頃そちらに伺いましょうか?』
「朝の六時は大丈夫ですかね?」
『大丈夫ですよ! では、ご希望の通り明日の午前六時にそちらに伺いますね』
───現在時刻午前五時五十五分
城島の自宅のインターホンが鳴る。
「居候屋でーす! 城島さんいらっしゃいますか?」
戸の向こうから昨日と変わらぬ青年の透き通るような爽やかな声が聞こえた。恐る恐るといった様子で武雄は引き戸に手をかけ、ゆっくりと外を覗いた。
「昨日ぶりですね、城島さん! 約束の五分前ですが、大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫ですよ。起床時間はもっと早いですから」
そこには、笑顔を浮かべたポケットティッシュの彼がいた。
だが、昨日とはずいぶんと印象が違うような気がして、なぜだかその雰囲気が自分の息子と重なり、懐かしいなと武雄は思った。それは、彼の格好が黒いコートではなく、Tシャツでラフな格好をしていたせいかもしれない。
「どうぞ、上がってください」
「お邪魔しまーす」
とりあえず、居間で麦茶を飲むことにした。あちらは居候として過ごせばよいだけだが、サービスを受ける側としては、どのように接してゆけばよいのかわからない。であるから、武雄は客人をもてなす時のように煎餅を茶と一緒に出した。おしぼりも、もちろん忘れない。
「随分と変わった食べ方をするね」
煎餅を頬張る青年に思わず武雄は吹き出して笑い、敬語を忘れる。彼の食べ方といえば、誰も取りはしないのに、両手に煎餅を一枚ずつ持ち、交互に食べているのだ。とても美味しそうに。まるでタイムスリップでもしたようだと武雄は思った。
「僕、煎餅大好きなんですよ」
「わたしの息子も煎餅が好きでね、よく君みたいに両手に持って食べていたよ。懐かしい……」
「へぇ~、そうなんですね」
彼は武雄の話よりも、煎餅に夢中で、目を細めながら幸せそうに食べ続けていた。
武雄としては有り難かった。居候屋といえども、接客業と同様だというのが武雄の考えであった。その考えでいえば、息子の話を掘り下げて聞こうとしない彼は、接客業に力を入れていない不真面目な青年だと思うのが普通であるが、今回の場合、聞かれなかったことに武雄は内心ほっと胸を撫で下ろす心情であった。
「あ、そうそう」
彼は何かを思い出したようで、煎餅で汚れた手をおしぼりで拭った後、武雄と視線を合わせた。煎餅皿は空になっている。
「僕の名前なんですが、好きにつけて呼んで下さい」
「はい?」
武雄はその言葉の意味を呑み込めず、口を半開きにした。
「あなたの名前を呼ぶのは、駄目なんですか?」
居候屋という職は、本名を名乗ることが禁止されているのだろうかと武雄は考える。
ストーカーとか犯罪防止のためだろうか?
「あぁ、説明が足りなくてすみません。居候屋を家族の一員として名前をつけて呼ぶ方が結構多いんですよ。例えば、死別した妻や亡くなったペットの名前とか。あとは、片想い中の異性の名前だとか。それで、希望に応じてその設定で過ごすこともあります。もちろん、僕を本名で呼んで知り合いや友人のように過ごす方もいらっしゃいますよ」
武雄は、しばらくちゃぶ台の一点を見つめて考えた後におずおずと一直線に結んだ口を開いた。「では……」と意を決して目の前の彼を見つめる。
「城島和哉………わたしの息子になって和哉として過ごしてくれませんか?」