翌日の朝早くに登校した俺は、教室に入るとすぐに黒板を確認した。今回のターゲットも雪乃をいじめているグループの一員である、松井加奈子だった。黒板には松井を中傷する言葉が書かれている。

 数分後に登校してきた松井は、発狂してその辺の机を蹴り倒していた。
 雪乃をいじめている井浦のグループは、高梨をはじめ四人もいる。ということはつまり、明日も伊吹は黒板に悪口を書くつもりなのだろう。明日の朝、伊吹よりも早く登校し、現行犯で捕まえるのが得策かに思えた。
 しかし翌日の朝、俺は確かに一番乗りで登校したはずだった。教室には誰もいないし、伊吹が登校してきた形跡もない。それなのに黒板には、グループの最後の一人である宮原の悪口が書いてあった。

『宮原美樹は、風俗店でバイトをしている』

 とりあえず俺は、書かれた文字を消した。
 その後生徒たちが続々とやってきて、綺麗な黒板を見ては落胆し、不満げな表情で席に着く者が多かった。何故今日は書いてないんだ、と言わんばかりでもあった。無関係の生徒にとっては、朝の黒板の文字は一つの娯楽でもあるのだ。
 五番乗りで教室にやってきた雪乃は、黒板を見てホッと吐息をついていた。

「あれ、今日は何も書いてないんだな。つまんねーの。今日は宮原の番だと思ったんだけどな」

 登校してきた小泉も、何も書かれていない黒板を見て嘆いた。井浦たちのグループが狙われていることを、皆薄々気づいている様子だった。
 井浦と高梨もやってきて、黒板を見て安心して席に着く。自分の番だと思っていた宮原も、安堵して自分の席へ向かう。

【誰だよ消しやがったの。せっかく書いたのに】

 伊吹が教室にやってくると、黒板を睨みつけてから巨体を揺らして自分の席に向かっていった。
 久しぶりに教室内が平和な空気に包まれる、と思ったのも束の間だった。狙われているのは主に、雪乃をいじめているグループの奴らだ。ということはつまり、やったのは雪乃令美だ、と頭の弱い彼女らは結論づけた。
 授業が終わった後の休み時間のたびに、雪乃に対するいじめが一層激しくなっていった。相変わらず高梨だけはいじめの参加に消極的だった。
 伊吹は雪乃を守るためにやったのかもしれないが、結局は逆効果で、火に油を注ぐ形になってしまった。

【くそっ、書いたのは雪乃さんじゃないのに、あいつら本当に馬鹿だな】

 紙くずを投げつけられている雪乃の後方の席で伊吹は嘆く。これはお前の責任だぞ馬鹿、と言ってやりたい。

【また今日も、バイトが終わったら学校に忍び込んで書いてやる】

 また一つ、新たな情報を得た。伊吹の犯行時間は早朝ではなく、夜だったことが彼の心の呟きで判明した。確か伊吹はコンビニでアルバイトをしていると聞いたことがあった。毎晩その帰りに学校に忍び込み、こっそりと黒板に文字を書いていたらしい。呆れるのと同時に、雪乃を守りたいという強い気概を感じた。


 放課後、俺は雪乃にこの日得た情報を伝えた。机に書かれた落書きを消しゴムでせっせと消しながら、雪乃は俺を振り向いた。

【犯行時間が分かったなら、止められるね!】
「止めるって言っても、夜の学校に侵入しないといけないし、見つかったらやばいだろうし、俺はちょっと……」
【私は門限があるから、夜は無理かなぁ】

 俺が言い終わる前に、雪乃は言葉を被せてくる。その後は無言無心で俺を見つめる。
 私の代わりに行ってくれ、そんな言葉が聞こえてきそうな気がした。

「分かったよ。行けばいいんだろ」
【これは、碧くんにしかできないことなんだよ】

 これに関しては俺じゃなくてもできそうなものだが、口車に乗ってやることにした。元はといえば俺が人の心を覗いたことから始まったのだ。それを雪乃が黒板に書き、今度は伊吹が真似をして面倒なことに発展したのだ。渋々引き受けたのは、少なからず責任を感じていたからだった。

「そもそも伊吹の奴、どこから侵入したんだろう。普通鍵かかってるよな」
【一階の西側の男子トイレ、確かずっと鍵が壊れてるって聞いたことある。たぶん伊吹くん、そこから入ったんじゃないかな】
「ああ、それなら俺も聞いたことがある」

 一階の西側の男子トイレ、普段誰も使わないような場所にあるので、俺自身利用したこともなかった。そこから学校内に忍び込み、警備員の目を掻い潜り三階の教室を目指す。見つかれば停学、もしくは退学だろうか。まさにハイリスクローリターンだ。伊吹は毎晩そんなことをしていたのかと思うと、ほとほと呆れる奴だ。それほどまでのリスクを負ってまで雪乃を助けたいのならば、直接井浦たちに文句を言えばいいとも思う。

【じゃあ今夜、よろしくね】

 雪乃はにっこりと笑った後、立ち上がって教室を出ていった。
 俺はポケットからスマホを取り出し、小泉に電話をかける。まずは伊吹のバイト先、終わる時間などを調べなければならない。情報通の小泉なら知っているだろうと思った。
 スマホを耳に当てたまま鞄を肩にかけ、夕焼け色に染まった教室を後にした。