王子の執務室を訪ねると、私に気付いた同僚が、無言で隣の面談室を指さした。
 彼らに小さく一礼すると、面談室に向かう。
 部屋に入ると、窓を背にして王子が座っていた。表情は陰になっていてよく見えないが、王女と同じ色の金髪は、窓から差す陽の光に輝いていた。
 そして、王子はゆっくりと口を開く。
「エイラに呼び出されたようだね」
「はい」
「お別れは、済ませたかい?」
「はい」
「そうか」
「アレス殿下」
 私は頭を下げる。
「いかような罰でも受ける覚悟です。今までありがとうございました」
 だが、王子は立ち上がって近寄ってくると、私の肩をぽんと叩いた。
 私ははっとして頭を上げる。
 王子は穏やかに微笑んでいた。
「それはもういいんだ。エイラは無事に城を旅立った。あの日のことは、もういい。ただし、一生黙っておくことだよ」
「あの……それでいいんですか」
 自分のことながら、それではあまりにも甘すぎやしないか。
「いいんだよ。私たち以外に知る者はいないのに、処罰の与えようがない」
 そう言って肩をすくめる。
 私は言葉を失う。そんなことで済むのか。首を斬られても文句を言えないことをしでかしたのに。
「まあ正直、面倒だしね。処罰しようと思ったら、陛下に報告だとか、裏工作だとか、いろいろやらなきゃならないことが増えるし」
 そう言って、にやりと笑った。
 だがおそらく、この王子ならば、何事もそつなく行ってしまえるはずだ。
 私はまた深く頭を下げる。
「それで、あの、アレス殿下」
「なんだい?」
「エイラ殿下から預かり物です」
「エイラから?」
 私はさきほど預かった絵を王子に差し出した。
 王子はそれを受け取り、そして広げた。
「ああ、これはいい絵だ」
 私はその中を見てはいない。けれど、それがどの絵かはわかる。
 王子を見つめる、王女の絵だ。
「私に持っていて欲しいということかな」
「そう思います」
「そうか。城内に自分がいた証を残したかったのかもしれないね」
 違う。
 そう言いたかったが、私は口をつぐむ。これは言ってはいけない。決して口にしてはいけないこと。
 ふいに、はらりと涙が頬を伝った。
「あ……あれ……」
 慌てて手の甲で涙を拭う。だが、次々とあふれ出るそれは、止まることを知らない。
「す、すみません。いや……なんで……へ……変だな……」
 どうして私は人前で、さらには王子の前で、こんなにみっともなく泣いているんだろう。
「……エイラも、感謝していると思うよ」
 労わるような、優しい声音。
「彼女は、『輿入れしたらできないこと』にこだわっていた。君のおかげでかなり願いは叶ったと思う」
 そんなことはない。私は何もできなかった。
「私は思うんだ、きっとね」
 やめてくれ。その先は言わないでくれ。
 違うんだ、それは違う。
「エイラは最後に君と『恋をする』ことができたんだ」
 違う違う違う違う。
 王女は確かに恋をしていた。
 けれどその相手は、私ではない。
 彼女が恋をしていたのは。
 最初に私に絵を描くよう言ったのはなぜか。絵の腕前も知らないのに。
 第五王子の執務室に近いあの中庭で描いてほしいと言ったのはなぜか。室内で描くのが普通なのに。
 彼女は確かに、恋をしていた。
 恋をしていたけれど、それは。
「エイラはなぜ絵を君に託したのだろう? 私に直接渡せばいいのに。それはきっと、私に後押しして欲しかったんじゃないのかな」
 私はその言葉に、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「君は、絵師を目指すべきだ。彼女はそれを望んでいる」
「……アレス殿下、許されるなら」
「なんだい?」
 私は腕で涙を拭う。そして顔を上げた。
「暇をいただきたいと思います。エイラ殿下が望むなら、私はもう一度、絵師を目指したい」
 私の言葉に、王子はうなずいた。
 今度は、ちゃんと夢を追う。
 彼女が望む、セイラスで自慢できるような絵師に。私ができるかもしれない、ただ一つの、彼女への恩返しの可能性。
「そういうことなら、王宮の絵師に話を通しておこう」
「えっ」
「王宮の絵師に弟子入りするのが一番の近道だろう?」
 そう言って笑う。だが、いくらなんでも、それは。
「そこまで甘えるわけにはいきません」
「いや、甘えるといい。できれば君を目が届くところに置いておきたいというのもあるし」
 無罪放免、というわけではないからね、と王子は笑った。
「それから、私は話をするだけだ。弟子をとるかどうかは、あちらが決める。それとも、お眼鏡に適う自信はないかい?」
 挑発的な物言い。だがそれは、第五王子の優しさだろう。
「……ではありがたく、受けさせていただきたいと思います」
「じゃあ、また追って伝えよう。もし駄目でも私を恨まないでくれよ」
 王子は口の端を上げる。私もつられて笑った。
「では、もういいよ。他の者に、暇を願い出たことを言って挨拶したまえ」
「はい、ありがとうございます」
「いや、その前に顔は洗ってきたほうがいいかもしれないな」
 そう言ってくつくつと喉の奥で笑った。慌てて両頬を交互に手のひらで拭った。
 頭を下げると、扉に向かう。背後で王子が先ほどの絵を開いたのがわかった。
 扉の前に着くと、開けてから振り返って一礼する。そして顔を上げると、王子が絵を眺めているのが目に入った。
 眩しそうに目を細め、口元に小さな笑みを浮かべて、指先で絵の表面をそっとなぞっていた。
 ああ。
 あなたも。
 あなたも、恋をしていたんですね。
 私は扉を閉め、目を閉じて一息つくと、顔を上げてまた歩き出す。
 
          ◇
 
 中庭に立ち寄って、頭上を見上げる。
 あの日、王女が登っていた楡の木。
 ふと思いついて、私は楡の木に手を掛ける。
「これは……」
 足場がなかなか取れず、上に行くのが難しい。あのとき、王女はドレスを着ていた。どれだけの根性でこの木に登ったのか。
「よっ……と」
 王女が腰掛けていた枝に座る。
 眺めても、さほど景色がいいとも思えない。高い城壁が邪魔で、城の外は見えなかった。
 ふと横を見る。
 ああ。
 このために、登ったのか。
 枝の先にあるのは、王宮の一室。
 第五王子の、執務室。
 だが。木の葉に邪魔されて、中は到底見えそうもなかった。枝の先のほうに行けば見えるのかもしれないが、いくら華奢な王女でも、きっと枝が折れてしまうだろう。
 それはまるで、王女の恋を表しているかのようだった。
 手に届きそうで、届かない。すぐそこにあるのに。すぐ傍にいるのに。
 胸の奥から何かがあふれ出そうになって、私は唇を噛み締める。
 ふと、頭上に何かの気配を感じて、顔を上げた。
 鳥だ。白い羽根の美しい小鳥だった。
 そしてその鳥は、私に気付いたのか、枝から飛び立った。
 高く、高く。城壁を越え、自由に、空へ。
 鳥が見えなくなるまで、私はその姿を見送った。

          了