「夫婦になって初めての旅行。つまりは新婚旅行だな、俺のお嫁さん?」
「……ただの旅行ですよ、旦那さま」
ウソつき夫婦の新婚旅行、はじまりはじまり。
ウソつき夫婦のあやかし婚姻事情②
~天邪鬼旦那さまと新婚旅行!?~
プロローグ
ヒールの音を軽快に鳴らしながら、潮玲央奈は早朝のオフィス街を会社に向かって歩いていた。
今日も今日とて、訳あって同棲している玲央奈の上司さまは、すでに異常な早起きで先に家を出ている。玲央奈たちの関係は周囲には秘密なので、どうしても出勤時間をズラす必要があるのだ。
彼はもう会社で優雅にPCでも叩いている頃だろう。
「私も急ごう……ん?」
しかし、足を速めようとしたところで、玲央奈は逆に足を止めてしまう。
立ち並ぶビルとビルの間。
なにやら蠢く影が見えた。
「クッテヤルゾ、クッテヤルゾ!」
口だけしかない、緑色のドロドロした気味の悪い化け物が、ギャハギャハと嫌な笑い声を立てている。
あれは――俗に言う『あやかし』という存在だ。
玲央奈は中学生の頃に、とある凶悪なあやかしからかけられた呪いのせいで、普通の人には見えない奴らが見えるようになった。それだけでなく、ずっと命までも狙われていた。
今は玲央奈の上司兼、仮の旦那さまの〝力〟のおかげで、どうにか身を守れてはいるが……玲央奈の首の後ろには、いまだ消えない【呪】という青い文字が刻まれている。
「あー……もう、どうしようかな」
緑色のドロドロしたあやかしは、「クッテヤルゾ」という言葉どおり、今にも〝なにか〟に襲いかかろうとしている。
その〝なにか〟とは、一匹の白蛇だった。
全長はそれほど長くはない、小さな細い蛇。暗がりで浮かび上がる白いボディに、赤い目のアルビノで、どこか清廉な印象を受ける。そして額には、特徴的な三日月型の傷がひとつ。
こんなコンクリートジャングルにあんな蛇がいるはずもなく、あの白蛇もあやかしだと玲央奈はすぐにわかった。
ただあやかしにも種類があり、『河童』や『妖狐』といった種族名のあるものを『名持ち』、種族名のないものを総称して『名無し』と呼ぶ。
緑色のドロドロの方は名無しであろう。まだ理性的で人間にも友好的な名持ちと違い、名無しは危険で人間だろうと同族だろうと見境なく襲う。玲央奈も名無しのあやかしに何度襲われたか知れない。
白蛇の方はおそらく、そのまま『白蛇』という種族に分類され、赤い瞳には理性の光が見える。同時に……怯(おび)えの色も。
(怖がっている、よね)
その怯えを見てしまったからには、基本的にお人好しな玲央奈はもう放っておけなかった。
「ちょっと! その蛇から離れなさい!」
壁際に追い詰められている白蛇を守るように、玲央奈は名無しのあやかしと相対する。
相手によっては危険極まりない選択だが、このあやかしは見るからに雑魚で、そうたいした相手ではない。
大きな猫目でキッと睨んで「さっさとどっかいきなさい!」と鋭く一喝。
「グ、グググ……」
玲央奈の見立てどおり、名無しのあやかしは悔しそうに唸りながらも、玲央奈の纏う〝気配〟に怖気づいてあっさり逃げていった。
ふうと一息ついて、玲央奈は握っていた拳を緩める。いざというときは、ストレートパンチでもお見舞いして追い払うつもりだったが、その必要はなかったようで一安心だ。
「もう危ない奴に襲われないよう、気を付けてね」
しゃがんで白蛇と目を合わせる。
お節介ついでに注意すると、白蛇はまるで甘えるように、玲央奈の膝にスリッと頭を寄せてきた。
けっこう人懐っこいようだ。
人差し指でその頭をクリクリと撫でると、クネクネと白い肢体が揺れる。
「君はどこから来たの? このあたりを住処にしている、ってわけじゃないわよね? 仲間とかは……って、あっ!」
バッと、玲央奈は立ち上がる。
「こんなところでのんびりしている場合じゃなかったわ……!」
思わず和んでしまったが、今は出勤途中である。玲央奈は腕時計を確認して、一気に焦りを覚えた。
とんだタイムロスだ。
遅刻しないように急がなくてはいけない。
「私はもう行くわね」
バイバイと、白蛇に手を振る。
仲間がいるかどうかなど、確かめることはできなかったが、いるなら無事にそちらに帰れることを祈るばかりだ。
(この子を助けたことを話したら、天邪鬼な旦那さまに『俺のお嫁さんはまた余計なことをして』って、嫌味を言われちゃうかしら……)
端正な顔をニヒルに歪める旦那さまを思い、玲央奈は小さく苦笑して、足早に場を去っていった。
白蛇はそんな玲央奈の背を、人混みに紛れるまでじっと見つめていた。
* * *
「――おや。帰ったのですね」
青藍の和服を着た男は、自宅の縁側で茶を啜っていた。
歴史のある古式ゆかしい日本家屋。
敷地はだだっ広く、庭のヤマボウシの木は秋色に色づいて、地面に熟れ切った赤い実をいくつも落としている。その実を避けるようにシュルリシュルリと這って、白蛇は男の足元までやってきた。
「おいで、シロ」
男が腕を差し出せば、『シロ』と呼ばれた蛇がゆるく絡まる。
白蛇と同化しそうなほど白い肌をはじめとして、男は髪も目も薄い灰色で、どこをとっても色素が薄かった。上背はあるものの整った美貌は中性的であり、たおやかな柳のごとき印象を受ける。
ただ瞳の奥だけは、爛々と抜け目のない輝きを放っていた。
「散歩中になにかあったのですね? だから好奇心であちこち行くなと忠告しましたのに。あなたは少し抜けているところがありますから、もっと気をつけないと。……なにがあったか、教えてくれますか?」
シロはコクンと小さく首を縦に振る。
意思疎通ができているようだ。
そっと腕を持ちあげて、男はシロと額を突き合わせる。瞼を下ろしてから、しばしの静寂を挟み、「ほう……」と感嘆の息と共に目を開けた。
「なるほど、あなたはこの奇特な女性に助けられたのですね?」
コクンと、またシロは肯定する。
「あやかしが見えて、勇敢で、慈しみの心も持ちあわせている……すばらしいです。それに大変可愛らしい」
ふふっと、男性は喉を震わせて笑う。
着物の裾が笑い声にあわせて揺れて、ヤマボウシの
葉がざわついた。
男性は秋晴れの空を仰ぎ、ここではない遠くを見つめる。思い浮かべているのは、たった今〝見た〟ひとりの女性の姿だ。
「見つけました――私の伴侶」
そう呟いた男の目は、まさしく獲物を捕らえた蛇のようだった。
「……ただの旅行ですよ、旦那さま」
ウソつき夫婦の新婚旅行、はじまりはじまり。
ウソつき夫婦のあやかし婚姻事情②
~天邪鬼旦那さまと新婚旅行!?~
プロローグ
ヒールの音を軽快に鳴らしながら、潮玲央奈は早朝のオフィス街を会社に向かって歩いていた。
今日も今日とて、訳あって同棲している玲央奈の上司さまは、すでに異常な早起きで先に家を出ている。玲央奈たちの関係は周囲には秘密なので、どうしても出勤時間をズラす必要があるのだ。
彼はもう会社で優雅にPCでも叩いている頃だろう。
「私も急ごう……ん?」
しかし、足を速めようとしたところで、玲央奈は逆に足を止めてしまう。
立ち並ぶビルとビルの間。
なにやら蠢く影が見えた。
「クッテヤルゾ、クッテヤルゾ!」
口だけしかない、緑色のドロドロした気味の悪い化け物が、ギャハギャハと嫌な笑い声を立てている。
あれは――俗に言う『あやかし』という存在だ。
玲央奈は中学生の頃に、とある凶悪なあやかしからかけられた呪いのせいで、普通の人には見えない奴らが見えるようになった。それだけでなく、ずっと命までも狙われていた。
今は玲央奈の上司兼、仮の旦那さまの〝力〟のおかげで、どうにか身を守れてはいるが……玲央奈の首の後ろには、いまだ消えない【呪】という青い文字が刻まれている。
「あー……もう、どうしようかな」
緑色のドロドロしたあやかしは、「クッテヤルゾ」という言葉どおり、今にも〝なにか〟に襲いかかろうとしている。
その〝なにか〟とは、一匹の白蛇だった。
全長はそれほど長くはない、小さな細い蛇。暗がりで浮かび上がる白いボディに、赤い目のアルビノで、どこか清廉な印象を受ける。そして額には、特徴的な三日月型の傷がひとつ。
こんなコンクリートジャングルにあんな蛇がいるはずもなく、あの白蛇もあやかしだと玲央奈はすぐにわかった。
ただあやかしにも種類があり、『河童』や『妖狐』といった種族名のあるものを『名持ち』、種族名のないものを総称して『名無し』と呼ぶ。
緑色のドロドロの方は名無しであろう。まだ理性的で人間にも友好的な名持ちと違い、名無しは危険で人間だろうと同族だろうと見境なく襲う。玲央奈も名無しのあやかしに何度襲われたか知れない。
白蛇の方はおそらく、そのまま『白蛇』という種族に分類され、赤い瞳には理性の光が見える。同時に……怯(おび)えの色も。
(怖がっている、よね)
その怯えを見てしまったからには、基本的にお人好しな玲央奈はもう放っておけなかった。
「ちょっと! その蛇から離れなさい!」
壁際に追い詰められている白蛇を守るように、玲央奈は名無しのあやかしと相対する。
相手によっては危険極まりない選択だが、このあやかしは見るからに雑魚で、そうたいした相手ではない。
大きな猫目でキッと睨んで「さっさとどっかいきなさい!」と鋭く一喝。
「グ、グググ……」
玲央奈の見立てどおり、名無しのあやかしは悔しそうに唸りながらも、玲央奈の纏う〝気配〟に怖気づいてあっさり逃げていった。
ふうと一息ついて、玲央奈は握っていた拳を緩める。いざというときは、ストレートパンチでもお見舞いして追い払うつもりだったが、その必要はなかったようで一安心だ。
「もう危ない奴に襲われないよう、気を付けてね」
しゃがんで白蛇と目を合わせる。
お節介ついでに注意すると、白蛇はまるで甘えるように、玲央奈の膝にスリッと頭を寄せてきた。
けっこう人懐っこいようだ。
人差し指でその頭をクリクリと撫でると、クネクネと白い肢体が揺れる。
「君はどこから来たの? このあたりを住処にしている、ってわけじゃないわよね? 仲間とかは……って、あっ!」
バッと、玲央奈は立ち上がる。
「こんなところでのんびりしている場合じゃなかったわ……!」
思わず和んでしまったが、今は出勤途中である。玲央奈は腕時計を確認して、一気に焦りを覚えた。
とんだタイムロスだ。
遅刻しないように急がなくてはいけない。
「私はもう行くわね」
バイバイと、白蛇に手を振る。
仲間がいるかどうかなど、確かめることはできなかったが、いるなら無事にそちらに帰れることを祈るばかりだ。
(この子を助けたことを話したら、天邪鬼な旦那さまに『俺のお嫁さんはまた余計なことをして』って、嫌味を言われちゃうかしら……)
端正な顔をニヒルに歪める旦那さまを思い、玲央奈は小さく苦笑して、足早に場を去っていった。
白蛇はそんな玲央奈の背を、人混みに紛れるまでじっと見つめていた。
* * *
「――おや。帰ったのですね」
青藍の和服を着た男は、自宅の縁側で茶を啜っていた。
歴史のある古式ゆかしい日本家屋。
敷地はだだっ広く、庭のヤマボウシの木は秋色に色づいて、地面に熟れ切った赤い実をいくつも落としている。その実を避けるようにシュルリシュルリと這って、白蛇は男の足元までやってきた。
「おいで、シロ」
男が腕を差し出せば、『シロ』と呼ばれた蛇がゆるく絡まる。
白蛇と同化しそうなほど白い肌をはじめとして、男は髪も目も薄い灰色で、どこをとっても色素が薄かった。上背はあるものの整った美貌は中性的であり、たおやかな柳のごとき印象を受ける。
ただ瞳の奥だけは、爛々と抜け目のない輝きを放っていた。
「散歩中になにかあったのですね? だから好奇心であちこち行くなと忠告しましたのに。あなたは少し抜けているところがありますから、もっと気をつけないと。……なにがあったか、教えてくれますか?」
シロはコクンと小さく首を縦に振る。
意思疎通ができているようだ。
そっと腕を持ちあげて、男はシロと額を突き合わせる。瞼を下ろしてから、しばしの静寂を挟み、「ほう……」と感嘆の息と共に目を開けた。
「なるほど、あなたはこの奇特な女性に助けられたのですね?」
コクンと、またシロは肯定する。
「あやかしが見えて、勇敢で、慈しみの心も持ちあわせている……すばらしいです。それに大変可愛らしい」
ふふっと、男性は喉を震わせて笑う。
着物の裾が笑い声にあわせて揺れて、ヤマボウシの
葉がざわついた。
男性は秋晴れの空を仰ぎ、ここではない遠くを見つめる。思い浮かべているのは、たった今〝見た〟ひとりの女性の姿だ。
「見つけました――私の伴侶」
そう呟いた男の目は、まさしく獲物を捕らえた蛇のようだった。