桜の蕾が膨らみ始めた三月下旬。
私は弾む足取りで菱沼ホールディングス本社ビル三十二階、人事本部の面談室に向かっていた。

丸の内のランドマークであるこのビルは低層階が商業施設になっていて、日本初上陸のブランドショップやカフェが集まる旬のスポットだ。高層階は菱沼グループ各社のオフィスが入り、高速で上昇するガラス張りのエレベーターからは首都の街並みを遥か眼下に見渡すことができる。

国立T大学を卒業後、総合商社の名門である菱沼ホールディングスに入社してこの春で丸六年になる。これから初めての異動辞令を受けるのだけど、通常なら職場の上司から言い渡されるそれを、私は人事部で直接受けるよう伝えられた。
ということは──。

(普通の辞令じゃないってことよね)

期待で頬を緩ませながらエレベーターを降りる。
人事部へと続く廊下は両側が曇りガラスの壁になっていて、菱沼が拠点を置く世界各都市の美しい街並みのパネルが飾られている。ライトアップされた凱旋門の荘厳な姿を横目に見ながら考えた。

七年目なら海外赴任の声がかかるタイミングだ。最近はパリやミラノへの出張も入ってきたし、可能性は濃厚だと思う。

(パリか……いいなぁ)

うっとりしながら廊下を歩いていた私の歩調がだんだんと鈍くなり、やがて止まった。頭の中では理想と現実を両翼に乗せた天秤が揺れている。

(この歳で海外に行ったらまずいって)

今から数年間海外赴任なんかしたら婚期を逃すのは確実だ。

(いや、だから行った方が良くない?)

海外赴任すれば結婚レースから体裁よく逃げられる。だってこのままだとみんなの笑い者になるのは見えてるじゃない……。


溜息をつき、曇りガラスに映る自分を眺めた。
ファッションビジネス部のチームリーダーに相応しい、隙のないコーディネート。でも着飾った女がリア充しているかと言うと、実際は逆だと思う。