理想の結婚お断りします~干物女と溺愛男のラブバトル~

〝あと何本か、冷蔵庫に入れています〟

そうよ、彼がそんなことを言っていたような気がする。
しかし問題なのは、今日に限って冷蔵庫にチューハイがすらりと並んでいることだった。先日チューハイ二割引の日にまとめ買いしたやつだ。ポンジュースが入ったオレンジ味のこの銘柄が私は大好きで……ということはどうでもいい。

「見られたかな……」

そりゃ見られたに決まってる。他にはほとんど何も入っていない、コンビニの酒販コーナーのような光景なんだから。

「野菜室は一杯なのよ! そこ見てくれないと」

絶望感を凌ぐため意味不明な抗議をブツブツ呟きながら、彼が買ってくれたレトルト粥を温め、ありがたく食した。

食事を終えるとメモの訓示に従い、体温を測る。彼がわざわざ体温計を買ってくれたのだろう。

熱は三十七度。もう大丈夫だし気が進まないけれど、次は薬だ。
せっかく彼が夜間診療所にまで連れていってくだたんだもの。ちゃんと飲まなきゃせっかくの親切を無駄にしてしまう。というか、彼の達筆なメモには本人がここにいなくても言いつけに従わせる絶大な威力があるようだ。
……ちょっと待った。

プチッと錠剤のシートから薬を取り出した私の手が止まった。今回の分の他に一回分、すでに空になっている。記憶にかかっていた霞がふわふわと揺れて昨夜の一番肝心な部分の情景が少しずつ浮かび上がってきた。

これを飲んだ時、私はたしか寝たままで。
薬は嫌いだと言ったら彼が無理やり押し込んできて。
で、水も飲まなきゃ食道がどうだとか彼が言って、私が拒否して。

〝無理やり流し込みますよ。いいですね?〟

「……どうやって?」

〝ちゃんと意味わかってるんですか〟

それで鼻をつままれて口を開けたら──。
私の手から錠剤のシートがポトリと落ちた。


二十八歳干物女、男性経験ゼロ。
初めてのキスはドラマのようにはいかない。


……って、あれはキスなのか?




結婚報告パーティーから三週間が過ぎた十一月の中旬、再試験の日がやってきた。

試験に合格する自信はある。挽肉も鶏団子も嫌というほど実地で練習してきたし、鶏団子などはお客様から『今年の団子はとても綺麗』とお褒めの言葉を頂いたぐらいだ。その証拠に、今年は鶏団子の売上が好調らしい。

あと試験には関係ないけれど、私が担当している鶏むね薄切りが例年よりよく売れているという。練習を重ねて花びらのように薄くスライスできるようになり、見栄えが良いせいで手に取ってもらえるのだろうと佐藤主任は言っていた。
ただし、これらは矢部さんがいない時に伝えられる。

『矢部さんは速いんだけど雑なんだよなー。おお、噂をすればこっちに戻ってくるよ。矢部さんに聞かれたらやべぇやべぇ。……今のわかってくれた?』

佐藤主任の寒いギャグに愛想笑いを返しながら時計を見る。

試験開始まであと二時間。
彼に会えるまで、あと二時間。

あれから今日まで彼と会う機会はなかった。メモに書かれた〝確認します〟というのは電話ではなく、短いメッセージで果たされただけだった。

彼からそれが届くまで、私は彼が買ってくれたスポーツドリンクをちびちび飲みながらいろんなことを考えた。

あれはキスのうちに入るのだろうか?
それとも単なる医療行為?

医療行為だとしても、嫌いな相手にそんなことしないよね。あれだけ女嫌いって言われてるんだから、あんなこと気軽にはしないはず。
だったら少しでも私のことを思っていてくれないかな……無理かな。

膝を抱えて悶々としていると手の中のスマホが鳴り、心臓が口から飛び出そうになる。電話でないことにがっかりして、でも平日だから彼は仕事中だと思い直してメッセージを開く。
でも画面に表示されたのは何の甘さもない言葉だった。

〝熱を計って報告してください。今朝の薬は飲みましたか?〟

たったそれだけ。

「報告って……仕事みたい……」

いったい何分間、私はしょんぼりとそれを見つめていただろう。きっと彼は無表情に数秒でこれを打ったんだろうなと容易に想像がつくのに。

結局、その二日後に〝薬は飲みきりましたか?〟というもっと短いメッセージが届いたきりだ。至って事務的、無感情。

それでも私はその〝報告〟に自分でも呆れるほど時間をかけた。
出だしの挨拶を変えてみたり、彼に風邪がうつっていないか気遣う文言を消してみたり。
だってあの口移しを思い出させるよう仕向けてるみたいじゃない……。

でも短いながら丹念に推敲したメッセージに対する彼の反応は〝お大事に〟の一言だけだった。

そうだよね。やっぱりあれってキスのうちには入らないんだよ。何の意味もないんだよ。

でもあの日、普段なら玄関ドアの新聞口から投入されて土間に落ちているはずの朝刊が、リビングのテーブルの上に置いてあった。つまり彼は明け方まで私の部屋にいたということになる。

翌日は月曜日で、彼は出勤だ。にも拘わらず、高熱の私を心配して様子を見ていてくれたのだとしたら……。

「何ぼやっとしてんの! そろそろ時間なんだから粗挽きを出して準備しときなよ」

矢部さんの声で時計を見れば、いつの間にかもうそろそろという時間になっていた。粗挽き肉のバットをミートチョッパーにセットしていると、背後で扉が開いた。緊張と一緒に怖れに似た高鳴りで胸が音を立てる。

「……お疲れ様です」

入口に立つ彼の方に向き直り、顔を隠すように深々とお辞儀をした。一瞬しか視線を合わせることができなかったのは、そのほんの一瞬だけでマスクの下の自分の頬が真っ赤になってしまったのがわかるから。

「いよいよですね」

「はい」

不合格なら……というあの条件や口移しのことを思い出してしまい、仕事だとわかっているのにどんな顔で何を言えばいいのかわからない。

「お疲れ様です! SB船井です!」

続いて入ってきた試験官の大声が私の気まずさをごまかしてくれた。
人の良さそうな笑顔とは裏腹に一切手加減せずばっさり落とす人だということは前回で知っている。

「早速始めますか! 前回と同じ、挽肉から行きましょう」

「はい。よろしくお願いします」

タイプは違えど厳しい二人を前に、挑むのが好きな私は戦闘モードに切り替えた。

〝不合格なら関係を本物にする。そういうことにしましょう〟

もしここで私が不合格になったら、たとえ形骸的なものだとしても私の恋は延命できる。
でも私は彼の前ではちゃんと公私を分けられる、信頼される人でありたい。

トレーを並べる間に迷いを振り切り、準備ができたという合図を船井SBに送る。

「はい、では始めてください!」

ペダルを操作しながら挽肉をふっくら丸く切り取っていく。前回のような恥ずかしさはなかった。ここで働く人たちの凄さとかプライドに触れたから。だからわざと遅くたしたり汚くして不合格を狙うことはできなかった。

「速度、商品化の質、申し分ないです。特に商品化のレベルは素晴らしいです。これは美味しそうに見えますね」

船井SBの講評に笑顔を返した。北条怜二は前回と同じく、腕組みをしてただ静かに見守っているだけだ。でも顔には出ていなくても、ちゃんと認めてくれている気がした。

試験は鶏団子に移る。今では挽肉より得意だ。

「すごく綺麗です。ここまで綺麗なのは滅多にないです」

ストップウォッチで時間を計りながら船井SBが北条怜二に小声で説明している。

ほら、頑張ったよ。へこたれて不貞腐れたままにはならなかったよ。
こうやって合格しようと頑張っているのは、あなたとの関係を本物にしたくないんじゃない。あなたが私に課したことをちゃんと理解したって知ってほしいから。

制限時間を待たず、所定の数のトレーには艶やかで真ん丸な鶏団子が整然と詰められていた。

「文句なしです! よくここまで上達しましたね。かもめ店は夏場は団子を出さないから練習できなかったでしょう?」

「アタシがみっちり教えたんスよ」

仕事の手を止め試験を見ていた矢部さんが誇らしげにアピールするので笑いそうになった。〝こうだよ、こう!〟しか説明できなかったくせに。

お葬式のようだった前回とは違い、精肉部の面々は嬉しそうに自分の仕事に戻っていく。船井SBも重ねて絶賛してくれたあと事務所に戻っていった。

「廊下で話を」

北条怜二が言えば、たったこれだけの台詞でも胸が壊れそうになる。
彼は何て言ってくれるだろう?
仕事から一歩踏み込んで、あの日のことも触れてくれるだろうか。
これで終わりになりませんように──。

願いを込め、先に立ってドアを開ける彼の背中を見上げた。今日は濃紺のスーツ姿で、紺色は彼に一番似合う色だと思う。願わくば、彼を間近に見つめ続けていたかった。

「お疲れ様です」

薄暗い廊下の照明の下で彼が微笑んだ。

「よく頑張りましたね。スコアは完璧でした」

「ありがとうございます」

「あとで正式なスコアを人事部からお送りします。おそらく格付に関しても何らかの決定があると思います」

褒められ認められて嬉しいのだけど、私が本当に聞きたいのはそんなことじゃない。
会話が終わる気配を感じ、引き延ばさないと彼が行ってしまいそうな気がして、私は思い切ってあの日の話題を出した。

「あの……先日はありがとうございました。パーティ―のことも、その、診療所に連れていって下さったことも」

「すぐに熱が下がったようで良かったです」

表情も言葉も優しいのにどこかよそよそしいのは、ここが仕事の場だからだろうか。

でも本当は私の熱が下がったのを見届けてくれたんでしょう? 
その優しさに期待したいのに。
あの演技の夜みたいに〝僕個人の行動〟で踏み込んできてほしいのに。

なのに、彼が口にした言葉は話題を引き戻し、綺麗にまとめて終えるものだった

「あの脅しがなくても、あなたは最高スコアで合格したでしょうね。信頼していました」

それって、やっぱりあの言葉は最初から冗談でしかなかった、ということ。
守る義務が発生しないとわかっているから言えたこと。