烏の開いた口から発せられた声は、先ほど少年に後方から声をかけたものと一致していた。声の質といえば、三十歳くらいのお兄さんかおじさんか微妙な感じの声だ。つまり、若くもなければ年老いてもいないような、というところだ。
少年は不機嫌に眉間に皺を寄せた。それもそのはず、目の前にいる烏の声がなければ、ズボンを汚さず無事帰路に着けた可能性があったのだから。
少年は耳当て代わりにしていた無音のヘッドフォンを外し、それを首に掛ける。
「後ろからいきなり声をかけるなよ。いつも言ってるだろ?」
「ごめんごめん、つい癖で」
ヘッドフォンを外して烏の会話に応じたのは、単に聞き取りづらいからというわけではない。着けたままでも十分に声は届くのだが、これは人間同士で会話をするときの日頃の習慣からきているものである。
この烏と少年は三年ほどの付き合いがあり、友人のような仲である。漢字の成り立ちからして、友も人も人間同士の仲を表すものであるから、その観点でいえば友人と言ってしまっていいのか判断し難いところである。しかし、仮に烏が人間であったのなら友人といってもよいだろう。
つい癖でうっかり少年の後方から声をかけてしまった烏はあまり反省していないのか、少年に対していつもの喋る調子で軽く謝罪し、人間よりも短い首を使って数回頭を下げた。
痛みが完全に引いたわけではなかったが、動けそうなくらいには治ったため、少年はなんとか立ち上がる。ズボンが外気にさらされ、濡れた箇所に追い討ちをかけるように風でひやりと尻を冷やした。
帰路に向かう足を速め、烏の身体を通り過ぎる。少年は烏に対し怒りを覚えているわけではない。ただ冷気を帯びた尻をなんとかしたいがために足が速まっただけにすぎない。
三年の付き合いであるから、烏も少年が怒っているわけではないとわかっている。だから、少年の横に並び一緒に歩く。
人間の歩く速度は烏には速い。
しかし、今日に限っていえばそうでもない。それは、雪が少年の歩く速度を妨害しているからだ。
「なぁなぁ! 取材先はどうなった?」
興味と期待を含んだ声で烏が少年に問う。
「いけるかなと思ったんだけど駄目だった。まぁ、ちょうど繁殖時期終えたころだったから仕方ないか」
少年は残念そうに眉を少し下げて、ため息を吐く。ふっと吐かれた息は冷気と衝突し月白に染めた。
「ハンショク? もしかして、悟──まさか」
「下校中にマンホールから顔出してるドブネズミがいたから、声かけたんだけど子育てで忙しいから駄目だってさ。他のネズミも同じ理由で全然つかまらなかったよ」
鼠の繁殖ピークは春と秋である。それを知っていた烏は少年の繁殖という言葉で察したのだろう。
「取材の許可下りても下水管まで人間は入っていけないだろ」
「追跡できなくても話が聞けるならいいじゃん」
少年の放課後の自由時間は長い。それは、少年がどの部活にも所属していないからである。所属していないというのは語弊があるが、俗に言う幽霊部員というやつだ。因みに所属は写真部だ。写真部は入部届けを出して幽霊部員になる者が多い。
この少年が通う中学校は形だけでも部活に所属していないと教員がなにかと煩いのである。元々、帰宅部希望であった少年は真面目に部活する気はなかったため写真部に入部届けを提出したのだ。
帰宅部希望の理由、それは動物たちを追跡及び観察するため。
これは、誰かに頼まれたとかいうのではなく、単なる少年の好奇心である。
彼らは日頃どんなものを食べているのか、どんなことを話しているのか、どんな場所に住んでいるのか、どんなことを考えて生活しているのか、少年の疑問は尽きることがない。
だから、少年は取材しようとしたのだが、このように大きく行動を起こしたのは今回がはじめてのことだった。
それは、約三年前に起きた交通事故が関係している。
少年は不機嫌に眉間に皺を寄せた。それもそのはず、目の前にいる烏の声がなければ、ズボンを汚さず無事帰路に着けた可能性があったのだから。
少年は耳当て代わりにしていた無音のヘッドフォンを外し、それを首に掛ける。
「後ろからいきなり声をかけるなよ。いつも言ってるだろ?」
「ごめんごめん、つい癖で」
ヘッドフォンを外して烏の会話に応じたのは、単に聞き取りづらいからというわけではない。着けたままでも十分に声は届くのだが、これは人間同士で会話をするときの日頃の習慣からきているものである。
この烏と少年は三年ほどの付き合いがあり、友人のような仲である。漢字の成り立ちからして、友も人も人間同士の仲を表すものであるから、その観点でいえば友人と言ってしまっていいのか判断し難いところである。しかし、仮に烏が人間であったのなら友人といってもよいだろう。
つい癖でうっかり少年の後方から声をかけてしまった烏はあまり反省していないのか、少年に対していつもの喋る調子で軽く謝罪し、人間よりも短い首を使って数回頭を下げた。
痛みが完全に引いたわけではなかったが、動けそうなくらいには治ったため、少年はなんとか立ち上がる。ズボンが外気にさらされ、濡れた箇所に追い討ちをかけるように風でひやりと尻を冷やした。
帰路に向かう足を速め、烏の身体を通り過ぎる。少年は烏に対し怒りを覚えているわけではない。ただ冷気を帯びた尻をなんとかしたいがために足が速まっただけにすぎない。
三年の付き合いであるから、烏も少年が怒っているわけではないとわかっている。だから、少年の横に並び一緒に歩く。
人間の歩く速度は烏には速い。
しかし、今日に限っていえばそうでもない。それは、雪が少年の歩く速度を妨害しているからだ。
「なぁなぁ! 取材先はどうなった?」
興味と期待を含んだ声で烏が少年に問う。
「いけるかなと思ったんだけど駄目だった。まぁ、ちょうど繁殖時期終えたころだったから仕方ないか」
少年は残念そうに眉を少し下げて、ため息を吐く。ふっと吐かれた息は冷気と衝突し月白に染めた。
「ハンショク? もしかして、悟──まさか」
「下校中にマンホールから顔出してるドブネズミがいたから、声かけたんだけど子育てで忙しいから駄目だってさ。他のネズミも同じ理由で全然つかまらなかったよ」
鼠の繁殖ピークは春と秋である。それを知っていた烏は少年の繁殖という言葉で察したのだろう。
「取材の許可下りても下水管まで人間は入っていけないだろ」
「追跡できなくても話が聞けるならいいじゃん」
少年の放課後の自由時間は長い。それは、少年がどの部活にも所属していないからである。所属していないというのは語弊があるが、俗に言う幽霊部員というやつだ。因みに所属は写真部だ。写真部は入部届けを出して幽霊部員になる者が多い。
この少年が通う中学校は形だけでも部活に所属していないと教員がなにかと煩いのである。元々、帰宅部希望であった少年は真面目に部活する気はなかったため写真部に入部届けを提出したのだ。
帰宅部希望の理由、それは動物たちを追跡及び観察するため。
これは、誰かに頼まれたとかいうのではなく、単なる少年の好奇心である。
彼らは日頃どんなものを食べているのか、どんなことを話しているのか、どんな場所に住んでいるのか、どんなことを考えて生活しているのか、少年の疑問は尽きることがない。
だから、少年は取材しようとしたのだが、このように大きく行動を起こしたのは今回がはじめてのことだった。
それは、約三年前に起きた交通事故が関係している。