ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
あれから、また半月。
年末に近くなり、仕事も忙しくなってきたデザイナー見習いである新人の湖沼美兎だが。
錦に来ると、心はいつだって軽い。
だって、妖相手とは言え彼氏が出来たのだから。相手は、猫の頭を持っていても人間と同じ手足である猫人。
元地獄の獄卒であり、補佐官だった経歴を持つ素晴らしい猫人なのだ。名を、火坑と言う。
今日は比較的早く仕事が終わったので、彼の気に入りであるマカロンを購入してから界隈に向かっていた。そして角を曲がっていくと、すぐに小さな少女が顔を出してきたのだった。
「今日もご機嫌ねぇ?」
「だってだって! 火坑さんに会えるんだもん!」
彼女も妖だ。座敷童子と言う有名な家妖怪として伝えられる、幸運を運ぶ妖。
名を、真穂と言う。
通常は子供姿が多いが、人間界を行き来することがあるので年齢変化は自由自在。割りかし、美兎に合わせて大学生くらいになることが多い。
そして今は、美兎の守護妖怪として界隈に来るときの護衛をしているのだ。持ちつ持たれつ、美兎の霊力と馳走を報酬がわりにして。
だいたい美兎の仕事が終わり、錦の界隈に来る時はこうして出迎えに来てくれるのだ。
「はいはい。で、美兎」
「ん?」
「今忙しいのもわかるけど。一向にデートする日が作れてないじゃない? 火坑としたくないの?」
「で、デート!……したいけど。休日はバタンキューだし……」
「まあ、楽庵もかき入れ時だしね? けど、お互いの連絡先も交換したんでしょ? 真穂がいない時とかにやりとりしてるの?」
「し、しては……いるけど」
「けど?」
「火坑さん、自営業と同じだろうし。休日はゆっくりしてもらいたいなって……」
「ああ、もう! お互いが気ぃ遣い過ぎ!」
「お互い?」
なんのことだろうと首を傾げば、真穂はすぐに大学生くらいの姿に変化した。
「美兎が行けない日とかに聞いたのよ。自分から誘わないのかって。で、あっちも美兎と同じ答えだったわけ」
「火坑さん!」
「感心するとこじゃないんだから! 美兎が社会人なのはわかるけど、二人とも付き合ってるんだからもう少し欲張りになりなよ!?」
「え〜〜? 付き合えるだけで、充分欲張りだけど〜」
「惚気るのはいいから、とにかく行ってから切り出す!」
「は〜〜い」
たしかに。想いを交わした以降、店に出向いてもそれまでの客と店主のやりとりとほとんど変わっていなかった。
これまで、それぞれ自問自答していた時期があったことを思えば、十分な前進ではあっても。二人で出かけたり一緒に過ごす時間を持たないのは、たしかにもったいないかもしれない。
それに、あと数日で火坑の誕生日だ。
完全に忘れてたわけではないが、プレゼントはまだ選んでいない。
であれば、真穂の言う通り、きちんと火坑に伝えよう。彼が必死になって美兎に気持ちを伝えてくれたあの日のように、すれ違ったまま気持ちを言わないのはよくないから。
そうこうしているうちに、楽庵に到着して。扉を開けると、先客が居たのかカウンターに誰か座っていた。
「美兎さん、真穂さん。いらっしゃいませ」
「来たよ〜」
「こんばんは、火坑さん!」
一週間ぶりの、火坑の涼しい微笑み。それに思わず頬が緩んでしまうが、先客の前で緩み切ってはいけない。
ちらりと、そちらを見れば。これまた、凄い美形の男性が座っていた。外見は、ぬらりひょんの間半よりはいくらか若い。人間年齢ならば、五十代前後。
メッシュのように、銀髪が黒髪に混じっているがとてもお洒落だ。服装はきっちりとした和装。今は、熱燗を飲んでいるのかちびちびと杯を傾けていた。それだけで、まるでひとつの絵のように思えた。
「? あら、絵門じゃない?」
「……息災か。真穂よ」
「真穂ちゃん、お知り合い?」
「うん。牛鬼の絵門」
「ぎゅうき?」
「……我は、鬼の一種だ」
「鬼!?」
角もなにもないのに、全然恐ろしい印象を持られる鬼の類には見えない。つい口から、『本当に?』とこぼすと、絵門は杯をカウンターの卓に置いてから静かに頷いた。
「人化、をしているからな。本性であったら、ここの馳走を楽しめぬ」
「本性?」
「こいつの、てゆーか。牛鬼の本性はこっわいよ〜? 蜘蛛の体。鬼の頭。吐く息は毒とか。関西方面では結構有名かなあ? 浜辺にいる人間を襲うとか」
「……昔の話だ。今は人間を喰わぬ」
「そ、そう……ですか」
表情の変化こそないが、静かな雰囲気の妖なんだなと理解出来た。
とりあえず、立っているわけにもいかないので、席に着いてから火坑から熱いおしぼりを受け取った。
「本日の先付けは、枝豆です」
「じゃ、ビール!」
「あ、私も」
「はい。生と瓶ビールどちらになさいますか?」
「え、生始めたんですか?」
「はい! 師匠のツテで、ようやく設置出来ました!」
じゃじゃーん、と効果音がつくくらいに。火坑は得意げになって、厨房にある小ぶりではあるがビールサーバーを見せてくれたのだった。
「……それは酒だったのか?」
飲み終えたらしい絵門は、不思議そうに尋ねてきた。
「あの。ビール、知らないんですか?」
「ああ。名を知っている程度だ。たしか、泡が浮かぶと」
「発泡と言うお酒の種類なのですよ。他のお酒のように瓶入りもあるんですが、今日からこう言う機械でご提供出来るようにもなったんです!」
「ふむ。気になるな? 我もひとつ」
「おや、試飲は不要ですか?」
「構わん」
全員ジョッキで飲むことになり、練習したらしい火坑の注ぎ具合はとても様になっていた。
名古屋の駅前や錦のビル街名物である、夏のビアガーデンでの店員のように。美兎は会社の付き合いで今年一度だけ連れて行かれたことがあるのだ。
「お待たせ致しました! 生ビールです!」
透き通ったガラスのジョッキに注がれたのは、琥珀色のような淡い黄色の液体。上にはクリームのような泡。
まさしく、生ビールであったのだった。