俺はそっと真那へと近づいた。おそらく、これも映像なのだろう。彼女は自分の存在には気付かない。
 俺は諦めたように小さくため息をつくと、真那の手元を覗き込んだ。そこにあったのは小さな歯車や彼女が愛用していた工具たち。そして、あのオルゴールの姿も。
 するとふと視線を移した時、そんな風景とは不釣り合いな、リボンが巻かれた白い箱も置かれていることに気づいた。
 真那は握っていた工具を置くと、大切な宝物を両手でそっと持ち上げる。窓から差し込む月の光を浴びて、真那の指先に包まれたオルゴールは金色に輝いていた。
 彼女は愛おしいものを見つめるように瞳を和らげると、その口元を綻ばす。月明かりに照らされた彼女の頬が、ほんのりと赤く染まったのがわかった。
 俺はそんな真那の姿を見て、思わず胸の奥がぐっと熱くなるのを感じた。そしてこみ上げてくるのは、嘘偽りのない彼女への想い。届かないとわかっていながらも、俺は我慢できずに右手を伸ばした。

 真那――

 指先が彼女に触れる前に、暗闇が再び自分の視界を覆った。静寂が、何もかもを飲み込んでいくかのようにどこまでも広がっていく。それでも俺は、真那の姿を必死に探した。
 すると今度は暗闇の向こうから、誰かがすすり泣くような声が聞こえてくる。その声を頼りにゆっくりと近づいていくと、自分の目の前で小さな女の子がしゃがみ込んで泣いているのが見えた。髪を左右に括ったその幼い少女の後ろ姿に、俺は見覚えがあった。
 そっと女の子の後ろに近づいて覗き込むと、少女の足元にはバラバラになったオルゴールが散らばっていた。その光景を見た自分の脳裏に、真那のお爺さんが言っていた言葉が浮かぶ。

 おそらくこれは……真那がオルゴールを壊してしまった時の記憶。
 
 俺はそんなことを思うと、泣いている幼い真那の隣に座り込もうとした。と、その時。不意に背後から細い光が差し込んできた。見るとそこには、扉を開けて立っている幼い頃の自分がいた。
 彼はそのまま真那の方へと真っ直ぐに走ってくると、何やら一生懸命に言葉を伝えている。すると、大粒の涙を流していたはずの彼女がニコリと小さく微笑んだ。
 そして右手の小指を立てると、それを幼い自分へと向ける。少年は少し恥ずかしそうに頭をかいた後、同じように右手の小指を伸ばした。
 大切な繋がりを確かめ合うように結ばれた二人の指を見て、俺はかつての記憶を思い出した。
 落ち込んでいた真那に桜の木を見せてあげると約束したのは、それは彼女がオルゴールを壊してしまった時のことだったんだ。
  幼い自分との約束に、嬉しそうな表情を浮かべる真那を見て、俺の心にじわりと懐かしさが込み上げてくる。
 そんなことを感じていると、ふと目の前に、一枚の桜の花びらが舞っていることに気付いた。
 暗闇の中でもはっきりとわかるその花びらに手を伸ばそうとした時、突然頭上から温かい光が降り注ぐ。そして辺りは一瞬にして薄桃色の輝きで満たされた。
 見上げると、そこには満開の桜と、丸く切り取られた青空。

「ここは……」
 
 周囲を見渡すと、いつの間にか自分は、あの桜の木の真下に立っていた。目の前には、楽しそうに笑い声をあげる幼い頃の自分たち。無邪気な笑顔を浮かべる少女が拙い手でカメラを構えている。
 この桜の色と同じように、永遠に色褪せることのない大切な思い出。
 熱くなっていく瞳でそんな光景を見ていた時、ふと自分の隣に誰かが立っていることに気づいた。
 二つに括った髪を風でなびかせながら、そこには自分と同じようにあの頃の思い出を見つめている真那の姿があった。
 驚いた俺が思わず彼女の名を呟くと、その声は届いたのか、真那はそっとこちらを振り向く。そしてニコリと微笑んだ瞬間、彼女の身体は無数の桜の花びらへと姿を変えて風に舞った。

「真那……」
 
 天真爛漫な彼女のように自由に空を舞う桜の花びらが自分の身体に触れるたびに、頭の中には真那の記憶と感情が浮かび上がっていく。
 それは俺自身も知らなかった、彼女の本当の気持ち。 

 ああ、そうだったんだ……

 自分の心に次々と流れ込んでくる真那の想いを受け止めようと、俺は静かに瞼を閉じる。
 どうやら偉大な発明家であった彼女は、一つだけ嘘をついていたようだ。
 そのことに気付いてふっと口元を綻ばした時、溢れ出した感情が俺の頬を伝っていくつも流れ落ちた。
 あのオルゴールに閉じ込めていたのは、自分の情けない恋心なんかじゃなかった。

 それは、真那がずっと昔から大切にしていた、彼女自身の『初恋』だったのだ。