俺は静かに息を吐き出すと、オルゴールの蓋を閉じようとした。その時、指先がわずかに触れた表面に小さな亀裂が入った。すると、役目を終えたオルゴールは、その身を天に返すかのようにバラバラに崩れていく。
 慌てた俺が手のひらから転がり落ちた小さな歯車を拾い上げようとした時、ふと何処からともなく、柔らかな金属音が聴こえてきた。それはゆっくりとリズムを刻みながら、徐々に馴染みのあるメロディを形成していく。

 え?
 
 驚いた俺が再び顔を上げると、辺りは夜の暗闇とは違う、真っ暗な世界に包まれていた。
 何も見えない、誰もいない空間で、俺は慌てて周囲を見渡す。すると暗闇の向こうで、微かな光がぼんやりと浮かび上がった。
 カゲロウのように揺らめくその小さな光は、少しずつ大きくなっていくと、やがて人の形へと姿を変えていく。それが誰なのかわかった瞬間、俺は思わず叫んだ。

「真那!」
 
 目の前に現れたのは、もう二度と会うことができないと思っていた真那の姿だった。こちらの声は聞こえないのか、彼女は一点を見つめたまま立ち止まっている。
 急いで駆け寄った俺が彼女に手を伸ばすと、何故か自分の指先は触れることなく真那の身体を透過してしまう。

「真那……おい、真那!」
 
 すぐ側で彼女の名前を呼んでも、相手は気づかない。まるで、ただの映像を見ているかのようだ。
 それでも諦めきれずに再び彼女の名前を叫ぼうとした時、真那の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。慌てた俺が何度も呼びかけるも、やはり自分の声は届かない。
 すると、一人暗闇に閉じ込められて不安で泣いているのかと思った彼女の口元が、嬉しそうに弧を描いた。そして真那は両手でゴシゴシと目元を拭うと、今度はゆっくりと歩き始めた。その表情は、自分が大好きだったいつもの笑顔に戻っている。
 俺は、暗闇の中を進んでいく彼女の後ろをついて歩いた。どこに向かっているのか、目の前を歩く真那は迷うこともなく、真っ直ぐに突き進んでいく。
 すると前方に、小さな光が現れた。
 その光は少しずつ赤みを増していくと、突然花火のように盛大に散って周囲を光で覆った。 
 あまりの眩しさに目を瞑っていた俺が再びゆっくりと瞼を上げると、辺りはいつの間にか、黄昏色に染まる見慣れた公園の風景に変わっていた。
「え?」と驚きのあまり声を漏らすと、目の前には、同じように驚いた表情を浮かべているもう一人の自分の姿。その後ろには、剥製のように翼を広げたまま固まっている一羽の鳩。
 
 これって……
 
 呆然と立ち尽くしているもう一人の自分の視線の先には、夕焼けを背にしてその輪郭を赤く輝かせている真那の姿があった。彼女は嬉しそうに話しながら、もう一人の自分へと近づいていく。
 
 やっぱりそうだ……これは、オルゴールを初めて鳴らした時の記憶だ。
 
 それに気付いた瞬間、辺りが再び暗闇に飲み込まれた。
 真っ暗になった静かな空間で、俺はさっきまでいたはずの真那の姿を探す。するとどこからか、金属を叩くような音が聞こえてきた。
 音が聞こえる方を振り向くと、目の前に現れたのは、夜の静けさに包まれた家のガレージだった。そして、あの作業台で真剣な表情をしながら何か作っている真那の姿も見える。