初恋オルゴールで君は再び蘇る

 自分にとってけじめとなる日は、雲一つ見当たらないほどの快晴だった。
 俺は普段滅多に通ることのない山手に向かう道を進んでいき、数年ぶりにあの桜の木がある公園へと訪れていた。時刻は正午を少し回ったところで、公園の中は家族連れで賑わっていた。
 アスレチックやキャンプ場、それにボルダリング。県内最大を誇るこの大きな公園は最近改修されたらしく、俺が知っていた頃とは随分と姿が変わっていた。
 
 あの桜の木は、まだあるのだろうか……

 俺はそんな不安を感じながら公園の中を一人歩く。桜の木があったのは公園のはずれで、ほとんど人がこないような場所だった。それに茂みをかき分けた奥にあったので、たぶん何も変わっていないはずだ。
 そんな心許ない期待で無理やり不安を押し込めると、俺は記憶の地図を頼りに足を進める。
 しばらく歩いていると見覚えのある景色の中に鬱蒼と草木が育っている茂みが見えてきた。あそこだ、と俺は思わず声を漏らすと一直線にその茂みへと向かっていく。おそらく幼い時の自分は、あの茂みから入ったはずだ。
 無邪気にどこへでも行けたあの頃とは違い、人目も多い中で同じルートを辿っていくことに抵抗を感じていると、ふと視線をずらした先に舗装された狭い道があることに気づいた。当時からあったのか、それとも最近作られたのかわからないが、俺はほっと胸をなでおろすとその石畳の道まで向かっていく。そして楽しそうに遊ぶ子供たちの声を背中で聞きながら、誰もいない石畳の上をゆっくりと進んでいった。

「たぶんこの先にあるはずだ……」
 
 大人一人しか通れないような狭い道の両側には、夏を感じさせる草木や花たちが、太陽の光を浴びて輝いていた。
 何度か曲がり角を曲がり、そして緩かな坂道を登っていくと、ふいに視界が開けた。その瞬間、俺は芝生が生茂るエアポケットのような場所に出る。

「あった!」

 思わず声を上げた自分の視線の先には、あの頃よりも随分と大きくなった桜の木があった。もちろん桜の花は咲いていないけれど、特徴的な形をした枝を伸ばしているその木は、間違いなく同じものだ。

「良かった……」

 変わることなく存在した思い出の場所に、俺はほっと息を漏らした。そしてゆっくりと桜の木へと近づく。ふと隣を見ると、どうやらこの場所も手が加えられていたようで、公園の裏口へと降りることができる階段があることに気づいた。その向こうには貨物トラックが行き交う大きな道路も見える。
 かなり遠回りしてしまった自分に一瞬恥ずかしくなってしまったが、そんな感情も桜の木の真下に立つとすぐに消えてしまった。

「……」
 
 自分たちと同じだけ歳月を重ねた桜の木は、その枝をさらに大きく伸ばして隙間から覗く青空を抱きしめていた。瑞々しいほどの葉の色と、どこまでも突き抜ける空の青さが見事に合わさっていて、それはどこか幻想的にも見えた。
 俺はゆっくりと深呼吸をすると、夏の桜を見上げながら、真那に伝えるべき言葉を心の中で探した。
 長い間伝えることができなかった、自分の本当の気持ちを伝えるための言葉を……
 一週間の中で人の心が最も開放的になる曜日は、どこに行っても混雑していた。
 私は賑やかな大通りを見渡しながらそんなことを思う。その時ふと、道の両側に桜の木が植えられていることに気づいた。

「……」
 
 歩に、お姉ちゃんが桜を好きだったかと聞かれた時、頭の中に真っ先に浮かんだのはあの場所だった。
 機械いじりが好きだったお姉ちゃんは、植物や花にはあまり興味がなかったけれど、桜の花だけは昔から好きだった。それは、桜が好きだったというよりも、彼女にとって大切な思い出があったからだと思う。 
 いつかお姉ちゃんがこっそりと教えてくれた秘密の場所。
 嬉しそうに話すお姉ちゃんの言葉を、あの時の私はたぶん素直な気持ちで聞くことはできていなかったと思う。
 私はそんなことを思い返すと、無意識に大きなため息をついた。
 かつて歩がお姉ちゃんの為に見つけたという秘密の場所は、当時の自分にとっても何だかとても悔しくて、あまり訪れたいとは思わなかった。
 なのに今、私はお姉ちゃんが教えてくれたあの場所へと向かっている。
 信号待ちをしていた横断歩道を渡ると、商店街の入り口手前で右に曲がり、裏通りへと入る。クリーム色をしたレンガが敷き詰められたその道の上には、その色を活かすかのように、わりと有名なカフェやアパレルショップなどの色彩豊かなお店が軒を連ねている。
 空の青さも相まってオシャレな雰囲気を醸し出すこの場所は、デートスポットとしても有名なのか、自分と年が近そうなカップルたちの姿もちらほらと映った。
 目の前で仲睦まじく手を繋ぐそんなカップルの後ろ姿に、思わず胸の中がチクリと痛んだ。 
 私はズボンのポケットからスマホをそっと取り出すと、ラインのアプリを開く。表示された彼の名前に、じわりと心に寂しさが顔を出す。
 文化祭の準備の時、歩にひどいことを言ってしまってから、彼とは何も話していない。その後、心配した歩がメッセージを送ってきてくれたのに、未だに返信できずにいた。
 歩へのメッセージを打ち込んでいた指先を途中で止めて、私はラインのアプリを閉じると小さく息を吐き出した。時間が経てば経つほど、何を伝えればいいのかわからなくなる。
 
 やっぱり、直接会ってちゃんと話したほうがいいのかな……
 
 そんなことを悩んでいた時、ふと甘い香りが鼻先をふわりとかすめた。覚えのある匂いにチラリと横を見ると、パステルカラーの屋根をしたお店のガラスケースに、いつか歩が美味しいと言っていたショコラクッキーが並んでいた。その光景に、思わず私の足が止まる。

「……」
 
 そのまま通り過ぎようかとも一瞬思ったが、自分の意思とは関係なく、踏み出した足はお店の方へとつま先を向けようとする。私は諦めてため息を漏らすと、甘い香りに誘われるまま、ゆっくりとお店に向かって歩き出した。

「いらっしゃいませ」
 
 私が近づいてきたことに気付いたパティシエの格好をしたスタッフがニコリと微笑んだ。私はその女性に小さく頭を下げると、ガラスケースの中を覗き込む。そこにはショコラクッキー以外にも、宝石のようなお菓子たちが色とりどりに並んでいた。
 私はその中から値札に『おすすめ!』とシールが貼られたお菓子と、あの時歩が食べたショコラクッキーを注文した。それを手際良く紙袋に詰めていくパティシエを見つめていた私は、少しぎこちない口調で口を開く。

「あの……ラッピング包装とかお願いできますか?」
 
 少し伏し目がちにそんなことを尋ねると、「はい、できますよ」とパティシエはにっこりと微笑んだ後、サンプルで飾っていたラッピング用のリボンを手に取った。
 どの色のリボンにしますか? と聞かれた私は、目の前に並ぶリボンを見つめる。そして、その中の一つをゆっくりと指差した。歩が好きな、青色に。
 お会計を済ませ、小さな紙袋を受け取った私は、再び目的地へと足を向ける。胸元でぎゅっと握りしめたお詫びの気持ちからは、わずかに甘い香りが漂っていた。
 裏通りを抜けると、今度は目の前に大きな道路が見えてくる。その道路を右へ右へと視線を移していくと、視界の中に公園が映った。

「まだあるのかな……」
 
 かつてお姉ちゃんが話していた桜の木は、あの公園にあるはずだ。

 歩が教えてくれた桜の木はね、公園の端っこにあるんだよーー

 そう言って嬉しそうな表情を浮かべていたお姉ちゃんの姿に、チクリと胸が疼いた。
 私は教えてもらった通り、公園の正面入り口には向かわず、裏手の方へと歩いていく。しばらく進んでいると、目の前に大きな横断歩道が見えてきた。その先には、おそらく目的の場所へと繋がる階段の姿も。
 今更になってこの場所に訪れたのは、自分の中でケジメをつけたいと思ったからだ。
 お姉ちゃんが亡くなった事実から目を背けていたように、私は歩に対しての想いからも逃げ続けてきた。
 でもそれは、どれだけ隠そうとしても、月日が経つにつれて大きくなるばかりだった。花火大会の時も、この前の文化祭の準備の時も。 
 きっとこのままだと私は歩に迷惑をかけ続けることになる。そんなこと、全然望んでいないのに。
 だから私は、歩がお姉ちゃんのことを想っている事実も受け入れて、それでも彼とちゃんと向き合おうと決めた。その最初の一歩として、私はここに訪れたのだ。この場所にくれば、何か自分の気持ちが変わるんじゃないかと思って。
 そんなことを考えながら、私は信号が青になると同時に横断歩道を渡り始めた。向き合うべき自分の気持ちから逃げないために、ぐっと両足に力を入れて横断歩道を渡り切ろうとした時、ふと視界の隅にぼんやりとトラックの姿が見えた。
 すると突然、そのまま過ぎ去っていくと思ったトラックが進路を変えて自分の方へと向かってくる。

 え?
 
 声を漏らすよりも前に、巨大な鉄の塊はあっという間に目前へと迫っていた。恐怖のあまりまったく動かなくなった両足とは反対に、心臓だけが激しく脈打つ。
 助けてと声を絞りだそうとするも、先に鼓膜を貫いたのはクラクションの音。直後、視界のすべてを真っ暗な影が覆った。

 椿――

 意識が途切れる刹那、私の脳裏に浮かんだのは、笑顔で自分の名を呼んでくれる歩の姿だった。
 しばらく桜の木の下で、俺は真那に伝えるべき言葉を考えていた。会えるのがこれで最後だと思うと、込み上げてくる気持ちの方が大き過ぎて、うまく言葉にまとめることができない。
 俺はそんなことを思いため息をつくと、再び桜の木を見上げた。かつて真那が嬉しそうに言っていた空の窓からは、柔らかな陽の光が降り注いでくる。

 せめて最後は、この気持ちを真那に伝えたい……
 
 どれだけ悔やんだとしても、真那と会えるのはこれが最後。この先はもう、彼女が起こしてくれる奇跡はない。そんなものに、甘えることはできないのだ。だから……
 やっと言葉も決意も固まった俺は、ズボンのポケットからゆっくりとオルゴールを取り出す。そして深く深呼吸をすると、右手の指先を静かにそっとオルゴールに近づけた。
 と、その時だった。
 視界の隅に見覚えのある姿が映り、俺は思わず手を止める。
 
 ……椿?

 視線の先、階段を降りてすぐ目の前にある横断歩道を歩いていたのは、こちらへと向かってくる椿だった。何かを大切そうに抱えている彼女は、まだ自分の存在に気づいていない。
 
 どうして椿がここに? 
 
 俺がそんな疑問を感じていた時、今度は視界の隅から一台のトラックが走ってくるのが見えた。
 横断歩道の信号は青。でもなぜか、背中に嫌な感覚が走った。
 すると突然、トラックはウィンカーも出さずに椿がいる方へと進路を変える。その瞬間、俺の心臓が大きく脈打った。

「椿!」
 
 咄嗟に彼女の名を叫ぶも、耳をつんざくようなクラクションの音によってすぐにかき消される。俺は無我夢中でオルゴールを握りしめると、祈る思いでその蓋を開けた。

 お願いだ、間に合ってくれ!

 パチン、という音が耳に届くと同時に、俺は目の前にある階段へと飛び出した。張り裂けそうな心臓の鼓動を感じながら、視線の先にはトラックとぶつかる寸前のところで固まっている椿の姿。
 俺は瞬きも忘れて、全力で彼女のもとへと走っていく。階段を降りる度に、ちぎれそうな痛みが太ももを襲う。それでも俺は、いつ途切れるかわからない、時間が止まった世界の中を駆け抜けた。

「歩!」
 
 不意に背中越しから真那の叫び声が聞こえた。その声はいつもの彼女とは違い、悲痛なほど恐怖が滲み出ていた。
 俺は振り返ることなく、今にも消えていきそうな命に向かって一直線に走った。脳裏には、去年真那が亡くなった時、病室で泣き崩れていた椿たち家族の姿がよぎる。
 助けることも、見届けることもできなかった真那の命。もう二度と、あんな思いだけはしたくない。
  踏み出した右足が横断歩道に届いた瞬間、耳に響いていたオルゴールの音色が弱くなった。 
 俺はありったけの力を両足に込めると、目の前にいる椿に向かって全力で飛び出した。精一杯伸ばした指先が、彼女の肩に触れる。
 その瞬間、耳に聞こえていたはずのオルゴールの音色がぷつりと途切れた。直後、再び激しいクラクションの音が鼓膜を襲う。
 俺は椿を強く抱きしめると、そのまま前方へと飛び込む。宙に投げ出された自分の身体は、椿を抱きしめたまま歩道へと着地した。その瞬間、背中に走った激痛に俺は思わず目を閉じる。
 痛みに耐えるようにぐっと息をこらえていると、真っ暗になった世界の中で、胸元でかすかに震えている椿の温もりを感じた。俺がそっと目を開けると、彼女は顔を埋めるようにして泣いていた。

「……大丈夫か?」
 
 俺が静かに尋ねると、椿は顔を埋めたままコクンと小さく頷いた。そんな彼女を見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。そのまま視線を空に向けると、青い世界には何事もなかったかのように白い雲が穏やかに泳いでいた。それはまるで、動き出した時間がゆっくりと未来に向かって進んでいくかのように。
 俺は深く息を吸い込むと、上半身を持ち上げようと両腕に力を込める。と、その時。動かした右手に何かが当たり、俺はチラリと視線を向けた。するとそこには、蓋が割れたオルゴールの姿。

「……」
 
 俺は右手でそっとオルゴールを包み込むと、その感触を確かめるように握りしめる。手のひらから伝わってくるのは、かつて自分がかけがえのない人と一緒に生きていたという証。
 
 結局、最後の最後まで自分の気持ちを伝えることはできなかったか……
 
 俺はそんなことを思うと、胸元で泣き続ける椿を見てから静かに瞼を閉じた。そして、助けることができた命の温もりを、もう一度胸の中で感じてみる。
 
 でも……これで、もういいんだ。

 俺は握っていたオルゴールをそっとポケットへと戻す。大切な妹を助けることができたのだから、きっと真那も許してくれるだろう。
 そう思いながらゆっくりと目を開けると、俺は再び陽の光に満ちた世界を見た。視線の先には、先ほどと変わらず静かに佇んでいる桜の木。
 柔らかな風がその枝を揺らした時、何故か一瞬、桜の木の下で真那が笑っているような気がした。
 今日という日の終わりを告げるかのように、西に傾き始めた太陽は、その身を赤く燃やしながら地平線へと沈んでいく。見上げたジャングルジムの遥か頭上では、気の早い星たちが小さな光を灯していた。
 赤にも、黒にもなれない空の色を眺めながら、俺は自分の気持ちも同じように中途半端なまま、もう戻すことができないような気がしていた。

 教えてほしかった。
 
 知りたかった。
 
 真那にとって、自分はどんな存在だったのかを。
 
 そして伝えたかった。
 
 自分がどれほど彼女のことが好きで、その気持ちを声にして届けたかったかということを。
 
 何百回と真那と一緒に見てきた街の景色には、消えていきそうな彼女との思い出を繋ぎとめるかのように、一つ、またひとつと窓の明かりが灯り始める。
 俺はポケットからそっとオルゴールを取り出す。簡単に蓋が開いてしまうオルゴールは、まるで命を失ってしまった抜け殻のように軽く感じた。ほのかに金色に輝いていた真那からのプレゼントは、弱々しくなっていく西陽とともに、その鮮やかさを失っていく。
 そしてオルゴールが夜の色に包み込まれると、辺りにはロウソクの火を消したようにふっと静けさだけが残った。
 俺は静かに息を吐き出すと、オルゴールの蓋を閉じようとした。その時、指先がわずかに触れた表面に小さな亀裂が入った。すると、役目を終えたオルゴールは、その身を天に返すかのようにバラバラに崩れていく。
 慌てた俺が手のひらから転がり落ちた小さな歯車を拾い上げようとした時、ふと何処からともなく、柔らかな金属音が聴こえてきた。それはゆっくりとリズムを刻みながら、徐々に馴染みのあるメロディを形成していく。

 え?
 
 驚いた俺が再び顔を上げると、辺りは夜の暗闇とは違う、真っ暗な世界に包まれていた。
 何も見えない、誰もいない空間で、俺は慌てて周囲を見渡す。すると暗闇の向こうで、微かな光がぼんやりと浮かび上がった。
 カゲロウのように揺らめくその小さな光は、少しずつ大きくなっていくと、やがて人の形へと姿を変えていく。それが誰なのかわかった瞬間、俺は思わず叫んだ。

「真那!」
 
 目の前に現れたのは、もう二度と会うことができないと思っていた真那の姿だった。こちらの声は聞こえないのか、彼女は一点を見つめたまま立ち止まっている。
 急いで駆け寄った俺が彼女に手を伸ばすと、何故か自分の指先は触れることなく真那の身体を透過してしまう。

「真那……おい、真那!」
 
 すぐ側で彼女の名前を呼んでも、相手は気づかない。まるで、ただの映像を見ているかのようだ。
 それでも諦めきれずに再び彼女の名前を叫ぼうとした時、真那の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。慌てた俺が何度も呼びかけるも、やはり自分の声は届かない。
 すると、一人暗闇に閉じ込められて不安で泣いているのかと思った彼女の口元が、嬉しそうに弧を描いた。そして真那は両手でゴシゴシと目元を拭うと、今度はゆっくりと歩き始めた。その表情は、自分が大好きだったいつもの笑顔に戻っている。
 俺は、暗闇の中を進んでいく彼女の後ろをついて歩いた。どこに向かっているのか、目の前を歩く真那は迷うこともなく、真っ直ぐに突き進んでいく。
 すると前方に、小さな光が現れた。
 その光は少しずつ赤みを増していくと、突然花火のように盛大に散って周囲を光で覆った。 
 あまりの眩しさに目を瞑っていた俺が再びゆっくりと瞼を上げると、辺りはいつの間にか、黄昏色に染まる見慣れた公園の風景に変わっていた。
「え?」と驚きのあまり声を漏らすと、目の前には、同じように驚いた表情を浮かべているもう一人の自分の姿。その後ろには、剥製のように翼を広げたまま固まっている一羽の鳩。
 
 これって……
 
 呆然と立ち尽くしているもう一人の自分の視線の先には、夕焼けを背にしてその輪郭を赤く輝かせている真那の姿があった。彼女は嬉しそうに話しながら、もう一人の自分へと近づいていく。
 
 やっぱりそうだ……これは、オルゴールを初めて鳴らした時の記憶だ。
 
 それに気付いた瞬間、辺りが再び暗闇に飲み込まれた。
 真っ暗になった静かな空間で、俺はさっきまでいたはずの真那の姿を探す。するとどこからか、金属を叩くような音が聞こえてきた。
 音が聞こえる方を振り向くと、目の前に現れたのは、夜の静けさに包まれた家のガレージだった。そして、あの作業台で真剣な表情をしながら何か作っている真那の姿も見える。
 俺はそっと真那へと近づいた。おそらく、これも映像なのだろう。彼女は自分の存在には気付かない。
 俺は諦めたように小さくため息をつくと、真那の手元を覗き込んだ。そこにあったのは小さな歯車や彼女が愛用していた工具たち。そして、あのオルゴールの姿も。
 するとふと視線を移した時、そんな風景とは不釣り合いな、リボンが巻かれた白い箱も置かれていることに気づいた。
 真那は握っていた工具を置くと、大切な宝物を両手でそっと持ち上げる。窓から差し込む月の光を浴びて、真那の指先に包まれたオルゴールは金色に輝いていた。
 彼女は愛おしいものを見つめるように瞳を和らげると、その口元を綻ばす。月明かりに照らされた彼女の頬が、ほんのりと赤く染まったのがわかった。
 俺はそんな真那の姿を見て、思わず胸の奥がぐっと熱くなるのを感じた。そしてこみ上げてくるのは、嘘偽りのない彼女への想い。届かないとわかっていながらも、俺は我慢できずに右手を伸ばした。

 真那――

 指先が彼女に触れる前に、暗闇が再び自分の視界を覆った。静寂が、何もかもを飲み込んでいくかのようにどこまでも広がっていく。それでも俺は、真那の姿を必死に探した。
 すると今度は暗闇の向こうから、誰かがすすり泣くような声が聞こえてくる。その声を頼りにゆっくりと近づいていくと、自分の目の前で小さな女の子がしゃがみ込んで泣いているのが見えた。髪を左右に括ったその幼い少女の後ろ姿に、俺は見覚えがあった。
 そっと女の子の後ろに近づいて覗き込むと、少女の足元にはバラバラになったオルゴールが散らばっていた。その光景を見た自分の脳裏に、真那のお爺さんが言っていた言葉が浮かぶ。

 おそらくこれは……真那がオルゴールを壊してしまった時の記憶。
 
 俺はそんなことを思うと、泣いている幼い真那の隣に座り込もうとした。と、その時。不意に背後から細い光が差し込んできた。見るとそこには、扉を開けて立っている幼い頃の自分がいた。
 彼はそのまま真那の方へと真っ直ぐに走ってくると、何やら一生懸命に言葉を伝えている。すると、大粒の涙を流していたはずの彼女がニコリと小さく微笑んだ。
 そして右手の小指を立てると、それを幼い自分へと向ける。少年は少し恥ずかしそうに頭をかいた後、同じように右手の小指を伸ばした。
 大切な繋がりを確かめ合うように結ばれた二人の指を見て、俺はかつての記憶を思い出した。
 落ち込んでいた真那に桜の木を見せてあげると約束したのは、それは彼女がオルゴールを壊してしまった時のことだったんだ。
  幼い自分との約束に、嬉しそうな表情を浮かべる真那を見て、俺の心にじわりと懐かしさが込み上げてくる。
 そんなことを感じていると、ふと目の前に、一枚の桜の花びらが舞っていることに気付いた。
 暗闇の中でもはっきりとわかるその花びらに手を伸ばそうとした時、突然頭上から温かい光が降り注ぐ。そして辺りは一瞬にして薄桃色の輝きで満たされた。
 見上げると、そこには満開の桜と、丸く切り取られた青空。

「ここは……」
 
 周囲を見渡すと、いつの間にか自分は、あの桜の木の真下に立っていた。目の前には、楽しそうに笑い声をあげる幼い頃の自分たち。無邪気な笑顔を浮かべる少女が拙い手でカメラを構えている。
 この桜の色と同じように、永遠に色褪せることのない大切な思い出。
 熱くなっていく瞳でそんな光景を見ていた時、ふと自分の隣に誰かが立っていることに気づいた。
 二つに括った髪を風でなびかせながら、そこには自分と同じようにあの頃の思い出を見つめている真那の姿があった。
 驚いた俺が思わず彼女の名を呟くと、その声は届いたのか、真那はそっとこちらを振り向く。そしてニコリと微笑んだ瞬間、彼女の身体は無数の桜の花びらへと姿を変えて風に舞った。

「真那……」
 
 天真爛漫な彼女のように自由に空を舞う桜の花びらが自分の身体に触れるたびに、頭の中には真那の記憶と感情が浮かび上がっていく。
 それは俺自身も知らなかった、彼女の本当の気持ち。 

 ああ、そうだったんだ……

 自分の心に次々と流れ込んでくる真那の想いを受け止めようと、俺は静かに瞼を閉じる。
 どうやら偉大な発明家であった彼女は、一つだけ嘘をついていたようだ。
 そのことに気付いてふっと口元を綻ばした時、溢れ出した感情が俺の頬を伝っていくつも流れ落ちた。
 あのオルゴールに閉じ込めていたのは、自分の情けない恋心なんかじゃなかった。

 それは、真那がずっと昔から大切にしていた、彼女自身の『初恋』だったのだ。

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