しばらく桜の木の下で、俺は真那に伝えるべき言葉を考えていた。会えるのがこれで最後だと思うと、込み上げてくる気持ちの方が大き過ぎて、うまく言葉にまとめることができない。
 俺はそんなことを思いため息をつくと、再び桜の木を見上げた。かつて真那が嬉しそうに言っていた空の窓からは、柔らかな陽の光が降り注いでくる。

 せめて最後は、この気持ちを真那に伝えたい……
 
 どれだけ悔やんだとしても、真那と会えるのはこれが最後。この先はもう、彼女が起こしてくれる奇跡はない。そんなものに、甘えることはできないのだ。だから……
 やっと言葉も決意も固まった俺は、ズボンのポケットからゆっくりとオルゴールを取り出す。そして深く深呼吸をすると、右手の指先を静かにそっとオルゴールに近づけた。
 と、その時だった。
 視界の隅に見覚えのある姿が映り、俺は思わず手を止める。
 
 ……椿?

 視線の先、階段を降りてすぐ目の前にある横断歩道を歩いていたのは、こちらへと向かってくる椿だった。何かを大切そうに抱えている彼女は、まだ自分の存在に気づいていない。
 
 どうして椿がここに? 
 
 俺がそんな疑問を感じていた時、今度は視界の隅から一台のトラックが走ってくるのが見えた。
 横断歩道の信号は青。でもなぜか、背中に嫌な感覚が走った。
 すると突然、トラックはウィンカーも出さずに椿がいる方へと進路を変える。その瞬間、俺の心臓が大きく脈打った。

「椿!」
 
 咄嗟に彼女の名を叫ぶも、耳をつんざくようなクラクションの音によってすぐにかき消される。俺は無我夢中でオルゴールを握りしめると、祈る思いでその蓋を開けた。

 お願いだ、間に合ってくれ!

 パチン、という音が耳に届くと同時に、俺は目の前にある階段へと飛び出した。張り裂けそうな心臓の鼓動を感じながら、視線の先にはトラックとぶつかる寸前のところで固まっている椿の姿。
 俺は瞬きも忘れて、全力で彼女のもとへと走っていく。階段を降りる度に、ちぎれそうな痛みが太ももを襲う。それでも俺は、いつ途切れるかわからない、時間が止まった世界の中を駆け抜けた。

「歩!」
 
 不意に背中越しから真那の叫び声が聞こえた。その声はいつもの彼女とは違い、悲痛なほど恐怖が滲み出ていた。
 俺は振り返ることなく、今にも消えていきそうな命に向かって一直線に走った。脳裏には、去年真那が亡くなった時、病室で泣き崩れていた椿たち家族の姿がよぎる。
 助けることも、見届けることもできなかった真那の命。もう二度と、あんな思いだけはしたくない。
  踏み出した右足が横断歩道に届いた瞬間、耳に響いていたオルゴールの音色が弱くなった。 
 俺はありったけの力を両足に込めると、目の前にいる椿に向かって全力で飛び出した。精一杯伸ばした指先が、彼女の肩に触れる。
 その瞬間、耳に聞こえていたはずのオルゴールの音色がぷつりと途切れた。直後、再び激しいクラクションの音が鼓膜を襲う。
 俺は椿を強く抱きしめると、そのまま前方へと飛び込む。宙に投げ出された自分の身体は、椿を抱きしめたまま歩道へと着地した。その瞬間、背中に走った激痛に俺は思わず目を閉じる。
 痛みに耐えるようにぐっと息をこらえていると、真っ暗になった世界の中で、胸元でかすかに震えている椿の温もりを感じた。俺がそっと目を開けると、彼女は顔を埋めるようにして泣いていた。

「……大丈夫か?」
 
 俺が静かに尋ねると、椿は顔を埋めたままコクンと小さく頷いた。そんな彼女を見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。そのまま視線を空に向けると、青い世界には何事もなかったかのように白い雲が穏やかに泳いでいた。それはまるで、動き出した時間がゆっくりと未来に向かって進んでいくかのように。
 俺は深く息を吸い込むと、上半身を持ち上げようと両腕に力を込める。と、その時。動かした右手に何かが当たり、俺はチラリと視線を向けた。するとそこには、蓋が割れたオルゴールの姿。

「……」
 
 俺は右手でそっとオルゴールを包み込むと、その感触を確かめるように握りしめる。手のひらから伝わってくるのは、かつて自分がかけがえのない人と一緒に生きていたという証。
 
 結局、最後の最後まで自分の気持ちを伝えることはできなかったか……
 
 俺はそんなことを思うと、胸元で泣き続ける椿を見てから静かに瞼を閉じた。そして、助けることができた命の温もりを、もう一度胸の中で感じてみる。
 
 でも……これで、もういいんだ。

 俺は握っていたオルゴールをそっとポケットへと戻す。大切な妹を助けることができたのだから、きっと真那も許してくれるだろう。
 そう思いながらゆっくりと目を開けると、俺は再び陽の光に満ちた世界を見た。視線の先には、先ほどと変わらず静かに佇んでいる桜の木。
 柔らかな風がその枝を揺らした時、何故か一瞬、桜の木の下で真那が笑っているような気がした。