家についた頃、自分の身体は雨と泥でひどく汚れていた。昇降口からの帰り際、気を遣った和輝が自分のユニフォームを貸そうかと言ってくれたが、俺はその気持ちだけを受け取ることにして遠慮した。
 玄関へと上がるとそのまま真っ直ぐ風呂場へと向かいシャワーを浴びる。全身に降り注ぐお湯よりも、胸の奥の方が熱を灯しているような気がした。それはきっと、失ってしまったと思っていた繋がりが、今も続いていたことに気づけたからかもしれない。
 シャワーを浴びてから部屋に戻った俺は、ベッドに腰掛けるとスマホを見た。ラインアプリを確認すると椿へ送ったメッセージは既読にはなっていたが、返信はまだない。
 俺は小さく息を吐き出すと、そのままベッドの上で仰向けになる。瞼を閉じると、真っ暗になった世界の中、耳の奥から微かに聞こえてくるのは心臓の音。それは決断を迫るように、いつもより少し早いリズムで脈打っている。
 俺は再び目を開けてゆっくりと上半身を起こすと、机の上に置いているカレンダーを見た。並ぶ日付を見て思い出すのは、時間が止まっていた煌びやかな海に、永遠に闇夜を照らすかのように輝いていた盛大な花火。それに家のガレージや、二人で過ごしたこの部屋。
 その全ての思い出に、鮮やかすぎるほど真那の姿が一緒に映る。わずか十分間という短い時間の中で、俺は充分過ぎるほど彼女からたくさんのものを受け取った。だから、今度は……。
 俺はベッドから起き上がると、記憶の糸口を辿るようにクローゼットの扉を開けた。現れたのは、無理やり押し込まれた過去の私物たち。そんな光景に一瞬ため息をつくも、俺は気を取り直すと崩壊寸前になっている押し入れの中身を一つずつゆっくりと取り出していく。
 すると奥の方から、まるで記憶から忘れ去ろうとするかのように押し込められている段ボールが姿を現した。その瞬間、胸の奥にチクリと痛みが走る。

「……」

 俺は一度小さく深呼吸をすると、ゆっくりと両腕を伸ばしてその段ボールを取り出す。そして床の上へとそっと置いた。
 中途半端に閉じられた蓋の隙間から見えるのは、懐かしさよりも虚しさが込み上げてくる思い出の数々。

 ――これを両手に通すだけで今日のあなたの血糖値がわかります!
 
 箱の中から取り出したヘンテコな手袋を見つめながら、俺はいつか彼女が言っていた台詞を思い出す。
 くだらないやり取りも、めちゃくちゃな発明も、今となってはどれだけ望んだとしてもこの手が届くことはない。触れることはない。
 そんなことを思って小さくため息を吐き出した俺は、箱の中身を一つひとつ丁寧に取り出していく。本当はもう二度と見たくはないと思っていたけれど、もしかしたらこの中に、真那が求めていたことの手がかりがあるかもしれないと思った。
 彼女との記憶を刺激するかのように、がちゃがちゃと金属が擦れ合う。するとボトルのようなものをふと持ち上げた時、はらりと足元に何かが落ちた。
 それは、一枚の写真だった。
 裏返しで落ちたその写真を拾い上げ、ゆっくりとひっくり返した時、胸の奥でドクンと心臓が大きく脈を打った。

「これって……」

 下手くそなぐらいアングルがズレて、しかもちょっとピンぼけしているその写真に映っていたのは、こちらを向いて満面の笑みを浮かべている二人の小学生。
 その頭上には、花火のように満開に咲き誇っている桜の木の姿。その景色に、記憶の奥底に沈んでいたはずの光景が胸の中で再び色を灯す。

 歩すごいよ! 空の窓がある!

 幼い頃の真那の声が耳の奥に蘇る。特徴的な枝の形をしたその桜の木にはたしかに見覚えがあった。俺は古いアルバムをめくるように、そっと目を閉じる。

 そうだこの桜の木は……自分が真那にこっそりと教えた秘密の場所だ。

 俺は再び瞼をあげると、右手に持った写真を見つめる。オルゴールと同じように時を止めたその景色に、一つの記憶が浮かび上がる。
 幼い頃から天真爛漫で元気だった真那だが、小学生の時に一度だけひどく落ちこんでいたことがあった。
 随分と昔のことでその理由はもう忘れてしまったけれど、心配した自分は彼女を元気付けようと考えた。が、真那と違って手先が器用なわけではないので何か作るわけにもいかず、どうしようかと悩んでいた俺は、当時よく家族で遊びにきていた大きな公園に一人訪れた。作れないのなら彼女が喜ぶものを見つけよう。そう思ってぶらぶらと彷徨っていた。
 変な形の石ころやビー玉。真那が苦手なてんとう虫。
 公園で見つかるものなんてたかが知れている。それでも自分は茂みの中をかき分けては、彼女に渡せるもの夢中で探していた。すると突然、視界が開けた場所に出たかと思うと、頭上から薄ピンクの光が差し込んできた。ゆっくりと顔を上げた自分の目の前に、一本の大きな桜の木が現れたのだ。
 二つの大きな枝が曲線を描きながら左右に分かれ、先端が再び重なり合っていたその木は、真下から見るとまるで桜の木が青空を抱きしめているようにも見えた。
 これだ! と直感的に感じた俺は急いで家に戻ると、真那と遊びに行く約束を取り付けた。
 自分が思っていた以上に真那はその日を楽しみにしていたらしく、当日彼女はこっそり内緒で父親のカメラを持ってきた。立派なレンズのついたカメラを首から下げる真那に向かって、「使い方わかるの?」と怪訝そうな顔で聞くと、「私を誰だと思ってるの?」と怒られた思い出がある。
 普段機械いじりばっかり夢中になっている彼女だったので、真那が桜の木を見せて喜んでくれるのか正直不安だった。
 けれど自分の予想に反し、再びあの桜の木の下まで訪れると、真那は嬉しそうに目を輝かせながら喜んでくれたのだ。甘い香りを含んだ一面ピンク色の天井に、丸く切り取られた窓から見える青空。その真下で、自分たちは写真を撮った。
 たぶんそれが真那と二人で撮った、初めての写真だった。
 目元が熱を帯び始めたのを感じ、俺は写真に映る世界からはっと我に返った。そして、こみ上げてくる気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸う。
 おそらく真那が見たがっていた桜の木とはこのことだろう。それほどまでに彼女にとって特別な場所だったという事実に、俺の心は激しく揺さぶられた。
 きっとこの場所が、自分にとって真那と出会える最後の場所になるのだろう。
 握りしめた写真を見つめながら、俺はそんなことを思った。