朝から降り出していた雨は、教室を出る頃には小雨になっていた。
俺は昇降口へと向かいながら、ズボンのポケットからそっとスマホを取り出す。画面を見ても、新着メッセージの表示はない。
「……」
俺は小さくため息を吐き出すと再びスマホをポケットに戻した。頭の中に浮かぶのは、教室を飛び出していった椿の後ろ姿。
結局椿はあの後しばらく経ってから教室に戻ってきたものの、和輝に説得されてすぐに帰ることになった。心配になってラインのメッセージは送ったが、いまだ既読にもならない。
やっぱり話すべきじゃなかったか……
真那の話しをしてしまったことに、今更になって後悔した。おそらく亡くなった姉の話しを唐突にしてしまったことがよほどショックだったのだろう。
せっかく椿との関係が元に戻ったと思っていたのに、これじゃあまた逆戻りだ。
そんなことを思いながら誰もいない昇降口にたどり着つくと、俺はスニーカーに履き替えて外へ出た。パラパラと振る雨を見て、右手に持っていたビニール傘を開く。バサリと広がった透明の膜が、自分の視界を僅かに濁らした。
無意識にため息をついた俺は、そのまま泥状になった地面に足を踏み出そうとした。と、その時、不意に背中から声が聞こえる。
「……おい」
久しぶりに自分に対して投げかけられたその声に、俺は思わず足を止めた。そしてゆっくりと振り返る。するとそこには、黙ったまま俺のことを睨みつけてくる和輝の姿があった。
「……」
声をかけられた理由がわからず俺も黙っていると、小さくため息を吐き出した和輝が再び口を開いた。
「お前……椿のことどう思ってるんだ?」
「え?」
突然告げられた予想もしなかった言葉に、俺は一瞬目を見開く。聞き間違いかと思ったが、和輝は俺のことを睨みつけたまま再び言った。
「だから……椿のこと、どう思ってんのかって聞いてんだよ」
和輝はそう言うと、じわりと俺の方へと歩み寄る。先ほどよりも強い怒りが滲み出たその声色に、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
なぜ和輝が、自分に椿のことを聞いてくるのか?
状況がまったく理解できない俺は、とりあえず何か声を発しようと唇を動かした。
「べつに……」
ぼそりと呟いた自分の言葉を聞いて、和輝は「は?」とさらに苛立ちを込めた声を漏らす。鋭く細められたその瞳には、かつて一緒にボールを追いかけていた頃の面影はない。
これ以上話してもややこしくなりそうだと思った俺は、彼の目から視線を逸らすと、何も言わず再び歩き出そうとした。するとそんな自分に対して、和輝は勢いよく右手を伸ばしてきたかと思うと俺の肩を掴んだ。その拍子に、右手に握っていた傘が地面に落ちる。
「ちょっと待てよ……『べつに』ってどういうことだ?」
一層厳しさを増した和輝の口調に、俺は小さくため息を漏らすと、左手で彼の腕を振り払った。
「お前には関係ないだろ」
さすがに我慢の限界に達した俺は、吐き捨てるような口調で言った。直後、胸元に強い衝撃が走る。思わず閉じた目を再び開けると、胸ぐらを掴んできた和輝の顔が目前に迫る。
「関係あるから聞いてんだよ!」
誰もいない静かな昇降口に、和輝の怒鳴り声が響いた。滅多に見ることのない和輝のそんな姿に、俺は反射的に唾を飲み込んでしまう。けれど、その怒りの矛先が、何に向けられているのかわからない。
「だから、俺はなにも……」
動揺しながらも口を開く自分に、和輝は「くっ」と声を漏らすと俺のことを勢いよく突き飛ばした。
バランスを取り損ねた自分は、そのまま後ろへと尻餅をついてしまう。雨に濡れた地面の匂いが鼻先をかすめ、手のひらには生ぬるい土の感触が広がる。
痛みに目を細めていた俺が顔をあげると、鋭い視線で自分のことを見下ろす和輝の姿が映る。
「椿は……」
こみ上げてくる怒りをぐっとこらえるかのように、和輝が静かな声で言う。
「椿は……いつもお前のこと心配してんだぞ」
「……」
俺は黙ったままその言葉を聞いていた。胸に込み上げてくるのは、椿のことよりも、理不尽に怒りをぶつけてくる和輝への苛立ち。
自分のことをもう何も知らない相手が、なぜこんなにも偉そうな態度を取ってくるのか?
何度消そうとしても消えない真那への後悔が、そんな俺の感情をさらに刺激する。
「だから何だよ……」
俺は声を押し殺しながら、和輝の顔を睨んだ。
「何も知らない奴が余計な首突っ込むな」
吐き捨てた言葉に、じわりと血の味が広がる。どうやらさっき突き飛ばされた時に口の中を切ってしまったようだ。
それを唾液と一緒に外へ飛ばそうとした時、突然視界に和輝が飛び込んできた。馬乗りになってきた相手は両腕を勢いよく自分の胸元へと伸ばしてくる。そのせいで、ドンと強い衝撃と共に、俺の上半身が地面に叩きつけられた。
「ふざけんな!」
耳をつんざくような和輝の怒鳴り声が鼓膜を突き刺す。俺は荒くなっていく息を感じながら、目の前の相手を睨んだ。すると燻んだ空を背に、和輝が再び強い口調で言う。
「お前こそ、椿の気持ちちゃんと知ってんのか! あいつはな、大切な家族を失って、それでも必死に立ち直ろうとしながらお前のことまで心配してんだぞ! 姉ちゃん亡くしたショックで歩まで失うんじゃないかって不安になりながらな!」
戒めと共に、鋭い痛みを伴った言葉が自分の心を貫いた。その瞬間、脳裏に浮かんだのは、真那の一周忌の時に一緒に帰った椿の横顔。
ちゃんと向き合おうと思ってーー
いつか椿が呟いた言葉が耳の奥で静かに響く。あの時、そんな言葉を絞り出しながら椿の指先が微かに震えていたことを、俺はまだ覚えていた。
それでも椿は、今も前に進もうとしている。死んだ真那が悲しまないように。そして、自分のことを支えるために。
黙ったまま瞼を閉じると、胸ぐらを掴んでいる和輝の腕の力がふっと緩んだ。
「頑張ってたサッカーもやめて、塞ぎ込んだお前がまた立ち直れるように力になりないってあいつ……、椿のやつ、泣きながら俺に話してたんだぞ……」
「……」
そう伝える和輝の声からは、先ほどまでの怒りの感情はなくなっていた。代わりに伝わってくるのは、行き場を失ったような悲しみと、ぽっかりと穴の開いた虚しさ。
荒くなった呼吸を落ち着かせようと大きく息を吸った時、胸元を掴んでいる和輝の手が微かに震えていることに気づいた。
「もう……逃げんなよ」
ぽつりと和輝の口から溢れた言葉が、自分の心に波紋のように広がっていく。わかってる。本当は自分も椿のように、前に進まなくてはいけないことを。そしてそれを、真那も望んでいるということを。
どれだけ望んだとしても、これから先の未来には、オルゴールが起こすような奇跡はもうやってこない。
自分にはこの命がある限り、目の前を向いて歩き続けるしかない。真那が教えてくれたことを、生き方を、今度は自分が示さなくてはいけないのだ。
胸の奥から込み上げてくる気持ちにそんなことを思っていると、再び和輝の声が聞こえた。
「なあ歩……」
懐かしい声音で自分の名を呼ぶ和輝の声に、俺はハッと我に返る。すると長い間止まっていた時計を動かすかのように、和輝はその唇をゆっくりと開いた。
「俺は今でも……待ってるぞ」
俺は昇降口へと向かいながら、ズボンのポケットからそっとスマホを取り出す。画面を見ても、新着メッセージの表示はない。
「……」
俺は小さくため息を吐き出すと再びスマホをポケットに戻した。頭の中に浮かぶのは、教室を飛び出していった椿の後ろ姿。
結局椿はあの後しばらく経ってから教室に戻ってきたものの、和輝に説得されてすぐに帰ることになった。心配になってラインのメッセージは送ったが、いまだ既読にもならない。
やっぱり話すべきじゃなかったか……
真那の話しをしてしまったことに、今更になって後悔した。おそらく亡くなった姉の話しを唐突にしてしまったことがよほどショックだったのだろう。
せっかく椿との関係が元に戻ったと思っていたのに、これじゃあまた逆戻りだ。
そんなことを思いながら誰もいない昇降口にたどり着つくと、俺はスニーカーに履き替えて外へ出た。パラパラと振る雨を見て、右手に持っていたビニール傘を開く。バサリと広がった透明の膜が、自分の視界を僅かに濁らした。
無意識にため息をついた俺は、そのまま泥状になった地面に足を踏み出そうとした。と、その時、不意に背中から声が聞こえる。
「……おい」
久しぶりに自分に対して投げかけられたその声に、俺は思わず足を止めた。そしてゆっくりと振り返る。するとそこには、黙ったまま俺のことを睨みつけてくる和輝の姿があった。
「……」
声をかけられた理由がわからず俺も黙っていると、小さくため息を吐き出した和輝が再び口を開いた。
「お前……椿のことどう思ってるんだ?」
「え?」
突然告げられた予想もしなかった言葉に、俺は一瞬目を見開く。聞き間違いかと思ったが、和輝は俺のことを睨みつけたまま再び言った。
「だから……椿のこと、どう思ってんのかって聞いてんだよ」
和輝はそう言うと、じわりと俺の方へと歩み寄る。先ほどよりも強い怒りが滲み出たその声色に、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
なぜ和輝が、自分に椿のことを聞いてくるのか?
状況がまったく理解できない俺は、とりあえず何か声を発しようと唇を動かした。
「べつに……」
ぼそりと呟いた自分の言葉を聞いて、和輝は「は?」とさらに苛立ちを込めた声を漏らす。鋭く細められたその瞳には、かつて一緒にボールを追いかけていた頃の面影はない。
これ以上話してもややこしくなりそうだと思った俺は、彼の目から視線を逸らすと、何も言わず再び歩き出そうとした。するとそんな自分に対して、和輝は勢いよく右手を伸ばしてきたかと思うと俺の肩を掴んだ。その拍子に、右手に握っていた傘が地面に落ちる。
「ちょっと待てよ……『べつに』ってどういうことだ?」
一層厳しさを増した和輝の口調に、俺は小さくため息を漏らすと、左手で彼の腕を振り払った。
「お前には関係ないだろ」
さすがに我慢の限界に達した俺は、吐き捨てるような口調で言った。直後、胸元に強い衝撃が走る。思わず閉じた目を再び開けると、胸ぐらを掴んできた和輝の顔が目前に迫る。
「関係あるから聞いてんだよ!」
誰もいない静かな昇降口に、和輝の怒鳴り声が響いた。滅多に見ることのない和輝のそんな姿に、俺は反射的に唾を飲み込んでしまう。けれど、その怒りの矛先が、何に向けられているのかわからない。
「だから、俺はなにも……」
動揺しながらも口を開く自分に、和輝は「くっ」と声を漏らすと俺のことを勢いよく突き飛ばした。
バランスを取り損ねた自分は、そのまま後ろへと尻餅をついてしまう。雨に濡れた地面の匂いが鼻先をかすめ、手のひらには生ぬるい土の感触が広がる。
痛みに目を細めていた俺が顔をあげると、鋭い視線で自分のことを見下ろす和輝の姿が映る。
「椿は……」
こみ上げてくる怒りをぐっとこらえるかのように、和輝が静かな声で言う。
「椿は……いつもお前のこと心配してんだぞ」
「……」
俺は黙ったままその言葉を聞いていた。胸に込み上げてくるのは、椿のことよりも、理不尽に怒りをぶつけてくる和輝への苛立ち。
自分のことをもう何も知らない相手が、なぜこんなにも偉そうな態度を取ってくるのか?
何度消そうとしても消えない真那への後悔が、そんな俺の感情をさらに刺激する。
「だから何だよ……」
俺は声を押し殺しながら、和輝の顔を睨んだ。
「何も知らない奴が余計な首突っ込むな」
吐き捨てた言葉に、じわりと血の味が広がる。どうやらさっき突き飛ばされた時に口の中を切ってしまったようだ。
それを唾液と一緒に外へ飛ばそうとした時、突然視界に和輝が飛び込んできた。馬乗りになってきた相手は両腕を勢いよく自分の胸元へと伸ばしてくる。そのせいで、ドンと強い衝撃と共に、俺の上半身が地面に叩きつけられた。
「ふざけんな!」
耳をつんざくような和輝の怒鳴り声が鼓膜を突き刺す。俺は荒くなっていく息を感じながら、目の前の相手を睨んだ。すると燻んだ空を背に、和輝が再び強い口調で言う。
「お前こそ、椿の気持ちちゃんと知ってんのか! あいつはな、大切な家族を失って、それでも必死に立ち直ろうとしながらお前のことまで心配してんだぞ! 姉ちゃん亡くしたショックで歩まで失うんじゃないかって不安になりながらな!」
戒めと共に、鋭い痛みを伴った言葉が自分の心を貫いた。その瞬間、脳裏に浮かんだのは、真那の一周忌の時に一緒に帰った椿の横顔。
ちゃんと向き合おうと思ってーー
いつか椿が呟いた言葉が耳の奥で静かに響く。あの時、そんな言葉を絞り出しながら椿の指先が微かに震えていたことを、俺はまだ覚えていた。
それでも椿は、今も前に進もうとしている。死んだ真那が悲しまないように。そして、自分のことを支えるために。
黙ったまま瞼を閉じると、胸ぐらを掴んでいる和輝の腕の力がふっと緩んだ。
「頑張ってたサッカーもやめて、塞ぎ込んだお前がまた立ち直れるように力になりないってあいつ……、椿のやつ、泣きながら俺に話してたんだぞ……」
「……」
そう伝える和輝の声からは、先ほどまでの怒りの感情はなくなっていた。代わりに伝わってくるのは、行き場を失ったような悲しみと、ぽっかりと穴の開いた虚しさ。
荒くなった呼吸を落ち着かせようと大きく息を吸った時、胸元を掴んでいる和輝の手が微かに震えていることに気づいた。
「もう……逃げんなよ」
ぽつりと和輝の口から溢れた言葉が、自分の心に波紋のように広がっていく。わかってる。本当は自分も椿のように、前に進まなくてはいけないことを。そしてそれを、真那も望んでいるということを。
どれだけ望んだとしても、これから先の未来には、オルゴールが起こすような奇跡はもうやってこない。
自分にはこの命がある限り、目の前を向いて歩き続けるしかない。真那が教えてくれたことを、生き方を、今度は自分が示さなくてはいけないのだ。
胸の奥から込み上げてくる気持ちにそんなことを思っていると、再び和輝の声が聞こえた。
「なあ歩……」
懐かしい声音で自分の名を呼ぶ和輝の声に、俺はハッと我に返る。すると長い間止まっていた時計を動かすかのように、和輝はその唇をゆっくりと開いた。
「俺は今でも……待ってるぞ」