初恋オルゴールで君は再び蘇る

「このオルゴールはね、真那がこの店に初めてきた時に一番最初に興味を持ったものだったんだよ。まだあの子が小学校に入る前ぐらいだったかな。このオルゴールを鳴らすとあの子は『すごいすごい!』とはしゃぎながら随分と興味を持ってね。どうしてこんな小さな箱からメロディが流れてくるのか不思議で仕方なかったんだろう」

 真那のお爺さんはそう言って深く息を吐き出すと、今度はゆっくりと店内を見渡した。その視線の先にあるのはオルゴールと同じく、数えきれない時間と思い出を詰め込んだ品々たち。

「真那が小学校に上がった時の誕生日に、このオルゴールをプレゼントしてあげてね。あの子はすごく喜んでたよ。『私の宝物がやってきた!』と言ってね。彼女にとってこのオルゴールは、いわば自分の道しるべのようなものだったんだろう。その日を境にあの子は機械いじりをするようになってね。ちょうどその頃ぐらいだったんじゃないかな。真那が君の家に通うようになったのは」
 
 真那のお爺さんの話しを聞きながら、俺は初めて真那と出会った日のことを思い出していた。その記憶はもううっすらとした輪郭しか持っていなかったけれど、それでも完全に消えることはなく、今もこの胸の奥に刻まれている記憶。
 その日、俺は親父に連れられてガレージまで訪れた。するとそこには真那の父親と、手を繋がれた彼女がいたのだ。
 知らない人と話すことが苦手な上、一つ年上の女の子と聞いていたこともあり、俺はずっと親父の後ろに隠れていた。そしたら急に彼女が近づいてきて、自分に向かって言ったのだ。「君も車を直せるの?」って。
 そんなわけないだろ、なんて今みたいに生意気なことも言えず、俺は呆気に取られてただ黙っていた。すると幼い真那はニコリと笑い、「私にも教えて」とあろうことかいきなり手を繋いできて、俺にガレージの中を案内させたのだ。
 恥ずかしくて顔を真っ赤にした自分を見て、親父と真那の父親は笑っていたと思う。
 もうほとんどぼやけてしまった思い出だけれども、あの時真那が握ってくれた手のひらの温もりは、何故か今でも覚えている。もしかしたら俺は、初めて彼女と出会った時から、特別な感情を抱いていたのかもしれない。
 瞼を伏せてそんな思い出の世界に浸っていると、俺の耳に再び真那のお爺さんの声が届いた。
 
「彼女はそれから毎日のようにこのオルゴールを持ち歩いていたよ。でもある時ね、泣きながらこのお店にやってきたんだ。『オルゴールが鳴らない』と言ってね」

「壊れたんですか?」

「ああ、そうなんだよ。彼女はとてもショックを受けていた。小さな頃から宝物ように肌身離さず持っていたオルゴールだったからね。だからあの子にはこう教えてあげた。形あるものはいずれ壊れる。けれど技術者である自分たちはそこに新しい命を宿すことができる。だから真那が立派な技術者になった時、もう一度このオルゴールに命を吹き込んであげればよいと。自分が大切にしている想いと一緒に」

「自分が大切にしている想い……」
 
 無意識に同じ言葉をぼそりと呟くと、真那のお爺さんは静かに頷いた。

「歩くん。真那が君の誕生日にこのオルゴールを送ったということは、おそらく彼女にとって特別な意味があったと思うよ。だからこそ、これは君が持っておくべきものだ」

 そう言って真那のお爺さんはニコリと笑った。俺は黙ったまま小さなオルゴールを見つめる。
「そう言えばこのオルゴールを直してほしいと言っていたね」
 
 不意に聞こえてきたその言葉に、俺は慌ててコクリと首を動かす。

「はい。実は少し調子が悪くて……見てもらえないでしょうか?」
 
 ふむ、と真那のお爺さんは息を吐き出すと、カウンターの奥にある台の上にオルゴールを置いた。そして両手で優しく包み込むと蓋を開けようとする。

「あ、そのオルゴール……」
 
 俺が話し切る前に、真那のお爺さんは開かないオルゴールに不思議そうな表情を浮かべたかと思うと、すぐに何かに気付いたようで「真那らしいな」と微笑んだ。そして壁に掛けている小さな工具をいくつか手に取ると静かに椅子に座った。

「……」
 
 黙ったまま見守る自分の視線の先で、真那のお爺さんはじっとオルゴールを見つめたまま慣れた手つきで工具を握った指先を動かしていく。その姿はどことなく、家のガレージでよく何かを作っていた真那の姿に似ているような気がした。
 しばらくすると、パチンという音と共にオルゴールの蓋が開いた。俺は一瞬ドキッとして慌てて辺りを見回すも、先ほどと変わったところはない。どうやら時間はいつも通り流れているようで、代わりにオルゴールからはメロディが流れてこない。

「あれ、音が鳴らない……」
 
 不安に思った俺がそんな言葉を呟くと、真那のお爺さんが小さく微笑む。

「中身を見るために違う開け方をしたからね。今は鳴らないだけだよ」
 
 真那のお爺さんはそう言うと、小さなルーペを手に持ってオルゴールの中を覗き込む。

「ほう……真那のやつ、また随分と変わったものを作ったようだ。こんな仕組みは初めてみたよ」

「直せそうですか?」

 俺は真那のお爺さんの横顔を真っ直ぐ見つめたまま尋ねた。すると「どれ、見てみよう」と言って真那のお爺さんは孫の作った作品に再び工具を入れていく。静かな店内に、カチャカチャと金属が擦れ合う小さな音だけが響いた。
 しばらくそんな状況が続いた後、不意に手を止めた真那のお爺さんが今度は考え込むように目を瞑った。そして短い息を吐き出すと、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

「……すまない、歩くん。どうやらこれは直せそうにない」

「え?」
 
 その言葉に、俺は思わず声を漏らした。すると真那のお爺さんが静かに続きの言葉を話す。

「真那のやつ、どんな方法でこれを作ったのかわからないが、これはかなり特殊な構造になっているようだ。分解して組み立てることはおそらく可能だが、心臓部のパーツがかなり消耗していてね。これを変えるとなるとこの店にある部品じゃ出来ないんだよ」

「そんな……」
 
 呆然と立ち尽くす自分の前で、真那のお爺さんは再び考え込みながら椅子に深く座り直した。

「ドイツにいる友人ならもしかしたら直せるかもしれないが、しばらく預かることになるだろう……」

「どれくらいですか?」

「具体的にはわからないが、おそらく半年ぐらいは預かることになるかもしれない。それに、確実に直せるとは約束できない」

「そうですか……」

 落胆の色を滲ませながら、俺は大きく息を吐き出した。今の自分には半年も待っている時間はない。それに預かってもらったとしても、直るかどうなのかもまだわからないのだ。
 俺は伏せていた顔を上げるとゴクリと唾を飲み込み、どうしても気になっていたことを口にした。

「あの……そのオルゴールは、あとどれくらい鳴らせますか?」

 震えそうになる唇に必死に力を入れて、俺は尋ねた。すると真那のお爺さんは「うむ……」と唸るような声を漏らして顎をさする。

「おそらく……あと一度は鳴らせると思うがそれ以上は難しいだろう。それに動いたとしてもいつまで鳴り続けるのかはわからない」

「そんな……」
 
 あと一度。その言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
 真那とこれからも会えると思っていた自分にとって、それはあまりにも短すぎる宣告だった。俺はぎゅっと拳に力を込めると、すがるような思いで口を開く。

「何か……何か他に方法はありませんか? お金ならちゃんと払います。だから……」
 
 必死に嘆願する自分に、真那の真那のお爺さんは小さく首を横に振った。その瞳が俺の顔を映しながら悲しそうに揺れる。

「すまないね、歩くん。大切な孫からの贈り物なので何とかして直してやりたいところなんだが、こればっかりは……」
 
 真那のお爺さんはそう言うと、台の上に置かれているオルゴールを見つめた。真那の手によって作られた精巧な発明とそこに詰まった想いは、すでに抜け殻になってしまったかのように蓋だけが開かれている。
 俺はオルゴールから視線を逸らして顔を伏せると、ぐっと唇を噛んだ。掴みかけた僅かな希望が、音も鳴らずに崩れ落ちていく。
 何も言葉にできないままただ黙り込む自分に、真那のお爺さんがそっと囁く。

「真那も幸せだっただろう」

「え?」

 思いもよらないその言葉に、俺はハッと顔を上げる。すると真那のお爺さんが俺を見て優しく微笑んだ。

「自分が大事にしていたものを、ここまで大切に想ってくれる人に巡り会えたんだからね。あの子もきっと幸せだったよ」

「……」

 彼女と似た真っ直ぐな瞳で、真那のお爺さんは俺のことを見つめた。胸の中に浮かんでくるのは、夕暮れ色に染まるジャングルジムでいつも嬉しそうに話しをしていた真那の姿。
 彼女は自分の発明を、まるで宝物でも見つけたかのようにいつも目を輝かせながら話してくれていた。
 どんなくだらないことでも、人が想像しないような突拍子なことも、彼女が口にするとそれはとても楽しげに聞こえていたのだから不思議だった。
 たぶんそんな彼女の発明を、そして生き様を一番近くで見ることができたのは自分だったのだろう。
 そしてあの時の俺はそんな真那の姿を、これから先もずっと側で感じることができると思っていた。そう信じていた……
 不意に目元までこみ上げてきた感情を声で誤魔化そうと、俺はゆっくりと口を開いた。

「僕は……結局真那に何もしてあげることができませんでした。彼女はいつも夢に向かって一生懸命で、その姿を見るだけで僕は随分と支えられました。夢を追う大切さも、好きなことに夢中になれる心も、真那を見ていると本当に多くのことを学ばせてもらった。でも自分は……いつも大切なことを教えてもらうばかりで、結局何一つ彼女の力にはなれなかった……」

 続く言葉が思いつかず、俺は静かに目を瞑った。瞼の裏に甦るのは、いつも自分の先を歩く真那の後ろ姿。
 ほんとうは、少しでもいいから彼女の前を歩いてみたかった。
 真那が悩んだり辛くなったりした時は、自分が引っ張れるような存在になれるようにと。彼女がつまづいた時は自分が真っ先に手を差し伸べる存在になれるようにと。
 でも、その手を握りしめる前に、彼女はこの世界から姿を消してしまった。
 再びやってくるであろう真那との別れに、俺の指先が小刻みに震える。結局自分は、奇跡まで起こして現れてくれた真那に対して、また何もできずに後悔だけを残すのだろうか。
 言葉を失いただ立ち尽くしていると、その沈黙を優しく埋めるかのように、真那のお爺さんがそっと口を開く。

「君がそう思ってくれているだけでも、あの子にとってはきっと幸せだろう。形あるものはやがて壊れる。けれど、大切な人の為に作ったという『想い』そのものはいつまでも残るものだよ。大丈夫だよ歩くん。君の中で今も真那は生きてる」

 そう言って真那のお爺さんは立ち上がると、俺の右手にオルゴールをそっと託した。握りしめた小さな真那の想いには、初めて彼女と手を繋いだ時のような温もりが宿っていた。俺はゆっくりと指先を広げると、手のひらの上にあるオルゴールを見つめる。

「きっと真那はこのオルゴールを君にプレゼントすることで、何か伝えたかったことがあったはずだ。だから君もこうやって、わざわざこんな遠いところまで訪れにきてくれた。あの子が歩くんのことを大切に思う気持ちが、オルゴールの奏でるメロディのように君をこれからも幸せに導いてくれるはずだよ」

 真那のお爺さんはそう言ってニコリと笑った。
 真那が伝えたかったこと。彼女がどんな気持ちでこのオルゴールをプレゼントしてくれたのか、今の自分にはわからない。
 それでも、彼女のお爺さんが言うように、真那のことだからきっと意味があったのだろう。だって彼女は、自分の作ったものにはいつも情熱を込めていたのだから。
 真那のお爺さんは小さく息を吐き出すと、そのままゆっくりと椅子に腰をかけた。そして台の上に両腕を置くと黙り込んでしまう。
 不思議に思った俺が声をかけようとした時、真那のお爺さんの肩がわずかに震えていることに気づいた。思わず言葉を飲み込んでしまった自分の前で、真那のお爺さんは老いた手で目元を拭うと、ゆっくりこちらを向いた。

「いやー情けない。歳を取るとどうも涙もろくなってしまうようでね。つい恥ずかしいところを見られてしまった」

 そう言って真那のお爺さんは照れ隠しのように右手で頭をかいて微笑んだ。

「君のおかげで久しぶりに真那に会えたような気がしたよ……ありがとう、歩くん」
 その日の夜、俺はなかなか寝付くことができなかった。
 どれだけ瞼を強く閉じても、頭の中では真那のお爺さんから聞いた話しが蘇ってきてしまう。
 あのオルゴールのことや、そして、これから自分がどうしていけばいいのかということも。
 真っ暗な世界の中で、時計の音だけが静かに響いていた。こうしている間にも自分の身体は、確実に未来に向かって進んでいるのだ。それは同時に、真那と共に過ごしていた日々から遠ざかっていくことを意味している。
 俺は小さくため息を吐き出すと、ベッドから立ち上がり、机の上のライトをつけた。突き刺さるような眩しい光に一瞬目を細めるも、それは暗闇を照らすには心細い。
 手元だけ明るくなった空間で、俺は机の上に置いてある写真立てを見た。そこには自分と椿、そしてその間には満面の笑みを浮かべている真那の姿。薄暗い部屋の中で見ても、彼女のその笑顔は、心に焼き付くほど鮮明に映った。
 俺は締め付けるような胸の痛みをため息に変えると、今度は机に置いていたオルゴールを手に取り、その蓋を開けようとした。が、もろちん開くことはない。

 俺はもう一度、真那と会うことができるのだろうか……

 そんなことを思いながら、俺は暗闇の中でぼんやりと浮かび上がるカレンダーを見つめた。視線の先、新しい印が付けられた今度の日曜日は、今の自分にとって何よりも大切な日。
 何故ならその日は、もし真那が生きていれば、彼女が18歳を迎える特別な日だったのだから。
 翌朝、家を出ると空はぐずついていて、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だった。俺は傘を持つと、いつものように文化祭の準備のために学校へと向かう。
 この天候のせいか、それとも自分の心が整理できていないためか、胸の奥に感じるざわめきは昨日から何も変わってはいない。
 朝起きても、真っ先に浮かんだのは真那のことだった。受け入れたくない現実が、もうすぐそばまで迫っている。
 俺はそんな未来から目を背けるかのように視線を足元へと落とす。そして両手をズボンのポケットに入れようとした時、ふとスマホが震えていることに気付いた。そのまま右手でスマホを取り出して画面を見ると新着メッセージのアイコンには『椿』と表示があった。
 昨日メッセージを送ってからずっと連絡がなかったが、やっと返信が返ってきたようだ。
 そんなに体調が悪かったのかと心配になった俺は、すぐにメッセージを開いた。そこにはいつもの彼女らしい文章で、『心配かけてごめん! もう元気になったから大丈夫』と絵文字とスタンプ付きのメッセージ。
 それを見てほっと安堵した俺は、『なら良かった』と返事を返した。そしてスマホを再びポケットに入れようとした時、ふと左手がオルゴールの入っているポケットに触れた。

「……」

 俺はスマホの代わりに今度はオルゴールを手に取ると、それをじっと見つめた。頭の中に無意識に浮かぶのは、真那のお爺さんの言葉。
 
 真那はどんな想いで、このオルゴールをプレゼントに選んでくれたのだろう……
 
 俺はそんなことを思うと、オルゴールをそっと手のひらの中で握りしめる。いくら自分の誕生日だとはいえ、真那はずっと大切にしていたオルゴールをわざわざ選んでくれたのだ。そこにはやはり彼女のお爺さんが話していたように、何か伝えたいことがあったのだろうか。
 俺はそんな答えの出ない疑問を自分の胸に聞いてみる。その答えを直接尋ねることができる機会が、確実に次の日曜日に訪れてくれるのかはわからない。それに、もしオルゴールが動いて彼女と会うことが出来たとしても、もうこれからは……。
 行き場を失った感情を吐き出すかのようにため息をつくと、頬に冷たい感覚が走った。俺はそっと顔を上げる。どうやら、我慢できなくなった空が泣き出したみたいだ。
 教室に入ると、すでにほとんどのクラスメイトは到着していて、その中には明日香たちと楽しそうに話している椿の姿もあった。そのまま俺が自分の班のところへ向かおうとした時、視界の隅でこちらに気付いた椿が立ち上がるのが見えた。

「おはよ」
 
 目の前までやってきた椿が、どこか恥ずかしそうにしながら言ってきた。

「おう、もう体調は大丈夫なのか?」

「うん……」 
 
 少し伏し目がちに返事をする椿に、「そっか」と俺は安心したように息を吐き出す。すると椿はまだ何か言いたいことがあるのか、胸元で握った指先をもじもじとさせながら、チラリと様子を伺うように俺の顔を見上げてきた。

「昨日はラインしてくれてありがと。その……嬉しかった」
 
 教室の賑やかな喧騒のせいで最後の言葉が聞き取れず、俺は「え?」と首を傾げる。すると椿は小さく首を振って、「ううん、何もない」といつもの笑顔で答えた。そしてそのままくるりと背を向けると、明日香たちのところへと戻って行く。
 花火の時のことは結局何も聞けなかったが、とりあえずいつもの椿に戻っているようだ。
 俺はそんな彼女の背中を見てほっと息を吐き出すと、再び自分の班の方へと足を向けた。

「お? 社長出勤ですか?」
 
 珍しく早く来ていた真一が茶化すような口調で言ってきたので、俺は呆れて肩を落とす。

「いつもお前の方が遅いだろ」

「失礼な奴め。五回に一度は早く来てるぞ」

「週一かよ」と俺は軽く笑って突っ込みを入れると、座布団がわりに広げられいるダンボールへと腰を下ろす。見ると目の前には、カフェの装飾で使うために細かく切り刻まれた折り紙が色ごとに紙コップに並べられていた。
 見るからに骨が要る作業に、思わず盛大なため息が漏れる。

「おいおい、来た瞬間にため息つくなよ。やってると意外と楽しいぞ、これ」

 そう言って真一はいつかの仕返しのつもりなのか、やたらと分厚い折り紙の束を渡してきた。赤やピンクと華やかな色をしたその折り紙とは対照的に、自分の心はますますグレーになっていく。
 俺はげんなりとした表情を浮かべたまま右手を伸ばすと、真一が差し出している折り紙の束から半分だけを引き抜いた。すると「せこッ!」とすかさず彼の突っ込みが入るが、そこはあえて無視する。

「しゃーねーな。今度昼飯奢れよ」

 真一はそんな言葉を呟くと、しぶしぶといった様子で残った折り紙の束も自分のノルマに足して作業の続きを始めた。そんな彼に感謝しながらも、「昼飯は却下で」と呟いた俺は同じようにハサミを握ると作業を始める。
 面倒だなと最初は思っていたものの、やってみると案外気晴らしになるようで、俺は無言で作業を続けていた。何もしていなければ否が応でも真那のことが頭の中に浮かんでしまい、そのせいで不安に心を飲み込まれてしまいそうになってしまう。それを少しでも小さくしていくかのように、俺は折り紙を細かく切り刻んでいく。
 しばらくそんな作業を続けていると、不意に背中越しから誰かが近づいてくる足音が聞こえてきた。

「おい真一。雨降ってるけど、みんなのユニフォームちゃんと部室に戻したのか?」
 
 頭上から聞こえてきた和輝の声に、「やっべ!」と真一の顔が青ざめる。

「お前、三宅先輩にブチ殺されるぞ。早く戻してこいよ」

 やばいやばいやばい、と小声で連呼しながら慌てて立ち上がる真一の姿に、同じ班の女子たちがクスクスと肩を震わせていた。真一はそんな彼女たちに向かって「ごめん! すぐ戻るから」と言った後、教室の扉を飛び出して行った。俺はそんな彼の後ろ姿を見て、呆れてため息をつく。

「あとカフェの制服の刺繍で二人ぐらい手を借りたいんだけど……」
 
 残った俺たちを見て和輝が言った。その言葉に、俺も同じように班のメンバーの顔を見回す。真一を除けば残っているのは俺と女子二人だけ。いちいち分かりきったことを聞くなよと思いながら、俺は無言のまま作業を続けた。

「刺繍だったら、私たちが手伝おうか?」

 俺の様子に気を遣ってくれた一人の女子が和輝に向かってそんなことを言った。すると隣に座っていたもう一人の女子が、「工藤くん、一人で大丈夫?」と心配そうに声をかけてきた。もちろん刺繍なんてできないしやりたくもないので、俺は「ああ」とぶっきらぼうに返事をする。

「そしたら二人とも頼むよ。ありがとう」
 
 そう言ってニコリと微笑む和輝に、彼女たちはこくりと頷くとそのまま立ち上がった。俺はそんな3人をあえて見ずに一人黙って作業を続ける。何か一言ぐらい言ってくるのかと思ったが、結局和輝は何も言わずに二人を連れてそそくさと離れていった。
 
 まあ今のあいつからすれば、俺なんていてもいなくても一緒だろうな。

 俺はそんなことを思うと小さくため息を吐き出す。そして変わり果ててしまった友情を自ら断ち切るように、ハサミをひたすら動かして一人作業を続けた。すると今度は別の足音が近づいてくることに気づく。
「……手伝おうか?」
 
 聞き覚えのある声にそっと顔を上げると、そこにはいたのは椿だった。彼女ははらりと落ちた横顔を耳にかけ直しながら、その大きな瞳で俺の顔を覗き込む。

「向こうは大丈夫なのかよ?」
 
 俺はそう言うと椿たちの班の方を見た。すると彼女からクスリと笑い声が聞こえる。

「うん。明日香が私に任せとけって張り切ってるから」

 そう言って椿も教室の後方をチラリと見た。視線の先では、何故かニヤニヤとしながらこちらの様子を伺ってくる明日香が俺たちに向かって小さくウィンクを送ってきた。
 意味がわからず俺が首を傾げていると、「ほ、ほら早く準備進めよ」と急に顔を赤らめた椿が明日香に向かって背を向ける。そんな椿の様子に、彼女の友人は愉快そうに笑っていた。

「歩……これってどんな作業してるの?」
 
 目の前に乱雑に広げられた折り紙を見つめながら、椿が困ったように言ってきた。俺は無言でその中から一枚折り紙を手に取ると、それにそっとハサミを入れる。

「……ただ切るだけ」
 
 つまらないといわんばかりの口調でそんなことを呟けば、椿がぷっと吹き出した。

「なんか、地味だね」

「俺に言うなよ」
 
 そう言って俺はわざとらしく椿を睨むも、彼女は相変わらずクスクスと楽しそうに肩を揺らしていた。そして一息つくように大きく息を吸った後、今度は落ち着いた声音で椿がそっと口を開く。

「この前は、ごめんね」

「え?」
 
 突然謝ってきた椿に、俺は思わずきょとんとした表情を浮かべる。すると彼女は、その長い睫毛を少しだけ伏せた。

「お祭りの時、勝手に帰ったりして……」

 先ほどまでとは違い、少し悲しそうな表情を浮かべる椿。俺はそんな彼女を見て小さく息を吐き出すと、チクリとする胸の痛みを感じながら唇を開いた。

「俺の方こそ……悪かった」

 聞こえるか聞こえないかの声で謝罪の言葉を呟くと、今度は椿が「え?」と驚いたような顔をする。

「その……花火一緒に見れなくて」

「……」
 
 椿は俺の言葉を聞いても何も言わずただ顔を伏せていたが、やがて小さく首を横に振る。

「ううん……別に歩は悪くないよ。私も突然誘っちゃったしね。だから……」

 そこで椿は言葉を止めると、なぜか俺の様子を伺うようにチラリと顔を上げた。そして慎重に言葉を選ぶように、もじもじとした様子で唇を開く。

「だから……来年は一緒に見に行こうよ」 
    
 教室に賑やかな声が響く中、椿は恥ずかしそうにぼそりと呟いた。俺はその言葉を聞いて少し驚いた表情を浮かべて彼女の横顔を見る。そして口元をふっと緩めた。

「ああ……そうだな」
 
 俺も同じように小声で呟く。すると今度は椿の方が少し驚いた様子で俺のことを見てきたが、その唇が嬉しそうに弧を描いた。「約束だよ」と先ほどよりも明るい声で言った彼女は、嬉しそうな表情を浮かべたまま再び作業を始めた。
 そこから俺たちは手を動かしながらも、いつもと同じような会話を始めた。とは言っても俺は聞き役で、楽しそうに近況を語る椿の話しに相槌を打っていた。
 明日香と最近食べに行ったクレープ屋さんが美味しかったことや、この前塾で受けた模試の結果が微妙だったことなど。
 そんな何気ない彼女の日常の話しを聞いていると、自分の胸の中にあるざわめきも少しは和らぐような気がした。
 一通り作業の目処がつき、俺と椿は自分達が切った折り紙を色ごとに紙コップへと移していく。てきぱきと動く椿の手元を見てみると、淡いピンク色の折り紙がさっそく紙コップを満たしていた。
 彼女はそれをそっと手に取ると、同じような紙コップが並べられている場所へと運ぼうとした。と、その時。「あッ」という椿の声が聞こえたと同時に、俺の目の前で紙吹雪が宙を舞った。

「あー……やっちゃった」
 
 見事に紙コップの中身をばら撒いてしまった椿は、俺の顔を見ると誤魔化すようにぴっと小さく舌を出した。
「何やってんだよ」と呆れたように笑って俺は足元を見ると、ピンク色の小さな折り紙たちが絨毯のように敷き詰められている。それを拾おうと右手を伸ばした時、目の前にいる椿がぼそりと呟いた。

「なんだか、桜の花びらみたいだね」
 
 その言葉を聞いた瞬間、思わず俺の手がピタリと止まった。それと同時に脳裏に浮かんだのは、真那の手帳に書いていた言葉。


 もう一度、桜の木の下で空の窓を見上げるーー

「……」

 俺は手を止めたまま頭の中で真那の手帳に記されていたことを反芻した。たしかあの手帳にはそんな言葉も書かれていたはずだ。
「早く片付けないと」と呟きながら散らばった折り紙を拾い上げていく椿を前に、俺はゴクリと唾を飲み込む。そして、恐る恐る口を開いた。

「なあ椿。真那のことなんだけど……」
 
 突然姉の名前を口にしてしまったせいか、椿は折り紙を掴もうと伸ばした指先をピタリと止めた。直後、一瞬黙り込んだ彼女が小さく深呼吸をする。

「……お姉ちゃんが、どうしたの?」
 
 俺の目は見ないまま、椿が尋ねた。先ほどとはどこか雰囲気の違う彼女に、俺はそっと視線を逸らす。

「いやその……真那って桜とか好きだったのかなって思って」

「……」
 
 出来るだけ普段通りの口調で尋ねてみたが、椿からの返事はなかった。俺は動揺する心を誤魔化そうと再び口を開く。

「ほら、もうすぐ真那の誕生日だろ? だから……なにか真那が好きだったものでもお供えしに行こうかなって思ってさ……」

 言い訳をするかのようにぎこちない口調で話せば、椿は伏せていた目をそっと閉じる。そしてきゅっと唇を噛んだかと思うと、静かな声で言った。

「そんなの……わたしに聞かないでよ」
 
 感情を無理やり押し殺したようなその声に、さっきまでの椿の面影はなかった。
 様子がおかしいことに気づいた俺が、「つば……」と彼女の名を口にしようとした時、彼女は何も言わず突然立ち上がる。そしてそのまま逃げるように教室の扉に向かって走っていく。

「椿!」

 俺が慌てて声を上げるも、椿は振り返ることもなく教室から出て行ってしまった。そんな彼女の異変にいち早く気づいた和輝が、椿の後を追うように教室を飛び出していく。

「……」

 重苦しい空気が包む中、俺はただ呆然としたまま立ち尽くしていた。ふと足元に視線を落とすと、椿が丁寧に切ってくれていた折り紙が、無残にも打ち砕かれたかのように散らばったままだった。
 教室を思わず飛び出してしまった私は、行くあてもなく、人気のない廊下をただ走っていた。胸にジクジクと広がっていくのはあの花火大会の時と同じ、後悔の痛み。
 
 私はまた歩に……

 悔みきれない後悔を抱えながら、私は誰もいない階段へと近づくと、そのままそこに腰を下ろす。そして両腕に顔を埋めた。走ったせいなのか、それとも胸の痛みのせいなのか、情けない息だけが唇から溢れる。
 しばらく顔も上げることができずただ座り込んでいると、ふと誰かが近づいてくる気配を感じた。

「椿……大丈夫か?」
 
 その声にゆっくりと顔を上げると、目の前には心配そうな表情を浮かべて自分のことを覗き込む和輝くんの姿。私は咄嗟に右手で目元を拭うと、「うん」と力なく頷く。

「歩のやつに、何かひどいこと言われたのか?」
 
 和輝くんは静かな声でそう言うと、私の隣に座り込んだ。そんな彼に向かって、私は小さく首を横に振る。

「私のほうが……歩にひどいこといっちゃった」
 
 そんな言葉をぼそりと呟くと、和輝くんは黙り込む。私は情けないなと思いつつも、我慢できない気持ちをぽつりぽつりと声にする。

「ほんとはね……わかってるんだ。歩には私よりもお姉ちゃんの方が必要だって。私じゃ全然歩の力になれないってことも……」

 ぎしりと痛む胸を握った拳で隠しながら、私は言った。熱を持った目元からは、今まで抑えてきた感情がとめどなく溢れてくる。

「お姉ちゃんが亡くなってからしばらくたった頃、歩がサッカー部やめちゃって学校にもあんまり来なくなって……あの時私、ほんとはすごく怖かった。もしかしたらお姉ちゃんだけじゃなくて、歩もいなくなっちゃうんじゃないかって思って……。だから、少しでも歩の力になって支えてあげたいって決めてたのに……私がこんなのじゃ、ダメだよね」
 
 そう言って私は両手で顔を覆った。自分にとって一番大切な人のそばに寄り添うことができない悔しさが、指先を伝って流れ落ちていく。 
 どれだけ想い続けても、どれだけ近くにいたいと思っても、自分のこの気持ちが、相手に届くことはない。大好きな人に、振り向いてもらうことはできない。そんな焦燥と胸を貫くような痛みだけが、行き場を失った言葉と共に心の中に溜まっていく。
 息が詰まるような沈黙が続いた後、私は涙を拭うとチラリと隣を見た。

「ごめんね。和輝くんにまでいつも迷惑ばっかりかけちゃって……」
 
 ぼそりとそんな言葉を呟くと、和輝くんは小さく首を横に振る。そして真剣な表情を浮かべたままゆっくりと口を開いた。

「俺は迷惑だなんて思ったことはないし、椿が一人で苦しむぐらいならいつだって力になるよ。……だって俺は」
 
 声音を強めた和輝くんはそこで言葉を止めると、私の顔を真っ直ぐに見つめてきた。

「……」

 深く息を吸った和輝くんは一瞬何か言いかけて唇を開くも、言葉の代わりに躊躇うようにため息を吐き出した。不思議に思った私が黙って見つめていると、彼が再びゆっくりと口を開く。

「俺で良かったらいつでも力になるからさ。だから、椿がしんどい時は頼ってほしい。一人で全部抱え込むのは辛いだろ」
 
 和輝くんはそう言うと、今度は優しく微笑む。私はそんな彼の言葉を聞いて、じわりと再び目元に熱が灯るのを感じてしまい、思わず顔を伏せる。

「ありがとう……」
 
 必死に絞り出した言葉は、届かぬ自分の想いのように、窓を打つ雨の音によってかき消されるように消えていった。
 朝から降り出していた雨は、教室を出る頃には小雨になっていた。
 俺は昇降口へと向かいながら、ズボンのポケットからそっとスマホを取り出す。画面を見ても、新着メッセージの表示はない。

「……」
 
 俺は小さくため息を吐き出すと再びスマホをポケットに戻した。頭の中に浮かぶのは、教室を飛び出していった椿の後ろ姿。
 結局椿はあの後しばらく経ってから教室に戻ってきたものの、和輝に説得されてすぐに帰ることになった。心配になってラインのメッセージは送ったが、いまだ既読にもならない。
 
 やっぱり話すべきじゃなかったか……

 真那の話しをしてしまったことに、今更になって後悔した。おそらく亡くなった姉の話しを唐突にしてしまったことがよほどショックだったのだろう。
 せっかく椿との関係が元に戻ったと思っていたのに、これじゃあまた逆戻りだ。
 そんなことを思いながら誰もいない昇降口にたどり着つくと、俺はスニーカーに履き替えて外へ出た。パラパラと振る雨を見て、右手に持っていたビニール傘を開く。バサリと広がった透明の膜が、自分の視界を僅かに濁らした。
 無意識にため息をついた俺は、そのまま泥状になった地面に足を踏み出そうとした。と、その時、不意に背中から声が聞こえる。

「……おい」
 
 久しぶりに自分に対して投げかけられたその声に、俺は思わず足を止めた。そしてゆっくりと振り返る。するとそこには、黙ったまま俺のことを睨みつけてくる和輝の姿があった。

「……」

 声をかけられた理由がわからず俺も黙っていると、小さくため息を吐き出した和輝が再び口を開いた。

「お前……椿のことどう思ってるんだ?」

「え?」
 
 突然告げられた予想もしなかった言葉に、俺は一瞬目を見開く。聞き間違いかと思ったが、和輝は俺のことを睨みつけたまま再び言った。

「だから……椿のこと、どう思ってんのかって聞いてんだよ」

 和輝はそう言うと、じわりと俺の方へと歩み寄る。先ほどよりも強い怒りが滲み出たその声色に、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
 なぜ和輝が、自分に椿のことを聞いてくるのか?
 状況がまったく理解できない俺は、とりあえず何か声を発しようと唇を動かした。

「べつに……」
 
 ぼそりと呟いた自分の言葉を聞いて、和輝は「は?」とさらに苛立ちを込めた声を漏らす。鋭く細められたその瞳には、かつて一緒にボールを追いかけていた頃の面影はない。
 これ以上話してもややこしくなりそうだと思った俺は、彼の目から視線を逸らすと、何も言わず再び歩き出そうとした。するとそんな自分に対して、和輝は勢いよく右手を伸ばしてきたかと思うと俺の肩を掴んだ。その拍子に、右手に握っていた傘が地面に落ちる。

「ちょっと待てよ……『べつに』ってどういうことだ?」
 
 一層厳しさを増した和輝の口調に、俺は小さくため息を漏らすと、左手で彼の腕を振り払った。

「お前には関係ないだろ」
 
 さすがに我慢の限界に達した俺は、吐き捨てるような口調で言った。直後、胸元に強い衝撃が走る。思わず閉じた目を再び開けると、胸ぐらを掴んできた和輝の顔が目前に迫る。

「関係あるから聞いてんだよ!」
 
 誰もいない静かな昇降口に、和輝の怒鳴り声が響いた。滅多に見ることのない和輝のそんな姿に、俺は反射的に唾を飲み込んでしまう。けれど、その怒りの矛先が、何に向けられているのかわからない。

「だから、俺はなにも……」
 
 動揺しながらも口を開く自分に、和輝は「くっ」と声を漏らすと俺のことを勢いよく突き飛ばした。
 バランスを取り損ねた自分は、そのまま後ろへと尻餅をついてしまう。雨に濡れた地面の匂いが鼻先をかすめ、手のひらには生ぬるい土の感触が広がる。
 痛みに目を細めていた俺が顔をあげると、鋭い視線で自分のことを見下ろす和輝の姿が映る。

「椿は……」
 
 こみ上げてくる怒りをぐっとこらえるかのように、和輝が静かな声で言う。

「椿は……いつもお前のこと心配してんだぞ」

「……」
 
 俺は黙ったままその言葉を聞いていた。胸に込み上げてくるのは、椿のことよりも、理不尽に怒りをぶつけてくる和輝への苛立ち。
 自分のことをもう何も知らない相手が、なぜこんなにも偉そうな態度を取ってくるのか?
 何度消そうとしても消えない真那への後悔が、そんな俺の感情をさらに刺激する。

「だから何だよ……」
 
 俺は声を押し殺しながら、和輝の顔を睨んだ。

「何も知らない奴が余計な首突っ込むな」
 
 吐き捨てた言葉に、じわりと血の味が広がる。どうやらさっき突き飛ばされた時に口の中を切ってしまったようだ。
 それを唾液と一緒に外へ飛ばそうとした時、突然視界に和輝が飛び込んできた。馬乗りになってきた相手は両腕を勢いよく自分の胸元へと伸ばしてくる。そのせいで、ドンと強い衝撃と共に、俺の上半身が地面に叩きつけられた。

「ふざけんな!」
 
 耳をつんざくような和輝の怒鳴り声が鼓膜を突き刺す。俺は荒くなっていく息を感じながら、目の前の相手を睨んだ。すると燻んだ空を背に、和輝が再び強い口調で言う。

「お前こそ、椿の気持ちちゃんと知ってんのか! あいつはな、大切な家族を失って、それでも必死に立ち直ろうとしながらお前のことまで心配してんだぞ! 姉ちゃん亡くしたショックで歩まで失うんじゃないかって不安になりながらな!」

 戒めと共に、鋭い痛みを伴った言葉が自分の心を貫いた。その瞬間、脳裏に浮かんだのは、真那の一周忌の時に一緒に帰った椿の横顔。

 ちゃんと向き合おうと思ってーー

 いつか椿が呟いた言葉が耳の奥で静かに響く。あの時、そんな言葉を絞り出しながら椿の指先が微かに震えていたことを、俺はまだ覚えていた。
 それでも椿は、今も前に進もうとしている。死んだ真那が悲しまないように。そして、自分のことを支えるために。
 黙ったまま瞼を閉じると、胸ぐらを掴んでいる和輝の腕の力がふっと緩んだ。

「頑張ってたサッカーもやめて、塞ぎ込んだお前がまた立ち直れるように力になりないってあいつ……、椿のやつ、泣きながら俺に話してたんだぞ……」

「……」
 
 そう伝える和輝の声からは、先ほどまでの怒りの感情はなくなっていた。代わりに伝わってくるのは、行き場を失ったような悲しみと、ぽっかりと穴の開いた虚しさ。
 荒くなった呼吸を落ち着かせようと大きく息を吸った時、胸元を掴んでいる和輝の手が微かに震えていることに気づいた。

「もう……逃げんなよ」
 
 ぽつりと和輝の口から溢れた言葉が、自分の心に波紋のように広がっていく。わかってる。本当は自分も椿のように、前に進まなくてはいけないことを。そしてそれを、真那も望んでいるということを。
 どれだけ望んだとしても、これから先の未来には、オルゴールが起こすような奇跡はもうやってこない。
 自分にはこの命がある限り、目の前を向いて歩き続けるしかない。真那が教えてくれたことを、生き方を、今度は自分が示さなくてはいけないのだ。
 胸の奥から込み上げてくる気持ちにそんなことを思っていると、再び和輝の声が聞こえた。

「なあ歩……」
 
 懐かしい声音で自分の名を呼ぶ和輝の声に、俺はハッと我に返る。すると長い間止まっていた時計を動かすかのように、和輝はその唇をゆっくりと開いた。

「俺は今でも……待ってるぞ」