この日も結局、俺は大量の画用紙と向き合い、そこに色を塗っていくという地味な作業を永遠と繰り返していた。時折顔を上げては、教室の後ろの方で作業をしている椿の様子を伺った。
 昨日のこともあるせいか、今日の椿は明らかに様子が違っていて、まだ一言も会話を交わしていない。
 そんなことを思いながら黙って作業を続けていると、隣にいる真一が不意に口を開いた。

「なあ歩、椿ちゃんとなんかあったのか?」
 
 どこか様子を伺うように、少しおずおずとした口調で尋ねてくる真一。そんな彼の言葉に一瞬ピタリと手が止まるも、俺は何食わぬ顔をしながら「べつに」といつも通りの口調で答える。すると真一がすぐに反論してきた。

「べつにって……お前ら今日ぜんっぜん話してないじゃん。いつもなら、『昨日何食べたー?』とか『今日は何時に寝る?』とか楽しそうに話してるくせに」

「そんな話ししたことないだろ」
 
 呆れた口調で俺はそう言うと、近くに落ちていた段ボールの切れ端で真一の頭を軽く叩く。リアクションに抜かりない相手は、「いてッ!」と大袈裟に頭を押さえていた。

「歩! 暴力はなしだぞ暴力は」

「お前が変なこと言ってくるからだろ」.

 俺はそう言って大きくため息をついた。すると視界の隅では、一人作業を続けている椿も同じようにため息をついていることに気づく。

「でも今日の椿ちゃん、なんかいつもと違うんだよなー。なんかこう元気がないっていうか、落ち込んでるというか……」

「……」
 
 ぶつぶつとそんなことを一人呟いている真一。俺はそんな真一の話しを聞き流しながらも、もう一度教室の後ろの方を見た。椿は明日香たちと笑いながら作業を続けている。けれどその表情が無理をしているということは明らかだった。
 俺はそんな彼女の様子を見て、またも小さくため息をついてしまう。花火に誘われたことを断ったとはいえ、それだけであそこまで落ち込むのは椿らしくない。たぶん他にも何か原因があるのだろう。
 俺はそんなことを考えて首を捻るも、これといって思い当たるものがなかった。

まあ花火の件もあるし、後で謝るついでに一緒に聞くか……

 おそらく椿のことだからなかなか素直に話さないとは思うが、一人で抱え込みやすい彼女をそのままにしておくわけにもいかない。
 そんなことを思った俺は、椿にどんな言葉をかけようかと頭の中で考えながら、再び手元に視線を戻して作業を続けた。

「歩! 俺は先に帰るぞ」

 珍しく途中から黙って作業に集中していた真一はそう言うと、我先にといわんばかりにいそいそと片付けを始めた。そしてすぐに鞄を持ったかと思うと、「じゃあな!」と満面の笑みを浮かべながら教室の扉へと向かっていく。
 そんな後ろ姿を見て、俺は呆れて肩を落としながらも、班の女子たちと一緒に片付けを始めた。今日はいつも以上にゴミが多く、もちろん男手の俺は最後にゴミ捨てを頼まれる。おそらくそんなことも予想して、真一は急いで帰ったのだろう。
 
 そういうところはほんと抜け目ないよな、アイツ。
 
 いつも時間にルーズで提出物もまったく出さない真一だが、違うところの管理能力だけは高いらしい。
 そんなことを考えながら昇降口へと向かうと、靴箱のところで椿の姿がちらりと見えた。どうやら彼女も今日は残らず帰るようで、ちょうど靴を履き替えているところだった。
 一人ということもあるのか、その表情はどことなく暗く、俺はそんな彼女の姿を見て小さく肩を落とした。そして声をかけようと思い一歩踏み出した時、今度は別のところから彼女を呼ぶ声が聞こえてくる。

「椿ももう帰るとこなのか?」

 その声と共に昇降口に現れたのは、和輝だった。俺はその瞬間、思わず足を止めた。

「そうだよ。和輝くんは今日部活ないんだっけ?」

「ああ、今日は練習試合なくなったからさ。真一のやつ、『それなら遊びに行ける!』ってすぐに帰りやがった」

「だからあんなに急いでたんだ」
 
 和輝の話しを聞いて、椿はぷっと吹き出す。クスクスと楽しそうに喉を鳴らす彼女の笑い声が、自分たちしかいない昇降口に響く。
 
 なんだ、思ったよりも元気そうだな。
 
 俺はそんなことを思うと、用意していた言葉をそっと飲み込んだ。
 二人の会話が聞こえなくなり様子を伺うように覗いて見ると、靴箱の前にはもう誰もいなかった。
 それに安堵した俺は自分の靴箱まで向かうとスニーカーに履き替える。ふとガラス扉の方を見てみると、眩しく降り注ぐ陽光の下を並んで前に向かって歩く椿たちの姿が映った。
 透明なガラス一枚隔て見えるその景色を眺めていると、何故だか一瞬、自分だけが過去に取り残されているような気がした。