人の波に飲まれながらも川辺へと降りることができる階段が見えてきた時、俺の耳に笛の音に似た大きな音が聞こえてきた。直後、心臓にも響く爆発音と共に、視界の上部で鮮やかな火花が夜空に散った。
 その瞬間、「おおッ!」と周りでは頭上を見上げて歓声をあげる人たち。どうやら花火大会が始まったようだ。
 俺は立ち止まる人たちを避けながら、階段を急いで降りていく。川辺にもすでに人が溢れていて、花火がよく見える場所はどこも埋まっていた。
 それでも俺は真那と一緒に見やすい場所はないかときょろきょろと辺りを見渡す。その間も上空では爆発音を響かせながら次々と光の花が咲いていく。何度も見てきたとはいえ、間近で見るその迫力はいくつになっても心を震わすものがあった。

「この辺でいいか……」

 俺は比較的人の数が少ない空き地を見つけて立ち止まった。水面に映る花火はその勢いを増していき、もう間もなく最初のフィナーレを迎えそうだ。
 空から降り注ぐ色彩豊かな光を見つめながら、俺はオルゴールを取り出してタイミングを見計らう。ゴクリと唾を飲み込んだ時、今まで聞いた中で一番大きな爆発音が聞こえてきた。
 
 今だ!
 
 闇に包まれた上空と、揺らめく水面に無数の花火が咲き乱れた瞬間、俺は握っていたオルゴールの蓋を開けた。その瞬間、微かにパチンという音が聞こえた直後、祭りの音で賑わっていた世界が、まるで魔法にでもかけられたかのように一瞬にして静寂に包まれる。
 そして代わりに耳に届いてきたのは、何度も聞いてきたあの思い出のメロディ。そして……

「おぉッ! すごいすごい! こんなの初めて見た!」
 
 どこからともなく興奮気味の嬉しそうな声が聞こえてきて、俺は慌てて辺りを見回した。
 すると目の前の川辺近く、左右に括った髪を揺らしながらぴょんぴょんと飛び跳ねている制服姿の真那を見つける。そして彼女の視線の先には、おそらくほとんどの人は体験することができないであろう、神秘的な光景が広がっていた。

「歩やるじゃん! まさにベストショット!」
 
 こちらに気づいた真那が、振り向き様に満面の笑みを浮かべて声をあげる。それを見て俺もふっと口元を緩めた。

「だろ! 真那のためにフィナーレのタイミングを見計らってたんだからな」
 
 俺はそう言うと彼女の隣へと並ぶ。「さっすが!」と嬉しそうに声を上げる真那は、パシパシと背中を叩いてきた。どうやらこれで、『特大花火を一緒に捕まえる!』という目標は達成できたと思ってよいのだろう。

「まさか今年はこんな花火を観れるとは思わなかったよ!」
 
 無邪気な笑みをこぼしながら、真那は目を輝かせて目の前に広がる世界を見つめていた。俺も同じように、眼前に映る景色に見入った。
 そこに広がっていたのは、一瞬だけの幻を永遠へと変えてしまったような世界。その命を最大限に咲かせた無数の花火たちが、はるか上空から足元の水面まで、まるで一枚の絵のように続いている。
 しだれのように降り注ぐ火花はその輝きを放ったまま光のカーテンのように連なり、大輪を咲かせた花火は闇夜を虹色に染めていた。
 俺は隣にいる真那の横顔をチラリと見た。彼女は相変わらず歓喜の声をあげて、僅かな瞬間だけ見ることができる奇跡に見入っている。そこから放たれる光を浴びて、彼女の白い肌と着ている制服も淡い虹色を帯びていた。

「世界広しといえども、こんな花火を観られるのは私たちぐらいだね!」
 
 真那はそう言うと、俺の顔を真っ直ぐに見てきた。その瞳も、何一つ昔と変わらない姿も、俺からすればこの花火と一緒で奇跡以外のなにものでもない。
 だからだろうか。
 その奇跡を見れば見るほど、一瞬だけ輝くことができる彼女の命を感じれば感じるほど、どうしても自分の心の奥底にある影が疼いてしまう。
 俺はその不安から逃れる為に、確かめるような口調でおそるそおる口を開く。

「真那……」
 
 改まった声で名前を呼ぶ自分に、「どしたの?」と真那は無邪気な笑みを浮かべたまま尋ねてくる。俺はそんな彼女からそっと視線を逸らすと、再び静かに口を開いた。

「その……来年もこうやって二人で花火見れるよな?」
 
 俺がぼそりと呟いた言葉に、真那は一瞬目をパチクリとさせる。そんな仕草一つでさえも、今の自分にとってはこの目にも心にも焼き付けたいほどで、胸の奥が強く締め付けられてしまう。
 俺の質問は、予想に反して短い沈黙を生み出した。その間、オルゴールの音色だけがやけに耳に響く。真那は何も言わず目を瞑ったかと思うと、すっと小さく息を吸い込む。そして、潤んだその唇を静かに開いた。

「……それは、どうだろうなぁ」

「えッ?」
 
 彼女の言葉に俺は思わず声を漏らす。真那は瞼を閉じたまま、何かを考えている様子だ。

「だってこのオルゴールを鳴らせば、いつだって真那に会えるんだろ?」
 
 俺は声を強めて尋ねた。このオルゴールがある限り、たとえ短い時間とはいえ自分は真那に会うことができる。だから来年も、再来年も、こうやって二人だけの世界で花火を見ることもできるはずだ。そう、こうやって……
 言葉を詰まらせて沈黙してしまう自分の前で、真那は何も答えないままゆっくりと瞼を上げた。その瞳に、いつもの子供っぽい無邪気な彼女はいなかった。沈黙が、やけに自分の心に重くのしかかる。
 足元から纏わりついてくる不安を振り払うかのように「なあ…」と俺がもう一度同じ質問をしようとした時、落ち着いた声音で真那が口を開いた。

「ねえ、歩」

「……なんだよ」
 
 彼女の声に、俺は無意識に少し身構える。すると真那はふっと口端を小さく上げると、くるりと身体の向きを変えて再び花火の方を見上げる。