椿と和輝が教室を出て行った後、俺は明日香たちの手助けも借りて何とか教室の床を元の姿に戻すことができた。そして余計な足を引っ張ってしまったものの、看板作成のほうも軌道修正することができ、今日の分のノルマを終わらせることができた。

「いやー一時はどうなることかと思ったけど、今日は手伝ってくれてありがとね!」

「……」

 作業の片付けが終わって目の前にやってきた明日香の言葉に、俺は罰が悪くなってしまい思わず黙り込む。すると彼女は、「そんなに気にしなくてもいいって! 冗談だよ冗談」と言って笑いながら俺の肩をパシパシと叩いてきた。

「歩くんって実は意外と優しいんだね」

「実は意外と、ってどういう意味だよ」

 俺は照れ隠しのつもりで呆れた口調で呟く。すると明日香がまたクスクスと肩を揺らす。

「そのままの意味だよ。まあ確かに椿の気持ちもわからなくもないか」

「…………」

 どうしていきなり椿の名前が出てきたのかはわからないが、これ以上どう会話を続けていいのかもわからないので、「じゃあまた」と俺はそんな言葉を口にした。
 そして明日香に背を向けて教室の扉へと向かおうとした時、「え?」と背中越しに彼女が少し驚くような声が聞こえてくる。

「椿が戻ってくるの、待たなくていいの?」

  当たり前のような口調で、不思議なことを言ってくる彼女に、俺は「何で?」と振り向き様に首を傾げる。すると彼女は「何でって……」と俺以上に首を傾げた。

「……」

「……何だよ」

 黙ったまま自分のことを見つめてくる明日香に、俺は何だか居心地の悪さを感じて目を細めた。すると彼女は俺に一歩近づいてきたかと思うと、「あのさ……」と何故か小声で口を開く。

「歩くんって、椿のこと……」
 
 ひそひそ話しでもするかのように俺の耳元で囁く明日香。けれど彼女は喋り切る前に言葉を止めたかと思うと、再び俺から一歩距離を取った。

「いや、やっぱいいや。椿に悪いし」

「……?」

 まったく話しの内容が掴めず俺が黙ったまま突っ立っていると、「ごめん足止めちゃって」と明日香は笑い、じゃあまた明日! と言って班の女子がいる方へと戻っていく。

「……何だったんだよ今の」

 彼女の後ろ姿を見つめながらそんな言葉を呟いた俺は、小さく肩を落とすと再び扉の方へと身体を向ける。ちらりと椿からもらった腕時計を見ると、予定よりもだいぶ帰る時間は過ぎていた。
「はぁ」とまた小さく肩を落とした俺は、賑やかな声がまだ残る教室を後にして、一人昇降口へと向かう。そして靴を履き替えて外に出ると、今度は部活中の生徒たちで賑わっている運動場の端をひっそりと歩いた。と、その時。どこからともなく足元にサッカーボールが転がってきた。

「すいません!」

 その声に顔を上げると、一年生だろうか、去年自分も着ていたユニフォームを着た知らないサッカー部の生徒がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
 俺はつま先を使って足元に転がっているサッカーボールを自分の身体に寄せると、走ってくる生徒に向かってパスを出した。どうやらブランクはあるものの身体はまだボールの感覚を覚えていたらしく、それは綺麗な放物線を描きながら相手の足元へと落下する。

「あ、ありがとうございます!」

 まさかサッカー部でもない生徒からスムーズなパスが届いてくるとは思わなかったようで、相手は少し驚いたような表情を浮かべながら自分のことを見ていた。
 俺はそんな彼から目を逸らすと、再び校門に向かって歩き始める。右足には、さっき蹴ったばかりのサッカーボールの感覚が少しだけ残っていた。