「まあでもこれで、歩が実は変態野郎だってことがわかったから以後気をつけよっと」
真那はそんな心外な言葉を口にすると、よいしょよいしょと言って座布団ごと俺から離れていく。
「あのな……」
さすがに変態野郎と決めつけられたままで消えられては困るので今度は俺が口を開いたと、その瞬間。何かに気づいた真那が「あッ」と先に声を発した。
「歩、時計買ったんだ!」
「え?」
突然話題が変わってポカンとする俺に、真那はそのほっそりとした人差し指を俺の左腕へと向けてきた。
「ああ……これはこの前椿が誕生日プレゼントでくれたんだよ」
俺はそう言うと真那に向かって腕時計を見せる。
「なるほど……どおりで歩にしてはセンスが良かったわけか」
「おい」
本日2度目の心外な言葉に、俺はすぐさまは目を細める。すると真那は愉快そうに肩を揺らした。
「冗談だって。歩もオシャレだよ、オシャレさん」
「……その言い方、絶対思ってないだろ」
ますます目を細めてそんなことを言えば、返ってくるのは「ほんとだって」と心のこもってない言葉。
こりゃダメだ、と諦めてため息をついた時、「あれ?」と真那が不思議そうな声を漏らした。
「その時計……もしかして、動いてる?」
「え?」
その言葉に、驚いた俺は目をパチクリとさせる。そして慌てて自分が付けている腕時計を見た。
「ほんとだ……動いてる」
何度も瞬きを繰り返す視線の先、そこには時間が止まっているはずの世界で、今もなお時を刻んでいる文字盤の姿があった。
「どういうことだ?」と思わず声を漏らした俺は、立ち上がると窓の外を見た。固まったままのレースカーテンの向こうに見えるのは、同じように時間を止めた風景だった。
「やっぱりこの腕時計だけが動いてるんだ」
いつの間にか隣に近づいてきた真那が、腕時計を見つめながら唸るように言った。
「なんで椿からもらった時計だけ動いてるんだ?」
素直な疑問を口にすると、「うーん」と真那は難しい表情を浮かべながら目を閉じる。
「何でだろ……私にもわかんないや」
再び目を開けた真那が、お手上げと言わんばかりに両手を広げた。そんな彼女の姿に、「何でだよ」と俺は思わず突っ込む。
「まあよくわかんないけど、さすが私の妹ってことだよね!」
「どんなまとめ方だよ、それ」
「だってこればっかりは私にもわかんないもん。それに、動いてるのは椿からもらった腕時計だけでしょ?」
そう言って彼女は壁に掛けている時計を指差す。椿からもらった腕時計が一秒ずつ時を進めていく中で、その時計は電池が切れたようにピタリと止まっていた。
「ほらあれも」と言って今度は真那が窓の向こうを指差す。その指先が指し示す場所を辿ってみると、部屋の時計と同じく、公園にある時計塔も時を止めていた。
ただでさえ不思議な世界の中で、さらに起こった不思議な出来事。
時間が止まったこの世界を作り出した真那にわからないのであれば、椿からもらった腕時計だけがどうして動くのかなんて俺にわかるはずがない。ただ……
「じゃあこれで真那と会ってる時も何分経ったかわかるわけだな」
「みたいだね」
俺の言葉に真那がニコリと微笑む。そして彼女はまた腕時計を覗き込んだ。
「ちゃーんと椿に感謝しないとダメだよ」
「わかってるって……ってかなんで真那がそんなに偉そうなんだよ」
「そりゃだって、私は椿のお姉ちゃんだもん」
そう言って、何故かえっへんと胸を逸らす真那。俺はそんな彼女の姿に呆れながらも、思わずぷっと吹き出してしまう。
すると「そこ笑うとこ?」ときゅっと眉を寄せた真那がわざとらしく怒った口調で言う。けれど彼女はすぐにいつもの笑顔を見せると、静かにその瞼を閉じる。
「あの子、ほんとは寂しがり屋のくせに私に似て頑固なところもあるから……。だから、歩がしっかり守ってあげてね」
落ち着いた声で、さっきまでとはまるで違う大人びた口調で真那が言った。
そんな彼女の言葉に、俺は少し動揺してしまう。それを誤魔化すように唾を飲み込むと、「わかってる」と小声で呟いた。
いつもあっけらかんとしている真那だけど、不意にこんな顔を見せることが昔からあった。そんな時の彼女の姿は、近くにいるはずなのにいつもどこか遠くにいるように感じてしまい、心の中で不安がざわりと疼くのだ。
思わず黙り込んでそんなことを考えていた時、机の上を眺めていた真那が「あッ」と再びいつもの調子で口を開いた。
「そっか、もうすぐ天宮まつりがあるんだね!」
そんなことを嬉しそうに呟く真那の視線の先には、親父が酒屋でもらってきた卓上用の小さなカレンダーがあった。地元の紹介として写真が載っているそのカレンダーには、闇空に大きく打ち上げられた花火が盛大に写っている。
この街では、毎年夏になると近くの河川敷でお祭りが開かれるのだ。全国的にもわりと有名なお祭りらしく、メインイベントの花火は遠方から訪れてくる人も多いと聞く。俺も幼い頃から家族や友達たちとよく見に行っていた。
真那はアルバムでも見るかのように懐かしそうに目を細め、「去年は見れなかったもんなぁ」とちょっと寂しそうに呟いた。俺が返す言葉に困っていると、まるで気にしなくていいよといわんばかりに、彼女はけろりとした声で言ってきた。
「ねえ。お祭りの日にマルしてるけど、歩は誰かと見に行くの?」
「え?」
真那の言葉にハッとした俺は慌てて顔を上げた。そしてカレンダーを見つめる。そこには完璧な円には程遠い汚い形で、祭りの日にマルがされている。しまった、と俺は思わず心の中で呟く。
「あー……まあな」
あーとぼやいている間に言い訳を探そうとしたが何も思いつかず、俺は言葉を濁すように声を漏らした。
もちろん祭りの日に丸がついているのは、どこかの誰かさんが手帳に書いていた『特大花火を一緒に捕まえる!』という解釈次第で実現可能な願望を達成する為だ。
が、それは本人にはサプライズにしておいて当日驚かそうという、俺個人のもう一つの計画もあった。しかし……
急に黙り込んだ俺を見て、真那はニヤリと口元を緩める。
「ね、誰と見に行くの? 誰だれ??」
俺の個人的な計画は、早くも難航しかけていた。空気を読まずに「誰だれ?」の言葉を連発する彼女に、「別に誰でもいいだろ」と俺は目を逸らしてめんどくさそうに答える。
「ふーん。あやしいな……」
どうやら素っ気ない態度が逆に裏目に出てしまったようで、真那はさらに興味津々といわんばかりに俺の顔を覗き込んでくる。内心かなり動揺してしまっている上、間近に真那の顔があることに耐えきれなくなってしまった俺は、結局諦めて大きなため息をつく。
「お前なあ……ちょっとは空気読めよ」
「何がよ」
俺が少し冷めた口調でそんなことをいえば、真那は拗ねたようにむっと頬を膨らませる。けれど黙ったままじーっと見つめる俺の視線の意味にやっと気づいたようで、「あ、ごめん」としまったと言わんばかりの表情を浮かべた真那は、それを誤魔化すようにぴっと舌を出した。
「そっかそっか! ってことは今年は私も花火が見れるんだね!」
早くもその気モードになってしまった彼女は、一人嬉しそうにうんうんと何度も頷いている。どうやら俺のサプライズ計画は、花火を見るよりも前に散ってしまったようだ。
「じゃあ今年の花火大会は気合いを入れて浴衣でも着てみよっかな!」
「え? 服、着替えれるのか?」
俺は思わずそんな言葉を口にすると、いつも制服で現れる真那のブレザー姿を見た。どうしていつも制服なのかわからないが、現れる前に服装を選ぶことができるのだろうか。
真那の浴衣姿……
思わずそんなことを意識してしまった俺は、ゴクリと小さく唾を飲み込む。
性格は衝撃的なほど破天荒だが、ひいき目なしに真那は人目を引くほどの容姿はしていると思う。そんな彼女であれば、きっと浴衣姿も綺麗に似合うだろう。
無意識に期待にも似た眼差しを真那に向けてしまっていると、視線の先で彼女がにゅっと眉根を寄せた。そして何やら考え込み始める。
「んー……わかんない」
「何だよそれ」
期待外れの言葉を漏らす真那に、俺は思わず肩を落とした。するとすぐにあっけらかんとした明るい声が返ってくる。
「でももしかしたら、作業着姿ならなれるかも!」
「それはやめろ」
なぜか自信満々に宣言する彼女に、俺は即答で答えた。いくら真那の作業着姿も懐かしいとはいえ、さすがに祭りの日に見ようとは思わない。
そんなことを考えて苦虫を噛んだような顔を浮かべていたら、どうやら真那は浴衣よりも作業着の方を着たかったみたいで、「えー」と不服そうな声を漏らしている。そして拗ねてしまったのか、突然しゃがみ込んだかと思うと、テーブルに頭を伏せる。
「おい真那、何もそこまで……」
作業着を否定することは彼女にとっては禁句だったのか、俺の言葉に真那は顔を上げない。
呆れてため息をついた俺は彼女と同じように座布団へと腰を下ろすと、右手で頭をかく。すると目の前で、真那が小さく肩を揺らしながら笑っていることに気付いた。
「……今度はなんだよ」
相変わらず彼女のペースについていけない俺がそんな言葉を漏らすと、真那がチラリと上目遣いでこちらを見てきた。
「嬉しいの」
「え?」
予想しなかった言葉に、俺はきょとんとした表情を浮かべた。何がだよ? と問い直す前に、顔を上げた真那が再び口を開く。
「歩と一緒に花火見れることが」
「……」
そう言って白い歯を見せて嬉しそうに笑う真那。その笑顔にはあまりにも屈託がなく、だからだろうか、俺の方が何故か無性に胸を締め付けられた。
真那と会えるのは、真那がこの世界に戻ってこれるのは、たったの10分間。
その僅かな時間の中でしか彼女は生きることができない。それでも真那は、こうやって俺と過ごす時間を楽しんでくれている。楽しみにしてくれている。
嘘偽りのない彼女のそんな姿を見て、心の奥底にずっと押し込めていたはずの感情が再び疼いた。
「あのさ、真那……」
ドクドクと加速していく心臓の音を耳の奥で感じながら、俺はゆっくりと口を開いた。俺の気持ちなど何も知らない真那は、「なに?」とニコリと笑ったまま首を傾げる。
「俺、本当は……」
躊躇うように息を吐き出しながら、俺は続く言葉を喉の奥に用意する。本来であれば、もう二度と伝えることができなかったはずの言葉。
押し込めていた気持ちと一緒に後悔の色に塗られていたその言葉を、俺はちゃんと声にして届けようと息を吸った。と、その時だった。
耳に聞こえていたはずのオルゴールの音色が不意に止まって、視界の隅で風がカーテンを揺らした。夢から覚めたようにハッと我に返った自分が目の前を見ると、そこにはもう彼女の姿はない。
「真那……」
俺は思わずその名をぼそりと呟くも、もちろん返事は返ってこない。さっきまで聞こえていなかったはずの子供たちが遊んでいる声が、オルゴールの音色の代わりに窓の外から聞こえてくる。
また俺は伝えることができなかった……
喉まで込み上げていた熱を持った言葉たちは、再び後悔に変わって胸の奥へとじりじりと沈んでいく。それと同時に心に広がっていくのはどうすることもできない虚しさ。
けれどそんな虚しさだけが唯一、さっきまで自分がたしかに真那と会っていたことを証明してくれているようにも思えた。
夏休みに入ってからの文化祭の準備は、相変わらず日によってかなりバラつきがあった。
スムーズに午前中に終わる日もあれば、部活などの関係で班のメンバーが足りない時は夕方ぐらいまで続くこともある。
なるべく作業の負担はみな平等にしようという配慮なのか、遅くまで残っていた班は次の日には早く帰れることになっていた。その配慮のおかけで、自分たちの班が今日は早く帰れることに俺は内心喜びながら作業を続けていた。
「よしッ! 今日の作業は終わりっと!」
何故か一番最後にやってきた真一が、一番最初に今日の仕事の終わりを宣言する。「お前な」と呆れた口調で呟く俺のことは一切気にせず、真一はせかせかと班の女子たちと一緒に片付けを始める。まあ早く帰れるにこしたことはないので、俺も黙って同じように手を動かす。
片付けも大片目処がついてそろそろ帰る準備でもするかと思った時、教室の後ろの方から明日香の嘆くような声が聞こえきた。
「えー、椿まで抜けちゃうの?」
まるで母親と離れることを嫌がる幼子のような声で明日香が言った。その視線の先では、こちらも幼子を見るような目で、椿が困った表情を浮かべている。
「ごめん明日香。今から他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから……、終わったらすぐに戻ってくるよ」
椿は申し訳なさそうにそう言うと、明日香に向かってパンと小さく手を合わせた。
「仕方ないなー。じゃあアイス一つで勘弁してやるか」
「ありがと明日香!」
交渉は無事に成立したようで、「よーし、二人で頑張るか!」と気を取り直した明日香は同じ班の女子に向かって言った。彼女たちの班は、一昨日から教室の入り口に置く大きな看板を作っている。
とりわけ作業量が多い仕事なのだが、同じ班のクラスメイトが部活の遠征のため二人欠けているのだ。そんな中で椿が打ち合わせのために抜けると言ったので、明日香は嘆いていたのだろう。
「すぐ戻るね」と言った椿は、そのまま和輝がいる班へと向かっていく。そして手に持ったプリント片手に話しているところ見ると、どうやら事前の打ち合わせをしているようだ。
帰る支度を終えて教室の扉の方へとつま先を向けていた俺は、そんな彼女たちのやり取りを見て小さくため息をついた後、今度は明日香たちの班の方へと足を向ける。そして、両手を塗料まみれにしながら真剣な表情で色を塗っている明日香に向かって口を開いた。
「手伝おうか?」
突然声を掛けられて驚いたのか、明日香は「えっ?」とビクリと肩を震わすと、慌てた様子で後ろを振り返ってきた。そして声をかけてきたのが俺だったということに、さらに驚いたように目をパチクリとさせる。
「歩くん、昨日も遅くまで残ってくれてたじゃん」
申し訳なさそな言葉を口にするも、すでに明日香の目には期待にも似た輝きが満ちていた。俺はそんな彼女の素直さに思わず吹き出しそうになるのを堪えて、「別に構わないぞ」と端的に答える。
「やった! じゃあお願いしちゃおっかな」
明日香そう言うと、小さくガッツポーズをした。そして白い塗料がたっぷりと入った缶を俺へと差し出す。
「なら歩くんはこの辺りの色塗りをヨロシク! あ、新しい筆はそこにあるから」
明日香は嬉しそうにそう言った後、よほど人手がほしかったのか、上機嫌に鼻歌を歌いながら自分の作業に戻っていた。本当は今頃下校途中のはずだったけれども、まあここまで喜んでくれるのであれば、たまには手伝うのも悪くはないだろう。
そんなことを思いながら俺は目の前に置かれているビニール袋の中から新しい筆を取り出すと、その先端を缶の中へと突っ込む。飲み込まれるように先端から半分以上姿を消した新品の筆は、ここぞとばかりに塗料を吸い込みずしりと重くなる。
そして筆先を缶の中から引き上げると、明日香たちが下書きをしてくれた段ボールに色を塗ろうとした。が、筆先からぽたぽたと滴り落ちる塗料が、左腕につけている腕時計めがけて宙に放り出された。
ヤバいッ!
咄嗟に心の中でそんな言葉を叫んだ俺は、慌てて左腕をズラす。すると間一髪のところで腕時計は守ることができたものの、今度は左手の甲に何かが強く当たった。直後、辺り一面に白い塗料が飛び散った。
「うわッ!」
近くに立っていたクラスメイトが驚いた声を発すると同時に、俺の目の前には真っ白な海が床一面に広がっていた。
「あちゃー、派手にやっちゃったね」
俺の隣で驚いていた明日香が、今度は困ったような笑みを浮かべながら言った。
しまった、と思った俺は慌てて倒した缶を拾い上げると、明日香たちに向かって謝ろうとした。が、そ瞬間。俺が口を開くよりも先に、背後から突然声が聞こえてくる。
「何やってんだよ」
敵意むき出しのその声に後ろを振り返ると、そこには鋭い目で自分のことを睨みつけてくる和輝が立っていた。先ほどまで賑やかだった教室内の空気が、一瞬にして静まり返る。一触即発と言わんばかりの重苦しい空気に、隣にいる明日香が慌てた様子で口を開いた。
「ごめん和輝くん! すぐに拭くから」
何とか場を和まそうとする明日香の言葉も虚しく、和輝は黙ったまま俺のことを睨み続ける。このままだと殴りかかってきそうな和輝の雰囲気に思わず押し黙っていると、今度は椿の声が聞こえてきた。
「歩……大丈夫?」
そう言って俺の隣にやってきた椿はしゃがみ込むと、手に持っていた雑巾で床を拭き始めた。するとそれを見た和輝がすぐさま口を開く。
「椿がやる必要ないだろ。そいつに掃除させろよ」
和輝が冷たい声で吐き捨てるように言った。そんな彼の態度に一瞬イラッとしたものの、もちろんこれは自分のミスなので、俺は無言で椿の持っている雑巾を右手で掴む。すると何か言いたげな目で椿が和輝を見上げた。
「でも……」
「もうすぐ打ち合わせ始まるだろ。おい、俺らが戻ってくるまでには綺麗にしとけよ。怒られるのはお前だけじゃないんだからな」
和輝はそう言うと小さく舌打ちをしてから俺に背を向けて教室の扉に向かおうとする。
「逃げてばっかのやつが余計なことするなよ」
あえて聞こえるかのように呟かれたその言葉に、胸の奥に一瞬痛みが走った。俺は目を細めて和輝の背中を睨んだが何も言うことはできず、そのまま椿から雑巾を受け取る。
「歩……」
不安げに俺の名前を呟いた椿はそのままゆっくりと立ち上がると、先に和輝が出て行った教室の扉に向かって歩き出す。
俺はそんな彼女の後ろ姿をチラッと見た後、再び自分の足元を見る。そこには明日香たちが一生懸命に下書きをしてくれたダンボールが、見るも無罪に塗料で真っ白に染まっていた。
「ごめん……」
俺は顔を上げて明日香たちの方を見ると謝罪の言葉を告げる。すると明日香は気まずくなった空気を振り払うかのように明るい声で言った。
「ううん、そんなこと気にしなくても大丈夫だって! それに白色の方が上から綺麗に書けるでしょ」
明日香はけらりとした明るい声でそう言うと、班の女子と一緒に雑巾を持ってきて、一緒に床を拭き始めてくれた。
俺はそんな彼女たちにもう一度謝罪すると、手に持っている雑巾を力任せに床に擦り付ける。が、塗料はすでに固まり始めているのか、胸の奥にこべりついた嫌な感情のようになかなか取ることができない。
それどころか、白いはずのその塗料を見ていると、なぜか心の奥底にある黒く燻ったものが疼いてしまう。それと同時に無意識に脳裏に浮かぶのは、和輝が去り際に吐き捨てるように言ったあの言葉。
俺は拭いきれない感情を少しでも吐き出そうと深いため息をつく。
過去の思い出にしがみついて前に進めない自分の周りでは、来たるべき未来に向かって、クラスメイトたちが再び楽しそうに準備を進めていた。
打ち合わせを終えた私は、和輝くんと一緒に再び自分たちの教室へと向かっていた。通り過ぎていく他の教室の前では、様々な学年の生徒たちが個性豊かな出し物の準備をすすめている。
「どこのクラスも結構準備が進んでるみたいだね」
私はそんな言葉を呟くと、廊下に集まって楽しそうにペンキ塗りをしている生徒たちを見た。
「俺らも負けてられないな。それに、椿がデザインしてくれたカフェの制服も早く完成させたいし」
「はー……なんかそう言われたらすごくプレッシャーに感じちゃう。どうしよう、実物見るとすっごく変だったら……」
「はは、椿なら心配しなくても大丈夫だって。センスもあるし、今までの文化祭の中でも一番良いやつができるって」
「そうかなぁ。ならいいんだけど……」
自信たっぷりに宣言する和輝の言葉に、私は恥ずかしくなってつい下を向いてしまう。すると念押しといわんばかりに和輝くんが再び言った。
「絶対いけるって。椿のおかげで飲食部門の優秀賞も狙えそうだな」
「それは言い過ぎたよ。私の力なんて微々たるもんだし……。実際ここまで順調にこれてるのもクラスのみんなが協力してくれてるおかげだよ」
そこまで話すと私は一呼吸置くように小さく深呼吸をした。そしてまだチクチクとする胸の痛みを感じながら、「だから……」とおずおずとした口調で口を開いた。
「たぶんさっきの歩、私が打ち合わせで抜けるから明日香たちの手伝いをしようとしてくれてたと思うの。歩、そういうことにはよく気付いてフォローしてくれるから」
「……」
ぽつりぽつりと話し始めた私の言葉を、和輝くんは黙って聞いていた。目の前では他のクラスの生徒たちが、廊下に集まって大きな看板を作っている。
「歩ってね、ちっちゃな頃から何かあるとすぐに力になってくれてたんだ。私がよく迷子になったり、大切な玩具を無くしたりすると、いつも歩が助けてくれてた。お姉ちゃんと喧嘩した後、隠れてこっそり泣いてたりすると、いつの間にか隣に居てくれたりして……」
私はそう言うと、過去の思い出を見つめるかのように目を細めた。脳裏に浮かぶのは、いつも自分の力になってくれる歩の姿。
「お姉ちゃんが亡くなった時も、私は大泣きしてたのに歩は全然泣かなかった。たぶん私のことを心配して、自分が悲しんでるところは見せなかったんだと思う。お通夜の時も、お葬式の時も……本当は歩の方が辛かったはずなのに。だって……たぶん歩は……」
続く言葉を口にする前に、私はぎゅっと唇を噛んだ。もやもやと心の中に巣食うこの感情を言葉にしてしまうと、それはきっとナイフのような鋭さを持つだろう。それを素直に受けとめられるほど、自分の心はまだ大人にはなれない。
そんなことを思っていた時、和輝くんからの返事がないことに気づいて、私はハッと我に戻った。
「ごめん和輝くん。私の話しばっかりしちゃって……」
私が慌てた口調でそう言うと、「べつに大丈夫だよ」と和輝は優しく微笑んでくれた。その表情を見てほっと胸を撫で下ろした自分は、話題を変えようと彼に質問した。
「そう言えば和輝くんたちはもうすぐ夏の大会があるんだよね?」
「ああ、そうだよ。二年からもレギュラーが何人か選ばれるみたいで、真一のやつ『絶対に俺は選んで下さい!』ってキャプテンに猛アピールしてるからな」
和輝くんはそう言うとため息をついてわざとらしく肩を落とした。それを見て私はクスリと笑う。
「なんか真一くんがそう言ってるのが想像できる。和輝くんはもちろん選ばれるんでしょ?」
「さあどうだろうな。こればっかりは監督と先輩たちに決めてもらうしかないからなー」
そう言って和輝くんは考え込むように顎をさすった。私はそんな彼を見て、「和輝くんなら大丈夫だよ」と言葉を付け足す。すると彼は、「椿がそう言ってくれるなら嬉しいよ」と私の目を真っ直ぐに見つめて嬉しそうに言ってくれた。
「和輝くんみたいにずっとサッカー一筋で頑張ってるのって凄いよね。私なんて特に頑張って続けてるものとかないし、そういうのってなんか凄く憧れる」
「椿は中学の時、たしかテニス部だったよな?」
「うん。中学の間だけね。私テニス部でシングルだったから、チームでスポーツできるのってちょっと羨ましかったかも。ほら、和輝くんがシュート決めて歩とよくハイタッチしてたのとかも、一人だったらできないし」
「……そうだな」
和輝くんの表情が一瞬曇ったことに気付いた私は、「あ、ごめん……」と小さな声で謝る。少し気まずい沈黙が流れたが、私はそんな空気に押し潰されないようにきゅっと拳を握ると、再びゆっくりと口を開く。
「もう、見れないのかな」
「え?」
「和輝くんと歩が一緒に頑張ってる姿……」
「……」
私の言葉に、和輝くんは何も答えなかった。そんな彼の横顔をチラリと覗くと、和輝くんは目を細めながら、どこか遠い日の思い出を見つめるかのような表情を浮かべていた。
椿と和輝が教室を出て行った後、俺は明日香たちの手助けも借りて何とか教室の床を元の姿に戻すことができた。そして余計な足を引っ張ってしまったものの、看板作成のほうも軌道修正することができ、今日の分のノルマを終わらせることができた。
「いやー一時はどうなることかと思ったけど、今日は手伝ってくれてありがとね!」
「……」
作業の片付けが終わって目の前にやってきた明日香の言葉に、俺は罰が悪くなってしまい思わず黙り込む。すると彼女は、「そんなに気にしなくてもいいって! 冗談だよ冗談」と言って笑いながら俺の肩をパシパシと叩いてきた。
「歩くんって実は意外と優しいんだね」
「実は意外と、ってどういう意味だよ」
俺は照れ隠しのつもりで呆れた口調で呟く。すると明日香がまたクスクスと肩を揺らす。
「そのままの意味だよ。まあ確かに椿の気持ちもわからなくもないか」
「…………」
どうしていきなり椿の名前が出てきたのかはわからないが、これ以上どう会話を続けていいのかもわからないので、「じゃあまた」と俺はそんな言葉を口にした。
そして明日香に背を向けて教室の扉へと向かおうとした時、「え?」と背中越しに彼女が少し驚くような声が聞こえてくる。
「椿が戻ってくるの、待たなくていいの?」
当たり前のような口調で、不思議なことを言ってくる彼女に、俺は「何で?」と振り向き様に首を傾げる。すると彼女は「何でって……」と俺以上に首を傾げた。
「……」
「……何だよ」
黙ったまま自分のことを見つめてくる明日香に、俺は何だか居心地の悪さを感じて目を細めた。すると彼女は俺に一歩近づいてきたかと思うと、「あのさ……」と何故か小声で口を開く。
「歩くんって、椿のこと……」
ひそひそ話しでもするかのように俺の耳元で囁く明日香。けれど彼女は喋り切る前に言葉を止めたかと思うと、再び俺から一歩距離を取った。
「いや、やっぱいいや。椿に悪いし」
「……?」
まったく話しの内容が掴めず俺が黙ったまま突っ立っていると、「ごめん足止めちゃって」と明日香は笑い、じゃあまた明日! と言って班の女子がいる方へと戻っていく。
「……何だったんだよ今の」
彼女の後ろ姿を見つめながらそんな言葉を呟いた俺は、小さく肩を落とすと再び扉の方へと身体を向ける。ちらりと椿からもらった腕時計を見ると、予定よりもだいぶ帰る時間は過ぎていた。
「はぁ」とまた小さく肩を落とした俺は、賑やかな声がまだ残る教室を後にして、一人昇降口へと向かう。そして靴を履き替えて外に出ると、今度は部活中の生徒たちで賑わっている運動場の端をひっそりと歩いた。と、その時。どこからともなく足元にサッカーボールが転がってきた。
「すいません!」
その声に顔を上げると、一年生だろうか、去年自分も着ていたユニフォームを着た知らないサッカー部の生徒がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
俺はつま先を使って足元に転がっているサッカーボールを自分の身体に寄せると、走ってくる生徒に向かってパスを出した。どうやらブランクはあるものの身体はまだボールの感覚を覚えていたらしく、それは綺麗な放物線を描きながら相手の足元へと落下する。
「あ、ありがとうございます!」
まさかサッカー部でもない生徒からスムーズなパスが届いてくるとは思わなかったようで、相手は少し驚いたような表情を浮かべながら自分のことを見ていた。
俺はそんな彼から目を逸らすと、再び校門に向かって歩き始める。右足には、さっき蹴ったばかりのサッカーボールの感覚が少しだけ残っていた。
「サッカーめちゃくちゃうまいじゃん!」
たぶんそんな言葉で、最初に声をかけたのは自分の方だったと思う。まだ桜の匂いが残る教室で、俺も和希も小学3年生になったばかりの頃だった。
その日の体育はサッカーで、俺と和輝はたまたま同じチームになったのだ。
新学期の始まりと共に転入してきた和輝は、クラスの中でよく孤立していた。父親の仕事の都合で何度か転校を繰り返したこともたぶん影響していたのだろう。
自分から話しかけることはなく、どちらかといえば友達なんて作らないという態度だった。
小学生とはいえクラスでいつも一人でいれば、ますます孤立していき、やがて無視されるような存在になっていく。
日を追うごとに和輝の存在は教室にはいないものとされるようになっていた。当時和輝がどんなことを思って過ごしていたかなんて俺にはわからない。けれど、その姿が何となく寂しそうに見えていたことだけは今でも覚えている。
そんな和輝だったが、共にサッカーが好きだったことが転じたのか、初めて言葉を交わしたその日からよく一緒に遊ぶようになった。
転校してくる前にサッカークラブに通っていたという話しを聞いた時、俺は自分が通っていたクラブを和輝に紹介した。彼も喜んでクラブに入り、そこには同じ学校に通っている生徒もたくさんいたので、徐々に和輝の周りにも友達が集まるようになっていた。
その結果、和輝がクラスの中で孤立する姿を見ることはもうなかった。彼自身、別に人と話すことが嫌いなわけではなかったし、もともと運動神経も良かったので誤解さえ解かれればすぐにみなの中心にいる人物になっていたのだ。
俺はそんな和輝の姿を見れるようになったことは嬉しかったし、和輝もよく「歩のおかげだ」と笑いながら言ってくれていた。
俺たちは、一番仲の良い友達で、そして一番のライバルだった。
同じ中学校に通うことになった俺と和輝は、もちろん迷うことなくサッカー部に入部した。
そこで早くも頭角を現すことができた自分たちは、一年の頃からレギュラーに選ばれるようになり、共に3年間、同じフィールドの上で戦ってきた。そしてそれは、同じ高校に入学することができた去年も同じだった。
俺たちが3年になった時は、必ず優勝しようーー
昨年の夏、3年生の引退試合で悔しくも決勝まで進むことができなかった光景を見て、不意に和輝は俺にそんなことを言ってきた。
涙を流しながらベンチに戻ってくる先輩たちの姿に、たぶん俺たちが中学3年の頃の経験した苦い記憶を重ねていたのだろう。
俺も同じだった。どこかヒリヒリと焼けるような感情が胸の中で疼き、俺は「わかった」と和輝と約束したのだ。雲一つ見当たらない、夏の青さが広がる空の下で。
けれど胸を焦がすような目標も、切磋琢磨し合える友人も、その全ては自分にとって当たり前の日常があったからこそ得られたものだ。当たり前で、かけがえのない日常があったからこそ頑張れていたのだ。
そんな事実を否が応でも思い知ることになったのは、和輝と約束を交わした3日後のこと。
相変わらず穏やかな夏空の下で、その日俺は、自分にとって本当に大切な人を失ってしまった。
駅の改札を出ると、そこは人混みで溢れていた。赤やピンク、黄色や青など様々な色をした浴衣を着た人たちが行き交う姿は、まさに夏ならではの光景だ。
俺はそんな景色に熱気を感じつつ、首筋に流れた汗を右手で拭うと出来るだけ人混みの隅の方を歩きながら進んでいく。
天宮まつりには何度も訪れたことはあるが、一人で来たのはこれが初めてだった。
別に誰か誘って一緒に来たとしてもオルゴールを鳴らせば時間は止まるので気にすることはないのだが、何となく、真那と会うのなら一人のほうがいいと思った。
「時間かかるな……」
目の前に続く大行列を見つめながら俺は思わずぼそりと呟く。花火会場の河川敷までは普段なら駅から15分程度で着くのだが、この人の混み具合だとおそらく倍以上の時間がかかるだろう。
そんなことを思い小さくため息をついた後、俺はチラリと周りを見回してみた。周囲にいる人たちはみんな楽しそうな表情を浮かべていて、誰もが祭り独特の雰囲気を味わっている。
友達同士で来ている人や仲睦まじげに手を繋いでいるカップル、それに小さな子供を連れた家族連れなど。ここにいる人たちはみな、今日という特別な日を記憶に刻む為に、大切な人たちと来ているのだ。
「……」
そんなことを考えて、俺は再びため息をついた。無意識にズボンのポケットに入れた右手でオルゴールを握りしめるとぎゅっと力を込める。
このオルゴールを使えば、俺は真那と会うことができる。
でもそれはここに来ている人たちのように、未来へと続く思い出にはならない。彼らは明日も隣にいる大切な人たちと今日の出来事を共有することができるが、自分は違う。
夢から覚めれば何もかもが消えてしまうのと一緒で、たとえ自分の心にだけ残っていたとしても、それを他の誰かと話すこともなければ、分かち合うこともできない。
しばらく人混みに混じりながら歩いていると、前方にぼんやりと光が連なる屋台の列が見えてきた。
天宮まつりでは花火と同じく屋台も有名で、三百店近いお店が川沿いにそってずらりと並ぶ。もちろんその分訪れる人の数もすごく、過去に友達同士で来た時も、何回かはぐれてしまったことがあったぐらいだ。まあ、今日に限ってはその心配もないのだけれど。
椿からもらった腕時計を見ると、時刻はもう間もなく花火の開始時間である八時になろうとしていた。
俺は歩く速度を早めると、屋台が並ぶ入り口に足を踏み入れて目的の場所まで向かっていく。このまま真っ直ぐ進んでいけば、途中で川辺へと繋がる階段が見えてきて、そこを降りればちょうど水面に花火が反射して綺麗に見えるベストスポットがあるのだ。
天宮まつりの花火大会は二部構成となっており、最初のパートでは特にその反射効果を使った演出の花火が多く、真那は昔からそれが好きだとよく言っていた。
人の波に飲まれながらも川辺へと降りることができる階段が見えてきた時、俺の耳に笛の音に似た大きな音が聞こえてきた。直後、心臓にも響く爆発音と共に、視界の上部で鮮やかな火花が夜空に散った。
その瞬間、「おおッ!」と周りでは頭上を見上げて歓声をあげる人たち。どうやら花火大会が始まったようだ。
俺は立ち止まる人たちを避けながら、階段を急いで降りていく。川辺にもすでに人が溢れていて、花火がよく見える場所はどこも埋まっていた。
それでも俺は真那と一緒に見やすい場所はないかときょろきょろと辺りを見渡す。その間も上空では爆発音を響かせながら次々と光の花が咲いていく。何度も見てきたとはいえ、間近で見るその迫力はいくつになっても心を震わすものがあった。
「この辺でいいか……」
俺は比較的人の数が少ない空き地を見つけて立ち止まった。水面に映る花火はその勢いを増していき、もう間もなく最初のフィナーレを迎えそうだ。
空から降り注ぐ色彩豊かな光を見つめながら、俺はオルゴールを取り出してタイミングを見計らう。ゴクリと唾を飲み込んだ時、今まで聞いた中で一番大きな爆発音が聞こえてきた。
今だ!
闇に包まれた上空と、揺らめく水面に無数の花火が咲き乱れた瞬間、俺は握っていたオルゴールの蓋を開けた。その瞬間、微かにパチンという音が聞こえた直後、祭りの音で賑わっていた世界が、まるで魔法にでもかけられたかのように一瞬にして静寂に包まれる。
そして代わりに耳に届いてきたのは、何度も聞いてきたあの思い出のメロディ。そして……
「おぉッ! すごいすごい! こんなの初めて見た!」
どこからともなく興奮気味の嬉しそうな声が聞こえてきて、俺は慌てて辺りを見回した。
すると目の前の川辺近く、左右に括った髪を揺らしながらぴょんぴょんと飛び跳ねている制服姿の真那を見つける。そして彼女の視線の先には、おそらくほとんどの人は体験することができないであろう、神秘的な光景が広がっていた。
「歩やるじゃん! まさにベストショット!」
こちらに気づいた真那が、振り向き様に満面の笑みを浮かべて声をあげる。それを見て俺もふっと口元を緩めた。
「だろ! 真那のためにフィナーレのタイミングを見計らってたんだからな」
俺はそう言うと彼女の隣へと並ぶ。「さっすが!」と嬉しそうに声を上げる真那は、パシパシと背中を叩いてきた。どうやらこれで、『特大花火を一緒に捕まえる!』という目標は達成できたと思ってよいのだろう。
「まさか今年はこんな花火を観れるとは思わなかったよ!」
無邪気な笑みをこぼしながら、真那は目を輝かせて目の前に広がる世界を見つめていた。俺も同じように、眼前に映る景色に見入った。
そこに広がっていたのは、一瞬だけの幻を永遠へと変えてしまったような世界。その命を最大限に咲かせた無数の花火たちが、はるか上空から足元の水面まで、まるで一枚の絵のように続いている。
しだれのように降り注ぐ火花はその輝きを放ったまま光のカーテンのように連なり、大輪を咲かせた花火は闇夜を虹色に染めていた。
俺は隣にいる真那の横顔をチラリと見た。彼女は相変わらず歓喜の声をあげて、僅かな瞬間だけ見ることができる奇跡に見入っている。そこから放たれる光を浴びて、彼女の白い肌と着ている制服も淡い虹色を帯びていた。
「世界広しといえども、こんな花火を観られるのは私たちぐらいだね!」
真那はそう言うと、俺の顔を真っ直ぐに見てきた。その瞳も、何一つ昔と変わらない姿も、俺からすればこの花火と一緒で奇跡以外のなにものでもない。
だからだろうか。
その奇跡を見れば見るほど、一瞬だけ輝くことができる彼女の命を感じれば感じるほど、どうしても自分の心の奥底にある影が疼いてしまう。
俺はその不安から逃れる為に、確かめるような口調でおそるそおる口を開く。
「真那……」
改まった声で名前を呼ぶ自分に、「どしたの?」と真那は無邪気な笑みを浮かべたまま尋ねてくる。俺はそんな彼女からそっと視線を逸らすと、再び静かに口を開いた。
「その……来年もこうやって二人で花火見れるよな?」
俺がぼそりと呟いた言葉に、真那は一瞬目をパチクリとさせる。そんな仕草一つでさえも、今の自分にとってはこの目にも心にも焼き付けたいほどで、胸の奥が強く締め付けられてしまう。
俺の質問は、予想に反して短い沈黙を生み出した。その間、オルゴールの音色だけがやけに耳に響く。真那は何も言わず目を瞑ったかと思うと、すっと小さく息を吸い込む。そして、潤んだその唇を静かに開いた。
「……それは、どうだろうなぁ」
「えッ?」
彼女の言葉に俺は思わず声を漏らす。真那は瞼を閉じたまま、何かを考えている様子だ。
「だってこのオルゴールを鳴らせば、いつだって真那に会えるんだろ?」
俺は声を強めて尋ねた。このオルゴールがある限り、たとえ短い時間とはいえ自分は真那に会うことができる。だから来年も、再来年も、こうやって二人だけの世界で花火を見ることもできるはずだ。そう、こうやって……
言葉を詰まらせて沈黙してしまう自分の前で、真那は何も答えないままゆっくりと瞼を上げた。その瞳に、いつもの子供っぽい無邪気な彼女はいなかった。沈黙が、やけに自分の心に重くのしかかる。
足元から纏わりついてくる不安を振り払うかのように「なあ…」と俺がもう一度同じ質問をしようとした時、落ち着いた声音で真那が口を開いた。
「ねえ、歩」
「……なんだよ」
彼女の声に、俺は無意識に少し身構える。すると真那はふっと口端を小さく上げると、くるりと身体の向きを変えて再び花火の方を見上げる。
「歩はさ、自分にとって大切な人がいるならどうなってほしい?」
「え?」
急に話題が変わったことに戸惑ってしまった自分を、真那は瞳だけを動かして見つめてきた。
「そりゃ……幸せになってほしいと思うよ、きっと……」
俺はぎこちない口調でそんな言葉を口にした。するとその言葉を聞いて、真那は嬉しそうにクスリと微笑む。
「わたしも歩と同じ。大切な人や好きな人にはいつまでも幸せになってほしいと思う」
「好きな人、いるのかよ?」
さっきとは違う胸騒ぎが心の中を走った。思わず動揺してしまった自分を見て、「たとえばだよ」と真那はクスクスと笑う。
「でももしそんな相手がいるなら、私はその人にいつも輝いていてほしい。前を向いて歩いていてほしい。もちろん人間だから落ち込むことや悩むことはあるかもしれないけどさ、それでもやっぱり大切な人にはちゃんと自分の道を進んでほしいの」
「……」
「だからね、歩。私はもう充分幸せは受け取ったよ。自分のやりたいことを見つけて、毎日のように歩の家で好きなこともさせてもらえた。歩にもいつも話しを聞いてもらったり、家まで送ってもらったり。こうやって今は憧れだったことも叶えてもらってる。そりゃあ、やり残したことがないって言えば嘘になるけど、それでも私は今も幸せだよ。だから……」
真那はそこで唇を止めると、言葉を探すようにゆっくりと瞼を閉じる。俺はそんな彼女の姿を黙ったまま見つめていた。胸の奥が焼けるように痛い。喉の奥から込み上げてきそうになる感情は、あの日、真那を失った時に感じたものと同じだった。
そんな感情に飲み込まれないように必死になって何か言葉を発しようとした時、目を開けた真那がニコリと笑った。
「だから、今度は歩にも幸せになってほしいの。私が歩いてきたように、歩にもこれから先自分の道を進んでもらいたい。そんな歩の後ろ姿を、私はずっと見ていたいの」
真那はそう言うと一歩近づいてきて、オルゴールを持っている俺の右手を優しく両手で包み込んだ。その瞬間、彼女がたしかに存在しているという温もりが皮膚を通して伝わってくる。
「私はもう歩とは同じ道を歩けないけど、この中にちゃんといる。歩がいつだって自分の道を進めるようにちゃんと側で支えてるから」
「だから……このオルゴールを鳴らせば真那と会えるってことなんだろ?」
いつの間にか荒くなった呼吸を無理やり抑えるようと、俺はあえて静かな口調で言った。その言葉に、真那は少し寂しそうな表情を浮かべると小さく首を横に振る。
「ごめんね、歩。もう……そんなに時間は残されてないんだ。それに、本当はこのオルゴール……」
「ちょっと待てよ。それってどういう……」
真那の言葉を遮り、慌てて口を開いた時だった。突然頭上から花火の音が響き渡り、辺り一面が光に飲み込まれた。
瞬きをしたわずか一瞬の間に、時間を取り戻した世界の中で、俺の目の前からもう真那はいなくなっていた。
「……」
花火のフィナーレを終え、歓声と活気が辺りを包み込む。
そんな中で俺は、この世界から切り離されたかのように茫然としたまま突っ立っていた。そしてふと腕時計を見た時、肋骨の裏側で心臓が嫌な音を立てた。
視線の先には、真那と再会してからまだ7分しか経っていないことを告げる文字盤の姿があった。