夏休みに入ってからの文化祭の準備は、相変わらず日によってかなりバラつきがあった。
スムーズに午前中に終わる日もあれば、部活などの関係で班のメンバーが足りない時は夕方ぐらいまで続くこともある。
なるべく作業の負担はみな平等にしようという配慮なのか、遅くまで残っていた班は次の日には早く帰れることになっていた。その配慮のおかけで、自分たちの班が今日は早く帰れることに俺は内心喜びながら作業を続けていた。
「よしッ! 今日の作業は終わりっと!」
何故か一番最後にやってきた真一が、一番最初に今日の仕事の終わりを宣言する。「お前な」と呆れた口調で呟く俺のことは一切気にせず、真一はせかせかと班の女子たちと一緒に片付けを始める。まあ早く帰れるにこしたことはないので、俺も黙って同じように手を動かす。
片付けも大片目処がついてそろそろ帰る準備でもするかと思った時、教室の後ろの方から明日香の嘆くような声が聞こえきた。
「えー、椿まで抜けちゃうの?」
まるで母親と離れることを嫌がる幼子のような声で明日香が言った。その視線の先では、こちらも幼子を見るような目で、椿が困った表情を浮かべている。
「ごめん明日香。今から他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから……、終わったらすぐに戻ってくるよ」
椿は申し訳なさそうにそう言うと、明日香に向かってパンと小さく手を合わせた。
「仕方ないなー。じゃあアイス一つで勘弁してやるか」
「ありがと明日香!」
交渉は無事に成立したようで、「よーし、二人で頑張るか!」と気を取り直した明日香は同じ班の女子に向かって言った。彼女たちの班は、一昨日から教室の入り口に置く大きな看板を作っている。
とりわけ作業量が多い仕事なのだが、同じ班のクラスメイトが部活の遠征のため二人欠けているのだ。そんな中で椿が打ち合わせのために抜けると言ったので、明日香は嘆いていたのだろう。
「すぐ戻るね」と言った椿は、そのまま和輝がいる班へと向かっていく。そして手に持ったプリント片手に話しているところ見ると、どうやら事前の打ち合わせをしているようだ。
帰る支度を終えて教室の扉の方へとつま先を向けていた俺は、そんな彼女たちのやり取りを見て小さくため息をついた後、今度は明日香たちの班の方へと足を向ける。そして、両手を塗料まみれにしながら真剣な表情で色を塗っている明日香に向かって口を開いた。
「手伝おうか?」
突然声を掛けられて驚いたのか、明日香は「えっ?」とビクリと肩を震わすと、慌てた様子で後ろを振り返ってきた。そして声をかけてきたのが俺だったということに、さらに驚いたように目をパチクリとさせる。
「歩くん、昨日も遅くまで残ってくれてたじゃん」
申し訳なさそな言葉を口にするも、すでに明日香の目には期待にも似た輝きが満ちていた。俺はそんな彼女の素直さに思わず吹き出しそうになるのを堪えて、「別に構わないぞ」と端的に答える。
「やった! じゃあお願いしちゃおっかな」
明日香そう言うと、小さくガッツポーズをした。そして白い塗料がたっぷりと入った缶を俺へと差し出す。
「なら歩くんはこの辺りの色塗りをヨロシク! あ、新しい筆はそこにあるから」
明日香は嬉しそうにそう言った後、よほど人手がほしかったのか、上機嫌に鼻歌を歌いながら自分の作業に戻っていた。本当は今頃下校途中のはずだったけれども、まあここまで喜んでくれるのであれば、たまには手伝うのも悪くはないだろう。
そんなことを思いながら俺は目の前に置かれているビニール袋の中から新しい筆を取り出すと、その先端を缶の中へと突っ込む。飲み込まれるように先端から半分以上姿を消した新品の筆は、ここぞとばかりに塗料を吸い込みずしりと重くなる。
そして筆先を缶の中から引き上げると、明日香たちが下書きをしてくれた段ボールに色を塗ろうとした。が、筆先からぽたぽたと滴り落ちる塗料が、左腕につけている腕時計めがけて宙に放り出された。
ヤバいッ!
咄嗟に心の中でそんな言葉を叫んだ俺は、慌てて左腕をズラす。すると間一髪のところで腕時計は守ることができたものの、今度は左手の甲に何かが強く当たった。直後、辺り一面に白い塗料が飛び散った。
「うわッ!」
近くに立っていたクラスメイトが驚いた声を発すると同時に、俺の目の前には真っ白な海が床一面に広がっていた。
「あちゃー、派手にやっちゃったね」
俺の隣で驚いていた明日香が、今度は困ったような笑みを浮かべながら言った。
しまった、と思った俺は慌てて倒した缶を拾い上げると、明日香たちに向かって謝ろうとした。が、そ瞬間。俺が口を開くよりも先に、背後から突然声が聞こえてくる。
「何やってんだよ」
敵意むき出しのその声に後ろを振り返ると、そこには鋭い目で自分のことを睨みつけてくる和輝が立っていた。先ほどまで賑やかだった教室内の空気が、一瞬にして静まり返る。一触即発と言わんばかりの重苦しい空気に、隣にいる明日香が慌てた様子で口を開いた。
「ごめん和輝くん! すぐに拭くから」
何とか場を和まそうとする明日香の言葉も虚しく、和輝は黙ったまま俺のことを睨み続ける。このままだと殴りかかってきそうな和輝の雰囲気に思わず押し黙っていると、今度は椿の声が聞こえてきた。
「歩……大丈夫?」
そう言って俺の隣にやってきた椿はしゃがみ込むと、手に持っていた雑巾で床を拭き始めた。するとそれを見た和輝がすぐさま口を開く。
「椿がやる必要ないだろ。そいつに掃除させろよ」
和輝が冷たい声で吐き捨てるように言った。そんな彼の態度に一瞬イラッとしたものの、もちろんこれは自分のミスなので、俺は無言で椿の持っている雑巾を右手で掴む。すると何か言いたげな目で椿が和輝を見上げた。
「でも……」
「もうすぐ打ち合わせ始まるだろ。おい、俺らが戻ってくるまでには綺麗にしとけよ。怒られるのはお前だけじゃないんだからな」
和輝はそう言うと小さく舌打ちをしてから俺に背を向けて教室の扉に向かおうとする。
「逃げてばっかのやつが余計なことするなよ」
あえて聞こえるかのように呟かれたその言葉に、胸の奥に一瞬痛みが走った。俺は目を細めて和輝の背中を睨んだが何も言うことはできず、そのまま椿から雑巾を受け取る。
「歩……」
不安げに俺の名前を呟いた椿はそのままゆっくりと立ち上がると、先に和輝が出て行った教室の扉に向かって歩き出す。
俺はそんな彼女の後ろ姿をチラッと見た後、再び自分の足元を見る。そこには明日香たちが一生懸命に下書きをしてくれたダンボールが、見るも無罪に塗料で真っ白に染まっていた。
「ごめん……」
俺は顔を上げて明日香たちの方を見ると謝罪の言葉を告げる。すると明日香は気まずくなった空気を振り払うかのように明るい声で言った。
「ううん、そんなこと気にしなくても大丈夫だって! それに白色の方が上から綺麗に書けるでしょ」
明日香はけらりとした明るい声でそう言うと、班の女子と一緒に雑巾を持ってきて、一緒に床を拭き始めてくれた。
俺はそんな彼女たちにもう一度謝罪すると、手に持っている雑巾を力任せに床に擦り付ける。が、塗料はすでに固まり始めているのか、胸の奥にこべりついた嫌な感情のようになかなか取ることができない。
それどころか、白いはずのその塗料を見ていると、なぜか心の奥底にある黒く燻ったものが疼いてしまう。それと同時に無意識に脳裏に浮かぶのは、和輝が去り際に吐き捨てるように言ったあの言葉。
俺は拭いきれない感情を少しでも吐き出そうと深いため息をつく。
過去の思い出にしがみついて前に進めない自分の周りでは、来たるべき未来に向かって、クラスメイトたちが再び楽しそうに準備を進めていた。
スムーズに午前中に終わる日もあれば、部活などの関係で班のメンバーが足りない時は夕方ぐらいまで続くこともある。
なるべく作業の負担はみな平等にしようという配慮なのか、遅くまで残っていた班は次の日には早く帰れることになっていた。その配慮のおかけで、自分たちの班が今日は早く帰れることに俺は内心喜びながら作業を続けていた。
「よしッ! 今日の作業は終わりっと!」
何故か一番最後にやってきた真一が、一番最初に今日の仕事の終わりを宣言する。「お前な」と呆れた口調で呟く俺のことは一切気にせず、真一はせかせかと班の女子たちと一緒に片付けを始める。まあ早く帰れるにこしたことはないので、俺も黙って同じように手を動かす。
片付けも大片目処がついてそろそろ帰る準備でもするかと思った時、教室の後ろの方から明日香の嘆くような声が聞こえきた。
「えー、椿まで抜けちゃうの?」
まるで母親と離れることを嫌がる幼子のような声で明日香が言った。その視線の先では、こちらも幼子を見るような目で、椿が困った表情を浮かべている。
「ごめん明日香。今から他のクラスの実行委員と打ち合わせがあるから……、終わったらすぐに戻ってくるよ」
椿は申し訳なさそうにそう言うと、明日香に向かってパンと小さく手を合わせた。
「仕方ないなー。じゃあアイス一つで勘弁してやるか」
「ありがと明日香!」
交渉は無事に成立したようで、「よーし、二人で頑張るか!」と気を取り直した明日香は同じ班の女子に向かって言った。彼女たちの班は、一昨日から教室の入り口に置く大きな看板を作っている。
とりわけ作業量が多い仕事なのだが、同じ班のクラスメイトが部活の遠征のため二人欠けているのだ。そんな中で椿が打ち合わせのために抜けると言ったので、明日香は嘆いていたのだろう。
「すぐ戻るね」と言った椿は、そのまま和輝がいる班へと向かっていく。そして手に持ったプリント片手に話しているところ見ると、どうやら事前の打ち合わせをしているようだ。
帰る支度を終えて教室の扉の方へとつま先を向けていた俺は、そんな彼女たちのやり取りを見て小さくため息をついた後、今度は明日香たちの班の方へと足を向ける。そして、両手を塗料まみれにしながら真剣な表情で色を塗っている明日香に向かって口を開いた。
「手伝おうか?」
突然声を掛けられて驚いたのか、明日香は「えっ?」とビクリと肩を震わすと、慌てた様子で後ろを振り返ってきた。そして声をかけてきたのが俺だったということに、さらに驚いたように目をパチクリとさせる。
「歩くん、昨日も遅くまで残ってくれてたじゃん」
申し訳なさそな言葉を口にするも、すでに明日香の目には期待にも似た輝きが満ちていた。俺はそんな彼女の素直さに思わず吹き出しそうになるのを堪えて、「別に構わないぞ」と端的に答える。
「やった! じゃあお願いしちゃおっかな」
明日香そう言うと、小さくガッツポーズをした。そして白い塗料がたっぷりと入った缶を俺へと差し出す。
「なら歩くんはこの辺りの色塗りをヨロシク! あ、新しい筆はそこにあるから」
明日香は嬉しそうにそう言った後、よほど人手がほしかったのか、上機嫌に鼻歌を歌いながら自分の作業に戻っていた。本当は今頃下校途中のはずだったけれども、まあここまで喜んでくれるのであれば、たまには手伝うのも悪くはないだろう。
そんなことを思いながら俺は目の前に置かれているビニール袋の中から新しい筆を取り出すと、その先端を缶の中へと突っ込む。飲み込まれるように先端から半分以上姿を消した新品の筆は、ここぞとばかりに塗料を吸い込みずしりと重くなる。
そして筆先を缶の中から引き上げると、明日香たちが下書きをしてくれた段ボールに色を塗ろうとした。が、筆先からぽたぽたと滴り落ちる塗料が、左腕につけている腕時計めがけて宙に放り出された。
ヤバいッ!
咄嗟に心の中でそんな言葉を叫んだ俺は、慌てて左腕をズラす。すると間一髪のところで腕時計は守ることができたものの、今度は左手の甲に何かが強く当たった。直後、辺り一面に白い塗料が飛び散った。
「うわッ!」
近くに立っていたクラスメイトが驚いた声を発すると同時に、俺の目の前には真っ白な海が床一面に広がっていた。
「あちゃー、派手にやっちゃったね」
俺の隣で驚いていた明日香が、今度は困ったような笑みを浮かべながら言った。
しまった、と思った俺は慌てて倒した缶を拾い上げると、明日香たちに向かって謝ろうとした。が、そ瞬間。俺が口を開くよりも先に、背後から突然声が聞こえてくる。
「何やってんだよ」
敵意むき出しのその声に後ろを振り返ると、そこには鋭い目で自分のことを睨みつけてくる和輝が立っていた。先ほどまで賑やかだった教室内の空気が、一瞬にして静まり返る。一触即発と言わんばかりの重苦しい空気に、隣にいる明日香が慌てた様子で口を開いた。
「ごめん和輝くん! すぐに拭くから」
何とか場を和まそうとする明日香の言葉も虚しく、和輝は黙ったまま俺のことを睨み続ける。このままだと殴りかかってきそうな和輝の雰囲気に思わず押し黙っていると、今度は椿の声が聞こえてきた。
「歩……大丈夫?」
そう言って俺の隣にやってきた椿はしゃがみ込むと、手に持っていた雑巾で床を拭き始めた。するとそれを見た和輝がすぐさま口を開く。
「椿がやる必要ないだろ。そいつに掃除させろよ」
和輝が冷たい声で吐き捨てるように言った。そんな彼の態度に一瞬イラッとしたものの、もちろんこれは自分のミスなので、俺は無言で椿の持っている雑巾を右手で掴む。すると何か言いたげな目で椿が和輝を見上げた。
「でも……」
「もうすぐ打ち合わせ始まるだろ。おい、俺らが戻ってくるまでには綺麗にしとけよ。怒られるのはお前だけじゃないんだからな」
和輝はそう言うと小さく舌打ちをしてから俺に背を向けて教室の扉に向かおうとする。
「逃げてばっかのやつが余計なことするなよ」
あえて聞こえるかのように呟かれたその言葉に、胸の奥に一瞬痛みが走った。俺は目を細めて和輝の背中を睨んだが何も言うことはできず、そのまま椿から雑巾を受け取る。
「歩……」
不安げに俺の名前を呟いた椿はそのままゆっくりと立ち上がると、先に和輝が出て行った教室の扉に向かって歩き出す。
俺はそんな彼女の後ろ姿をチラッと見た後、再び自分の足元を見る。そこには明日香たちが一生懸命に下書きをしてくれたダンボールが、見るも無罪に塗料で真っ白に染まっていた。
「ごめん……」
俺は顔を上げて明日香たちの方を見ると謝罪の言葉を告げる。すると明日香は気まずくなった空気を振り払うかのように明るい声で言った。
「ううん、そんなこと気にしなくても大丈夫だって! それに白色の方が上から綺麗に書けるでしょ」
明日香はけらりとした明るい声でそう言うと、班の女子と一緒に雑巾を持ってきて、一緒に床を拭き始めてくれた。
俺はそんな彼女たちにもう一度謝罪すると、手に持っている雑巾を力任せに床に擦り付ける。が、塗料はすでに固まり始めているのか、胸の奥にこべりついた嫌な感情のようになかなか取ることができない。
それどころか、白いはずのその塗料を見ていると、なぜか心の奥底にある黒く燻ったものが疼いてしまう。それと同時に無意識に脳裏に浮かぶのは、和輝が去り際に吐き捨てるように言ったあの言葉。
俺は拭いきれない感情を少しでも吐き出そうと深いため息をつく。
過去の思い出にしがみついて前に進めない自分の周りでは、来たるべき未来に向かって、クラスメイトたちが再び楽しそうに準備を進めていた。