落ち着いた声で、さっきまでとはまるで違う大人びた口調で真那が言った。
 そんな彼女の言葉に、俺は少し動揺してしまう。それを誤魔化すように唾を飲み込むと、「わかってる」と小声で呟いた。
 いつもあっけらかんとしている真那だけど、不意にこんな顔を見せることが昔からあった。そんな時の彼女の姿は、近くにいるはずなのにいつもどこか遠くにいるように感じてしまい、心の中で不安がざわりと疼くのだ。
 思わず黙り込んでそんなことを考えていた時、机の上を眺めていた真那が「あッ」と再びいつもの調子で口を開いた。

「そっか、もうすぐ天宮まつりがあるんだね!」

 そんなことを嬉しそうに呟く真那の視線の先には、親父が酒屋でもらってきた卓上用の小さなカレンダーがあった。地元の紹介として写真が載っているそのカレンダーには、闇空に大きく打ち上げられた花火が盛大に写っている。
 この街では、毎年夏になると近くの河川敷でお祭りが開かれるのだ。全国的にもわりと有名なお祭りらしく、メインイベントの花火は遠方から訪れてくる人も多いと聞く。俺も幼い頃から家族や友達たちとよく見に行っていた。
 真那はアルバムでも見るかのように懐かしそうに目を細め、「去年は見れなかったもんなぁ」とちょっと寂しそうに呟いた。俺が返す言葉に困っていると、まるで気にしなくていいよといわんばかりに、彼女はけろりとした声で言ってきた。

「ねえ。お祭りの日にマルしてるけど、歩は誰かと見に行くの?」

「え?」
 
 真那の言葉にハッとした俺は慌てて顔を上げた。そしてカレンダーを見つめる。そこには完璧な円には程遠い汚い形で、祭りの日にマルがされている。しまった、と俺は思わず心の中で呟く。

「あー……まあな」
 
 あーとぼやいている間に言い訳を探そうとしたが何も思いつかず、俺は言葉を濁すように声を漏らした。
 もちろん祭りの日に丸がついているのは、どこかの誰かさんが手帳に書いていた『特大花火を一緒に捕まえる!』という解釈次第で実現可能な願望を達成する為だ。
 が、それは本人にはサプライズにしておいて当日驚かそうという、俺個人のもう一つの計画もあった。しかし……
 急に黙り込んだ俺を見て、真那はニヤリと口元を緩める。

「ね、誰と見に行くの? 誰だれ??」

 俺の個人的な計画は、早くも難航しかけていた。空気を読まずに「誰だれ?」の言葉を連発する彼女に、「別に誰でもいいだろ」と俺は目を逸らしてめんどくさそうに答える。

「ふーん。あやしいな……」
 
 どうやら素っ気ない態度が逆に裏目に出てしまったようで、真那はさらに興味津々といわんばかりに俺の顔を覗き込んでくる。内心かなり動揺してしまっている上、間近に真那の顔があることに耐えきれなくなってしまった俺は、結局諦めて大きなため息をつく。

「お前なあ……ちょっとは空気読めよ」

「何がよ」
 
 俺が少し冷めた口調でそんなことをいえば、真那は拗ねたようにむっと頬を膨らませる。けれど黙ったままじーっと見つめる俺の視線の意味にやっと気づいたようで、「あ、ごめん」としまったと言わんばかりの表情を浮かべた真那は、それを誤魔化すようにぴっと舌を出した。

「そっかそっか! ってことは今年は私も花火が見れるんだね!」

 早くもその気モードになってしまった彼女は、一人嬉しそうにうんうんと何度も頷いている。どうやら俺のサプライズ計画は、花火を見るよりも前に散ってしまったようだ。

「じゃあ今年の花火大会は気合いを入れて浴衣でも着てみよっかな!」

「え? 服、着替えれるのか?」
 
 俺は思わずそんな言葉を口にすると、いつも制服で現れる真那のブレザー姿を見た。どうしていつも制服なのかわからないが、現れる前に服装を選ぶことができるのだろうか。
 
 真那の浴衣姿……

 思わずそんなことを意識してしまった俺は、ゴクリと小さく唾を飲み込む。
 性格は衝撃的なほど破天荒だが、ひいき目なしに真那は人目を引くほどの容姿はしていると思う。そんな彼女であれば、きっと浴衣姿も綺麗に似合うだろう。
 無意識に期待にも似た眼差しを真那に向けてしまっていると、視線の先で彼女がにゅっと眉根を寄せた。そして何やら考え込み始める。

「んー……わかんない」

「何だよそれ」

 期待外れの言葉を漏らす真那に、俺は思わず肩を落とした。するとすぐにあっけらかんとした明るい声が返ってくる。

「でももしかしたら、作業着姿ならなれるかも!」

「それはやめろ」
 
 なぜか自信満々に宣言する彼女に、俺は即答で答えた。いくら真那の作業着姿も懐かしいとはいえ、さすがに祭りの日に見ようとは思わない。
 そんなことを考えて苦虫を噛んだような顔を浮かべていたら、どうやら真那は浴衣よりも作業着の方を着たかったみたいで、「えー」と不服そうな声を漏らしている。そして拗ねてしまったのか、突然しゃがみ込んだかと思うと、テーブルに頭を伏せる。

「おい真那、何もそこまで……」

 作業着を否定することは彼女にとっては禁句だったのか、俺の言葉に真那は顔を上げない。 
 呆れてため息をついた俺は彼女と同じように座布団へと腰を下ろすと、右手で頭をかく。すると目の前で、真那が小さく肩を揺らしながら笑っていることに気付いた。

「……今度はなんだよ」
 
 相変わらず彼女のペースについていけない俺がそんな言葉を漏らすと、真那がチラリと上目遣いでこちらを見てきた。

「嬉しいの」

「え?」
 
 予想しなかった言葉に、俺はきょとんとした表情を浮かべた。何がだよ? と問い直す前に、顔を上げた真那が再び口を開く。

「歩と一緒に花火見れることが」

「……」
 
 そう言って白い歯を見せて嬉しそうに笑う真那。その笑顔にはあまりにも屈託がなく、だからだろうか、俺の方が何故か無性に胸を締め付けられた。
 真那と会えるのは、真那がこの世界に戻ってこれるのは、たったの10分間。
 その僅かな時間の中でしか彼女は生きることができない。それでも真那は、こうやって俺と過ごす時間を楽しんでくれている。楽しみにしてくれている。
 嘘偽りのない彼女のそんな姿を見て、心の奥底にずっと押し込めていたはずの感情が再び疼いた。

「あのさ、真那……」

 ドクドクと加速していく心臓の音を耳の奥で感じながら、俺はゆっくりと口を開いた。俺の気持ちなど何も知らない真那は、「なに?」とニコリと笑ったまま首を傾げる。

「俺、本当は……」
 
 躊躇うように息を吐き出しながら、俺は続く言葉を喉の奥に用意する。本来であれば、もう二度と伝えることができなかったはずの言葉。 
 押し込めていた気持ちと一緒に後悔の色に塗られていたその言葉を、俺はちゃんと声にして届けようと息を吸った。と、その時だった。
 耳に聞こえていたはずのオルゴールの音色が不意に止まって、視界の隅で風がカーテンを揺らした。夢から覚めたようにハッと我に返った自分が目の前を見ると、そこにはもう彼女の姿はない。

「真那……」
 
 俺は思わずその名をぼそりと呟くも、もちろん返事は返ってこない。さっきまで聞こえていなかったはずの子供たちが遊んでいる声が、オルゴールの音色の代わりに窓の外から聞こえてくる。
 
 また俺は伝えることができなかった……
 
 喉まで込み上げていた熱を持った言葉たちは、再び後悔に変わって胸の奥へとじりじりと沈んでいく。それと同時に心に広がっていくのはどうすることもできない虚しさ。
 けれどそんな虚しさだけが唯一、さっきまで自分がたしかに真那と会っていたことを証明してくれているようにも思えた。