相変わらず呆れた口調のままそんなことを呟いて手帳のページをめくっていた時、ふと今までとは違う内容に目が止まった。

「あ、でもなんか違うことも書いてるな。なになに……『初めてデートをする時は海で……』」

「ちょっとストーーーップ!」

 突然耳をつんざくような大声と共に、視界の隅から物凄い勢いで手が伸びてきた。直後、
「うおッ!」と驚く間もなく一瞬で手帳が奪い取られる。

「ビックリした……何だよ急に」

「ビックリしたのは私の方だから! 勝手に人のプライベートまで覗かないでよ!」

「勝手にって……」
 
 そっちが無理やり見せてきたんだろ、と言葉を続けそうになったが、ガルルと番犬みたいに唸っている真那の顔を見た瞬間やめた。けれど彼女にしては珍しく顔を真っ赤にしているので、よっぽど見られたくない内容だったのだろう。
 俺は気になったことを聞いてみた。

「初めてデートをする時って書いてたけど……あれってもしかして」

「い、いいでしょ別に何だって! 私だって女の子なんだから、恋愛とかに興味持っててもおかしくないし!」

「……」
 
 いつも以上に早口で言葉を捲し立てる真那の姿に、俺は我慢できずに思わずプッと吹き出してしまった。するとさらにヒートアップした言葉が彼女から飛んでくる。

「ちょっと! 笑うとかほんっと失礼じゃない⁉︎」

「だって真那の口から恋愛って……それにデートとか……」

 怒られながも俺はやっぱり笑うことを止めることができずに両手でお腹を押さえる。機械いじり一筋しか興味がないと思っていた彼女だったけれど、どうやら実のところは違ったらしい。

「ふんッ、そんな上から目線で言ってくるってことは、もちろん歩にはそんな経験あるってことだよね?」

「俺は……」
 
 急に反撃の言葉を食らってしまい、俺は思わず言葉を詰まらせる。恋愛には素直に興味があるけれど、人様にどうこう言えるほどの経験をしてきたわけじゃない。だいたい、付き合ったこともないし。

「ほーらみなさいよ。歩だってまだしたことないじゃん」

「そうじゃないって。それに俺は……」
 
 再び言葉を止めた自分に、「それに俺は?」と真那がぐいっと顔を覗き込んできた。夕暮れの輝きを閉じ込めたその大きな瞳を見た瞬間、俺は恥ずかしくなってしまいつい視線を逸らす。

「やっぱり歩もまだなんじゃん」

「…………」
 
 まったく検討はずれなことを言ってくる相手に、俺は一瞬ムッとした顔をしたが、かと言って自分の気持ちを素直に言えるわけもないので黙り込む。
 するとクスリと笑った真那が右手を伸ばしてきて、「えいッ」と何故か俺の額にデコピンを放ってきた。

「いてッ! 何すんだよ」
 
 突然の攻撃に俺は思わず額を押さえて相手を睨んだ。けれど当の本人は、けろっとした態度で話しを続ける。

「別に焦ることなんてないじゃん」

「何がだよ」

 真那の言葉に、俺は少しぶっきらぼうな態度で答えた。すると彼女の唇がニコリと弧を描く。

「だってまだ恋愛をしたことがないってことは、私も歩もこれから『初恋』をするってことだよ? それってすっごく素敵なことじゃない⁉︎」

「……」
 
 パンと胸元で手を合わせて、乙女さながらに目をキラキラと輝かせる真那。
 そんな姿とさっきの言葉があまりにも普段の真那のイメージからかけ離れ過ぎていて、俺は思わずポカンとした表情を浮かべてしまう。そしていけないとは思いつつ、やっぱり笑ってしまった。

「あー! また私のことバカにしただろ⁉︎」

「違うって! なんか意外過ぎてビックリしたんだよ」

「ほらやっぱりバカにしてるじゃん! もうッ、初恋って言ったら一生に一度しかできないから大切なんだよ?」

 わかってる? と唇を尖らせながら再確認してくる真那に、俺は「わかってるって」と笑い声を堪えながら答える。

「そんなに大切に思ってるなら、得意の発明で初恋をずっと残せるようにすればいいだろ。それか閉じ込めるとか」

 指先で笑い涙を拭いながらそんな冗談を言えば、何故か真那はきょとんとした表情を浮かべていた。直後、彼女はわなわなと肩を震わせ始めたかと思うと、いきなり俺の方に向かって右手の人差し指をビシッと突き出してきた。

「それだッ!」

「……え?」
 
 突然スイッチの入った真那に、今度は俺がきょとんとした顔を浮かべる。

「歩、それすっごく良いアイデアだよ! 『初恋を閉じ込める』とか、何だかめちゃくちゃロマンチックじゃん!」

「いや、ちょっと待てよ。俺は冗談のつもりで……」

 どうやら俺は地雷を踏んでしまったらしい。これでまた変なものが発明されてしまうと、その犠牲者第一号は自分になってしまう。
 そんなことを恐れた俺は、一人興奮する真那をまあまあと落ち着かせようとしたが、伸ばした右手をなぜか彼女がバシっと両手で握ってきた。

「歩、私ぜったいそれ作るよ! 作って歩にもプレゼントしてあげる! ほら、今度の誕生日の時に!」

「え? 俺はべつに……」

 いらないって、と言いかけたその時だった。夕陽が煌めく視界の中で、彼女が白い歯を見せてニコリと笑った。
 たったそれだけのこと。たったそれだけのことなのに、俺は言いかけた言葉をそっと喉の奥へと飲み込んでしまう。たぶん、彼女の笑顔があまりにも無邪気で、そして不覚にも、綺麗だと思ってしまったから。
 言葉を胸の奥へと無理やり追いやってしまったせいだろうか、心臓がドクドクとうるさい。
 真那の顔を直視できなくなった俺は、恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らした。けれど、右手から伝わってくる彼女の温もりが火照った頬をさらに熱くする。

 真那が初めて恋をする相手って、どんな人なんだろう……

 閉じた瞼の裏側で、俺はそんなことを考えてみた。いつだって『今』を楽しめる彼女なら、きっと誰と付き合ったとしても恋愛だって楽しめるだろう。それでも、もし叶うのであれば……
「ねえ歩!」と明るい声が聞こえてきて、俺はハッと我に返って瞼を上げる。
 すると目の前には、赤い太陽を背にして自分のことを真っ直ぐに見つめてくる真那の姿。その眩しさにほんの少し目を細めた時、彼女が元気な声でこう言った。

「だから期待して待っててね!」
 
 吹き抜ける風に乗るようにして、真那の声が耳に届く。そんな彼女の言葉に、俺はふっと口元を緩めた。
 もしも真那が本当にそんな物を作ったとしたら、自分が閉じ込める気持ちの相手はもう決まっている。
 細めた視界の中で彼女のことを見つめながら、「わかったよ」と俺はいつものように返事をした。すると真那もいつものように笑う。二人だけしかいない公園に、自分たちの笑い声がメロディのように重なり合って響いた。
 そしてこの時、俺は何となく思ったのだ。
 こんな当たり前の時間も、いつかは初恋のように特別な瞬間に感じる日が来るのかもしれないと。
 そう、あの時の俺は、真那との時間がこれから先もずっと続くと思っていた俺は、浅はかにもそんなことを思ったのだ。
 そんな当たり前が、ある日突然失われるということも知らずに……