海が見える街に住んでいながら、間近で波の音を聞いたのはいつ以来だろう。
 陽光を白く反射させる水面に目を細めながら、俺はそんなことを思った。
 ここは学校から少し離れた場所にある砂浜で、ありがたいことに周りを見回しても誰もいない。
 すぐ近くには夏になると人気のビーチもあるのだが、この砂浜は波の関係で海水が冷たいのと、すぐに海底が深くなるということで訪れる人は少ないのだ。たまに釣りをする人を見かけることもあるが、今日はそんな人もいなかった。

「この辺りでいいかな……」

 波打ち際に近づいて俺は辺りを見渡すと、ズボンのポケットからオルゴールをそっと取り出す。上空では、これから時間が止まるなんて夢にも思っていないであろうカモメたちが気持ち良さそうに夏の空を飛んでいる。
 ざあと繰り返す波の音を聞きながら、俺は手のひらに乗せたオルゴールに指先を近づけた。三回目とはいえ、この瞬間がやはり一番緊張する。

 どうか今日も真那が現れますように……
 
 そんなことを願いながら目を閉じると、俺は指先でオルゴールの鍵を外した。するといつものようにパチンという音が聞こえた後、全身を包み込むように鳴り響いていた波の音が突然消えた。代わりに耳に聞こえてくるのは、小さな箱から優しく奏でられるあのメロディ。そして……

「海だーッ!」

 突然背後から元気な声が聞こえてきて、俺はビクリと肩を震わせた。慌てて目を開けて振り返ると、黄色い砂浜の上、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねている制服を着た真那の姿があった。どうやら今日もうまくいったようだ。

「歩! 今日もちゃんとオルゴール鳴らしてくれたんだね!」

 真那はそう言うと、俺の隣まで走ってきた。そして「おぉッ」と何やら感嘆の声を漏らす。

「すごい! こんな海初めて見たよ」
 
 そう言って真那は目を丸くしながら水平線の
遥か彼方まで見渡した。同じように俺も海の方を見て、そして思わず息を止める。

「すげーな……」

 そんな声を漏らした自分の視界に広がっていたのは、まるで写真のように切り抜かれた一瞬の世界。
 波の小さな水しぶきの一つひとつ、白く泡立った部分や陽の光を閉じ込めたような輝き。広大な海面をあれだけ自由気ままに寄せては返していた波たちが、今はその輪郭をハッキリとさせたまま固まっている。

「すごいね! なんだか海が凍ってるみたい!」

  真那の無邪気な声が、時が止まった世界の中を駆けていく。
 カモメたちの鳴き声も、さっきまで耳に響いていた潮風の音も今は聞こえない。耳に届いてくるのは自分たちの声と、そしてオルゴールが優しく奏でる旋律だけ。
 ほんの数分前と同じ場所に立っているはずなのに、まるで別世界だ。

「今日はまたどうして海に連れて来てくれたの?」
 
 不意に隣から覗き込むように尋ねられてしまい、俺は思わず言葉を詰まらせる。
 どうしたもこうしたも、ここは真那が来たがっていた場所だ。が、そんな昔のことを彼女が覚えているのかがわからないし、それにあれは、たしか真那が彼氏と初めてデートに行きたい場所として手帳に書かれていたような気もする。
 さすがに彼氏でもない自分がここを選んだ理由を正直に言うわけにもいかず、「それは……」と俺はただ言葉を濁すだけが精一杯だった。
 するとそんな自分を見て真那は何をどう勘違いしたのか、怪訝そうな表情を浮かべたと思ったら突然衝撃的な言葉を口にする。

「まさか……私の水着姿が見たかったとか?」

「なッ、そんなわけないだろ!」
 
 まったく予想もしなかったことを言い出す相手に、俺は思わず顔を熱くして慌てて反論した。すると真那は口元に右手を当ててクスクスと笑い始める。

「冗談だよ冗談! でも、『そんなわけないだろ』って言うのは女の子に対してちょっと失礼じゃない?」
 
 真那はそう言うと、今度は目を細めて意味深な視線を送ってくる。俺はというと、こういう話しにまったく免疫がないので逃げるように視線を逸らす。すると悪戯好きな真那のスイッチが入ったのか、「ふーん、ノーコメントですか」と言ってニヤニヤしながらまた俺の顔を覗き込もうとしてきた。

「あのな……」
 
 動揺していることを悟られないように、俺はあえて呆れた口調で声を漏らす。しかし真那にはお見通しのようで、「照れるな照れるな」と腹立たしいことに、こんな時だけ歳上っぽく振る舞ってくる。と、思いきや、突然「あッ」と言って突然しゃがみ込んだ。