6時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、教室の雰囲気はやっと解放感に包まれた。
 俺は机の上に広げていた教科書やノートを閉じると、それをぶっきらぼうに鞄の中へと詰め込んでいく。すると目の前に座っていた真一が勢いよく立ち上がった。

「おっさきー!」
 
 そう言って真一がエナメルバッグを肩にかけた瞬間、バッグの端が机の上に置いていた俺の筆箱に当たった。

「あッ」と声を発して手を伸ばすも時すでに遅しで、空中に放り出された筆箱はガシャンという派手な音を立てて中身を撒き散らす。

「あちゃー、マジでごめん!」
 
 真一は慌ててエナメルバッグを机に置くと、そのまま急いでしゃがみ込んで筆箱の中身を拾い始めた。そんな彼の様子を見ながら、俺は呆れて肩を落とす。

「いいって別に。それよりお前、早く部活行ったほうがいいんじゃないか?」
 
 チラチラと黒板の上の時計を気にしながら筆箱の中身を拾う真一に向かってそんなことを言えば、「わりぃ歩! 今度ジュースおごるから」と相手は随分と気前の良いことを言ってきた。
「言ったぞお前」と俺が少し笑いながら念を押すと、口にしてしまった手前引くに引けなくなったのか、真一は右手の親指を立ててドヤ顔をかます。ほんとに調子の良い奴だ。

「ヤバいヤバい、マジで遅れる!」

 俺の許可を得ることができた真一はそんな言葉を何度も呟きながら、まるでボールを追いかける犬みたいに教室の扉に向かって走っていく。
 俺はそんな友人の後ろ姿をくつくつ喉を鳴らして見送ってから、足元に散らばった文房具たちを拾い始めた。と、その時。ふと視界に誰かの上靴が映った。

「大丈夫?」
 
 そう言って、同じようにしゃがみ込んできたのは椿だった。彼女は、はらりと落ちた横髪を耳にかけると、床に落ちていた俺の消しゴムを拾い上げ、それを「はい」と渡してきた。

「お、おう……」

 ありがと、と言葉を続けると、椿がニコリと笑う。どことなく、真那の雰囲気を感じさせる笑顔だった。

「そういえばさ、昼休みの時何か話しかけようとしてくれてた?」

「え?」

 不意に尋ねられた質問に、俺は間の抜けた声を漏らしてしまう。何のことだ? と一瞬眉根を寄せたが、すぐにピンときた。が、今さら言う必要もないだろう。

「別に。何もない」

「ふーん……」
 
 椿は不満そうな声を漏らすと、やはり不満そうに頬を含ませる。その姿が何だかリスみたいに見えてしまい、俺はぷっと小さく吹き出すと「何だよ」と問い直した。

「別に。何もない」

 誰のモノマネのつもりなのか、わざとらしく低い声でそんな言葉を言ってきた椿に、「お前な」と俺は一応ツッコミを入れる。するとやっと椿もクスリと笑ってくれた。

「ねえ、歩って今週の日曜日は空いてるの?」

「え?」
 
 またも不意に飛び出してきた質問に、チャックを閉めたばかりの筆箱を思わず落としそうになった。
 日曜日と聞いて無意識に浮かぶのは、真那の姿。
 俺はできるだけ動揺を悟られないように、「なんでだ?」とあえて低い声で返した。

「文化祭の出し物の参考にみんなでカフェに行くことになったんだけど、歩もどうかなって思って」

「ああ……日曜日は……」
 
 俺はそう呟きながら思わず言葉を濁してしまう。すでに椿からの誘いは一度断っている。それに俺はもう部活をやっていないし、そんなに予定がある人間でもない。もろちん真那と一緒で幼い頃から俺のことを知っている椿もそれは承知だ。
 ぎこちなく声を漏らしたまま返答に困っている俺を見て、椿が少し首を傾げた。

「もしかして、どこか遊びに行くの?」

 真っ直ぐ自分のことを見つめてくる瞳に耐えきれず、俺は思わず視線を逸らした。そして苦し紛れで、頭の中にふと浮かんだ言葉を口にした。

「まあちょっと、海とか……」

「海?」
 
 俺の言葉に、椿が少し驚いたような声を漏らした。いくら適当な言い訳を探していたとはいえ、まさかこんなところで真一との会話を使ってしまうとは……。
 けれど言ってしまったものはもう仕方がないので、「ああ」と俺は肯定の言葉を漏らす。すると椿が一瞬目を細めた。

「海って……誰と行くの?」
 
 何故か怪しむような視線を向けてくる椿。ますます立場が悪くなってしまった俺は、わざとらしく右手で頭をかきながら、必死になって言葉を探した。

「あれだ、その……一人で」

「一人で?」
 
 さすがに今の言葉は予想外だったのか、椿が一瞬キョトンとした表情を浮かべた。が、その瞳はすぐに「本当に?」と問いただすように細められる。これ以上質問攻めにあうと身がもたないと思った俺は、一か八か、今度は開き直るような口調で言った。

「釣りだよ釣り。前に親父が釣竿くれたんだけどまだ使ったことなかったから、一回ぐらいやっとこうと思って」

「…………」
 
 苦し紛れの言い訳はさすがに何か隠していると勘付かれてしまったのか、「ふーん、そうなんだ」と少し拗ねた感じで唇を尖らせた椿はそのまま立ち上がるとスタスタと自分の席の方へと向かってしまった。
 そんな彼女の後ろ姿を見て、俺はため息をつく。

 なんで海とか言ったんだろ、俺……
 
 真一のせいで間接的に事故ったじゃねーか、と八つ当たり的なことを思っていた時、ふと頭の中に何かが引っかかった。

「そういえば、たしか真那って……」
 
 頭に浮かんだのは、かつて真那と一緒に公園で話していた時のこと。あの時真那が俺に見せてきた手帳の中に、たしか彼女は海に行きたいと書いていなかっただろうか? 

「……」

 俺は筆箱を握りしめて突っ立ったまま、頭の中でかつての記憶を思い返す。多少うろ覚えにはなっているものの、蘇ってくる映像の中には彼女の手書きの文字でたしかにそんなことが書かれていた。
 俺は気持ちを切り替えるようにすっと息を吸い込むと、「よし」と小さく呟く。
 とりあえずこれで、今度真那と会う場所は決めることができた。