思えば彼女はずっとヒントを出してくれていたような気がする。
 それで少しばかりわかったような気になって、けっきょく何もわかっていなかった。


 あれから彼女はずっとオフラインのままで、メールも電話も反応がない。
 ブロックこそされていなかったが、Twitterも昨夜あのあとから全く更新されていないようだ。

(これ以上深追いしたら、みっともなくて往生際が悪い、ってやつだな……)

 数年前、ちょうどイブの日にフラれたときのトラウマがよみがえりそうになり、ついでに先日の『ちくわぶ太郎』のツイートを思い出す。

『クリスマスイブって要するに“契約更改”の日じゃん? そりゃあくっつく人もいればフラれる人もいるわけもいるワケよ。めでたくもあり、めでたくもなし』

 ……いつの間にか、あれだけ落ち込んだ過去の失恋が、些細なただのツイートに上書きされるほど、自分の中で彼女の存在が大きくなっていたのだと、今さらながら実感した。
 ひとつひとつ、そう長くはないけれど濃密だった彼女との時間を思い出していく。


『そもそも俺のことなんか、男性とかそういうふうに意識してないだろ』
『――それは言えません。言っちゃうと先生が傷つくから』

『女の子がこんなふうに意味ありげなことを言ったときは察するものですよ』


 あのときの彼女の言葉や表情が思い返されて……。
 ……いや、これで察しろというのは、鈍感な俺じゃなくてもちょっと難度が高くないか?

 彼女だって、ぜんぜん言葉が足りていないのだ。

 漫画に描かれていることも、ツイッターのつぶやきも、会って話しているときの言葉も、もしかしたら彼女自身が感じているつもりになっている気持ちさえ、どこまで正しいかなんてわからない。


 そのとき、俺の部屋のチャイムが鳴った。

「――宅配便でーす」

 こちらの気も知らず、緊張感のない男の声で届けられたのは、少しだけふくらんだB5サイズの封筒だった。
 仕事柄、持っただけで厚みと重量から中身はすぐ見当が付いた。書籍だ。
 差出人の欄には『桜小路千歳』という手書きの名前と住所が書かれている。

 封を開けて出てきたのは、予想通り『ちくわぶれいく』の単行本だった。発送のタイミングを考えると、たぶん出版社からもらった献本をそのまま送ってくれたんだろう。

 表紙をめくった裏側、いわゆる表2の位置に、手足の生えた魚の変なイラストとともにサインが入っている。『刹那漣先生へ』。
 そして間にもう1枚、カードが挟まっていた。赤いサンタ帽をかぶったフクロウのクリスマスカード。

『私の処女作をプレゼントします。メリークリスマス。 ちくわぶ太郎』

 よく見ると、最初に『ちとせ』と書いていたのを二重線で消し、『ちくわぶ太郎』とわざわざ書き直してある。
「変な意味じゃないですからね」と、いつもの調子で言う彼女の声が聞こえてくるような気がした。

『わからないからって手を伸ばさなきゃ、もっと何もわからないから、手探りしていくしかなくって』

 俺は、丁寧にカードを挟み直して、そっと本を閉じた。

「考えてみれば、今までちとせのペースに振り回されすぎだったんだよな」

 ひとりでそうつぶやいてみると、ゴチャゴチャしていた頭の中が少しスッキリしてきた気がした。

 そうだ。似合わないなどとバカにされたりもしながら、俺がここまで一心に恋愛漫画を描き続けて来れたのはなぜか。

 どうせ鈍感で単純だと言われるのなら、鈍感で単純なりのやり方があるじゃないか。――『正面突破』というやり方が。
 俺には駆け引きなんて出来ないんだから、思っていることをそのままぶつけるしかない。

 俺は、空の封筒を手に取った。


    *    *    *


 地図アプリのおかげでほとんど迷うことなく、住所欄に書かれていたマンションの前までたどりつく。便利な時代になったものだ。 地名からなんとなく想像はついていたが、俺の目の前にそびえたっているのはやたら高級そうなマンションで、玄関も厳重なオートロックになっている。

 ……仕方ない。もしこれで追い返されるようなら、そのときは潔くあきらめよう。

 躊躇していても不審者と思われるだけだ。俺は堂々とした態度で部屋番号を入力し、インターホンに向かってこう告げる。

「原田――刹那漣です。ちくわぶ太郎先生に、クリスマスの品のお礼に伺いました」

 反応は何もない。しかし、少しの沈黙の後、自動ドアが音を立てて開いた。
 何だかいい匂いがして妙に滑らかに動くエレベーターに乗り込んで、8階のボタンを押す。
 漫画に描かれた内容や、いつもの通話の様子からすると、彼女はひとりでここに住んでいるらしい。

 部屋のドアの前であらためてチャイムを鳴らす。ボタンの押し心地やチャイムの音まで、俺の部屋よりなんだか高級な気がする。
 相変わらず何も返答はないが、ドアの向こうで何かガサゴソやっている気配がした。

 たっぷり5分以上は経っただろうか。カチャリと鍵の音がした。
 ゆっくりとドアが開き、隙間から彼女が少しだけ顔を出した。

「……なんで来ちゃうかな……」

 俺が答えようとするのを制して、彼女が声を抑えて言う。

「えっと、ここで立ち話してると変に思われちゃいますから、とりあえず中に」

 招き入れられるまま玄関に入ると、彼女の後ろから様子をうかがっていた灰色っぽい猫が、ぴゅーっと奥へと逃げていった。
 彼女は遠慮がちに俺に近づき、そしてドアの鍵をかける。
 よく見ると、薄いピンクのパジャマ姿だ。

「……上がってください」

 力ない声でそう言う彼女のあとに続いて、短い廊下を抜けて奥の部屋に入る。
 部屋の中央に置かれた低い丸テーブルの横に、彼女はクッションを抱えてすとんと腰を下ろした。
 テーブルの上には無造作に置かれたタブレットと、それから空になったらしいチューハイのロング缶が3本、なぜか縦に積み重ねられている。

「さっきの猫は?」

「あっちのベッドの下かどっかに隠れてるんだと思います。知らない人が来たので」

「そっか、なんか悪いことしたな」

「その感想はまず部屋の主の女の子に対して持つべきだと思うんですけど」

 さっきからずっと、目も合わせてくれないまま、ちとせはそう言った。
 だけどごめんな、鈍感な俺には、そんな『気まずい空気感』なんてものは通じないのだ。

 部屋の中はわりと綺麗に整頓されていて、その中に献本の入った段ボール箱が場違いに置かれている。
 たまに彼女がアップしてる画像の後ろに映り込んでいる本棚や、見覚えのある小物など。
 高級そうなものばかりではなく、彼女がひとつひとつお気に入りのものを運び込んで作った巣、みたいな印象だ。

「いいとこに住んでるんだな」

「親のスネをかじってるだけですよ」

「まぁ、こんな娘がいたら、安アパートとかに住まわせておくわけにはいかんと思うよな……」

 俺が父親だったとしても、多少ムリをしてでもセキュリティのしっかりしたマンションを借りるだろう。

「それは、私の生活能力が不安ってことですか?」

「大事にされてるってことだよ」

「……あんまり見ないでください」

 女性の部屋をジロジロと眺めるのは失礼だとか言われるのだろうと思って、なるべく彼女のほうを見ていると、彼女は片手で俺の視線をさえぎるようなしぐさをした。

「だから、見ないでくださいってば。……別に泣いたりとかしてませんからね。ゆうべ遅くまで動画とか見ちゃってただけですから!」

 言われてみると、目元にかすかに泣いたあとらしきものがある。

「もう会わないつもりで、ぜんぶ告白したのに……あんな話をしておいて、まともに顔を合わせられるわけないじゃないですか。あのあと恥ずかしくて床を転げまわってましたよ」

 そこで俺は持ってきた封筒を取り出し、彼女に見せた。

「ちとせのことだから、不用意に自分の住所書いたりはしないだろ。こうなることも考えてたんじゃないか?」

「それはそうなんですけど……その時点では、まさかこんなことになるとは思ってなかったから……」

 昨夜の通話の内容をまだ思い出してしまうのか、彼女はクッションを抱きしめる手にきゅっと力を入れる。

「あーあ……私なりに、けっこうヒント出してきたつもりなんですけどね。でも伝わらないからこそ刹那先生なわけだし、どうせいずれこうなる展開だったんですよ。私が少し調子に乗っちゃっただけです」

 ボソボソとそう話す彼女に、俺はまず気になっていたことを聞いてみた。

「そもそも、そこがよくわからないんだけどな。抱きしめたりとかそういうのはイヤだって、さんざん言ってたじゃないか」

「したら怒るって言っただけです。……してほしくないとは言ってません」

 目をそらしたまま、すねた子供のような口ぶりで、彼女は続けた。

「もしそれで私に嫌われて、憎まれてでも、それでもどうしても私を欲しいと思ってくれるなら……そこまでするんなら、少なくともウソじゃないんだな、それぐらい本気で私のことが好きなんだなって、そう感じられるじゃないですか……」

「それはちょっと、こじらせすぎだろう。世の中には本当に危ない人だっているんだから」

「だから、相手は選んでますってば。さっきから何ですか、お父さんですか。……私だって、相手が私に好意を持ってくれてるって感じたらうれしくなるし、、ひとりでいるのが寂しいときだってあるし、でも誰でもいいわけじゃなくて、いま選ぶとしたら刹那先生がいいんだって、ずっとそう言ってるだけじゃないですか」

 そうまくし立ててから、彼女は慌てて付け足した。

「あ、もちろん、会ってる間ずっと発情してるわけじゃなくて……スケッチするときの手の動きを見てるとなんかやばいなーとか、そういうときだけ……」

 俺が黙っていると、そっぽを向いていた彼女の耳元が少しずつ赤く染まっていった。
 初めて自分の言葉の意味に気付いたように、手でパジャマの胸元を隠すようにする。

「いや、例えばの話ですからね、例えばの! 本当に強引にやったら犯罪ですから! 訴えますよ!」

「……わかったとは簡単に言えない気もするけど、なんとなくはわかったよ」

「……はい。私はこんなふうに、屈折していて面倒な女なので。先生はもっとキレイな恋愛ができる相手を選んだほうがいいと思います。それだけです」

 そう言って彼女は、何かして気を紛らわせるようとでもしているのか、積まれていたチューハイの缶を下ろして三角に並べ始めた。

「せっかく単行本出版の記念日だったのに……なんでヤケ酒しなきゃいけないのかな……」

 ――その言葉を聞いたとき、俺の中で覚悟が決まったのだと思う。

 単純と言われようと、分不相応だろうと……。
 目の前でこんな生き物を見せられて、惚れないほうがどうかしている。

「まぁ、こうやって会って話したほうが早かったかもですね。今日の私、すっぴんだし、髪も寝ぐせでバサバサで、お酒臭いし、部屋はこんなだし、下着とか干してあるし……」

 ちとせは今日はじめて俺の顔をまっすぐ見て、苦笑いのような表情を浮かべて言った。

「どうです? 少しは幻滅しました?」

「いや、別に?」

「……え?」

「……あのな。ちとせもいつも上から目線でいろいろ偉そうに言ってるけど、男心ってやつが全然わかってないようだから、教えてやるよ」

「……え?」

「外見だけで判断されるのは嫌いなんだろうけど、そういうめんどくさい性格とかもぜんぶ引っくるめて、男から見たらめっちゃ可愛いからな?」

「な、なに言ってるんですか……! そんなわけないでしょう」

「語彙がないからうまく表現できないけど、めちゃくちゃ可愛いと思う。好きだ」

「……見た目に騙されてるだけですよ」

「どんだけ容姿に自信持ってんだよ。外見より中身のほうが普通に魅力的だぞ、ちとせは」

「……頭おかしい」

「だから、そういう反応が男を余計に萌えさせるんだよ。計算してやってるだろ?」

「そんな計算してませんっ!」

 彼女は大きく息を吸い、調子を取り戻そうとする。

「だから、ダメなんですって……私、言うほど意思が強くないから。こうやって流されてしまいそうになっちゃうから。それじゃ先生に悪いから。思わせぶりで気を惹こうとしてたのは謝ります。……どうしたら、私を嫌いになってくれますか?」

「無理だ」

 そう即答する。

「ちとせは俺を甘く見すぎだ。どれだけ振られようが振り回されようが、そう簡単に傷ついたり汚れたりするほどヤワじゃない。俺が平気なんだったら何の問題もないだろ」

 彼女は、少しの間うつむいて黙り込んだ。
 そして、クッションを抱えて座りなおすと、ふっと笑った。

「……そうですね。刹那先生、ニブいですもんね」

「駆け引きでこんなこと言えるほど器用でもないしな。本気だよ」

 真剣にそう言ったつもりだったが、なぜか彼女はワンテンポ置いてクスクスと笑い出した。

「やっぱりこんなクサいセリフ、現実の俺には似合わないか」

「いや、すごくいいセリフだと思いますよ。私が漫画のヒロインだったらきっと、先生に抱きついてるシーンなんだろうなーって。……でも私、こんな格好だし」

 自分のパジャマ姿を見下ろして、彼女は言う。

「いったん帰ってもらっていいですか。いきなり女の子の部屋に訪ねてくるなんて、やっぱり非常識です」

 そして彼女は、ようやくいつも通りの見慣れた表情……何か企んでいるような笑顔を見せた。

「お風呂に入って、化粧して、猫にゴハンあげて、着替えて、そうしたら……今夜あらためて、ちゃんとデートしましょう」


    *    *    *


 いよいよクリスマスの追い込みに入った街で、俺はまた彼女を待っている。

「刹那先生、お待たせです」

 後ろから背中をつつかれ、振り向くと着飾ったちとせが立っていた。
 着飾った、というのはあくまでファッションに疎い俺の印象なので、どう表現するのが妥当かはわからないが……。
 たぶん写真は撮らせてくれないだろうからあとで記憶を頼りに絵に描いておこうと思った。

「化粧って、涙のあとも隠せるんだな」

「だから泣いてないって言ってるでしょう。不正解ですね。あとデートの第一声としても最悪です」

 もう完全に普段通りの調子を取り戻している彼女だったが、そのあとに聞こえるか聞こえないかのような声でポツリとこう言った。

「弱ったとこ見せちゃったけど、ここで強がるのが私だから、ちゃんと強がりたい」

「そういう可愛げのないところが可愛いよ」

 ……彼女はグーで俺の脇腹を小突いた。

「やっぱり私……先生に悪影響与えちゃってる気がする……」

 そして、再び明るい声に戻って言う。

「それじゃ刹那先生、どこ行きましょう? まずはクリスマスプレゼントでも買いに行きますか、私への。まだ25日だからギリ受け付けますよ。それから、そう言えばケーキもまだ食べてないし……」

 そう言いつつ、彼女は目ざとく俺がはめていた手袋に気付いた。

「あっ、そういうのはズルいですよ、刹那先生。女の子はちょっとでも自分をかわいく見せるために寒さをガマンしてたりするんですから」

 強引に手袋を脱がせて、俺のコートのポケットに突っ込む。
 そうは言ってもいちおう商売道具だから、あまり冷やしたくないんだが……。

「もともと、私みたいなひねくれた人間は刹那先生みたいな直球タイプと相性がいいって、最初から目をつけてたのは私なんですからね。私のほうが先生のことわかってますから。今日のことで自分が主導権握ったなんて思ったら大間違いですよ」

 これまで温もっていた両手が、外気に触れて冷たく感じる。

「――あと、言っておきますけど」

 そう言いながら彼女は自分の手を伸ばし、俺の手をそっと握った。

「セリフひとつで落ちるような女なんて現実にはいませんよ。だから、もっともっとがんばってください。これからも、ずっと」



                         (おわり)