「――でもやっぱり、『ちーちゃん』ってのも半分正解で半分当たりかなぁ」

 通話が繋がって早々、彼女はそんなことを言った。

「さすがにちょっと子供っぽくて恥ずかしいですし。呼び捨てでいいですよ」

「じゃあ、『ちとせ』?」

「…………」

 スピーカーの向こうでしばし沈黙があった。

「……『ちくわぶ太郎』と呼んでくれるなら、そっちのほうがいいですけど」

 自分で言い出しておいて照れてるんじゃねーよ。
 声の調子や口ぶりから、なんとなく彼女の考えていることがわかるようになってきたかなと思う。もっともああいうキャラなので、どこまで当たっているか自信はないが。

「ところで、いよいよ今日ですね」

 珍しく朝から繋いでいるのは、お互いそれをわかっているからだ。
 そう、今日はクリスマスイブ――であると同時に、web漫画家である彼女の初単行本『ちくわぶれいく』の発売日なのである。

「開店の10時まではいくらソワソワしてもしょうがないぞ」

 電子書籍の配信は0時から始まっているが、そちらはwebで公開するのとあまり変わらなくて、作者としてはどうしても実感に欠ける。
 電子書籍は確かに便利だし、出版社の側も在庫を持たなくていいから歓迎してくれる。でもやっぱり、自分の作品が紙の本になるというのは、作者にとって特別なことなのだ。

「刹那先生。そのことなんですが……」

 彼女があらたまった調子でそう切り出した。

「刹那先生も、自分の本の発売日って、本屋さんに行ってみたりしました?」

「ああ、もちろん。ほとんどの作家はそうじゃないかな」

 初めての単行本が出た日は、行ける範囲すべての書店を見て回ったのをおぼえている。

「今までネタのためにさんざん引っ張り回しておいてなんなんですけど……今回ばかりはわりと切実に困ってまして」

 珍しく言いづらそうに、彼女は続ける。

「今日ってほら、イブじゃないですか」

 俺のほうから発売日の話題を振りづらかったのも、それが理由だった。
 彼氏がいないとしても、めでたい日なのだし、何かしら予定があるだろうと思っていた。

「私が今日ひとりで出歩くと、むちゃくちゃ声かけられまくるんですよ。おちおち信号待ちも出来ないぐらい。去年は歩道橋を渡って駅の改札に行く間に3回ナンパされました」

 俺が想像もしない答だったが、彼女の容姿を考えれば納得できる話だ。

「サングラスにマスクでもしていけば?」

「それやると今度は、『キミ芸能人? モデル?』とか言われます。何でもいいんですよ、ああいう人たちって」

 ……俺も初対面のときの印象はそうだったので、少し耳が痛い。

「一緒に行ってくれる程度の友達はいるんだろ?」

「夜ならともかく朝10時から暇なのは先生ぐらいですよ。さすがに今日、女友達を個人的な用事で誘うのは気が引けますし。こんなことならサイン会、引き受ければよかったかな。トナカイの被り物でもしてれば顔は隠せるし……」

 付け髭のサンタではなく、トナカイというのがなんとなく彼女らしいと思った。

「サイン会、断ればいいって言ったの誰だったっけなぁ……あ、ところで待ち合わせ、どこにします?」

 ……おい。


    *    *    *


 そりゃあこういう展開も全く考えていなかったと言えばウソになる。
 しかしまぁ、彼女が自分で言っていた以上の理由はないのだろう。たかだかクリスマスぐらいで浮ついていては、またバカにされるだけだ。

 漫画家が多く住むと言われ、大きめの書店もたくさんあるターミナル駅に着き、スマホでメッセージを送ると、『ちくわぶ太郎』こと桜小路ちとせ嬢があたりをキョロキョロうかがいつつ駅前のコンビニから出てきた。
 そのまま小走りでこちらに駆け寄ってくる。

 今日の彼女は、クリスマスとはまるで縁がなさそうな、真黒な細身のロングコート姿だ。ちょっとしたスパイ気分なんだろうか。
 彼女が俺に話しかけようとすると、周囲の男たちがいっせいに視線をそらすのを感じた。
 本当に大変なんだな。……そう思うと同時に、ちょっとした優越感も感じてしまう。

「……聞いてますか、刹那先生。無理言って来てもらったのは悪かったですけど……」

 軽くすねたようにそう言った彼女は、自分の髪をひとすじ、引っ張って見せる。

「髪の色も変えてみたんですけど気づかないし。……変じゃないか、女の子は不安なものなんですよ」

「あ、いや、変じゃないと思うよ。似合ってるんじゃないかな」

「ウソです。こないだ会ったときと同じ色ですよ。やっぱりちゃんと見てないんですね。漫画家は観察力が大事なのに……」

 こいつ……。

 1軒目では『ちくわぶれいく』は見当たらず(入店が早すぎたのかもしれない)、2軒目のコミック売り場でようやく見つけた。

「言っとくけど、誰かが自分の本を買っていくところなんてそうそう見られるもんじゃないぞ」

 大手週刊誌の連載作家でさえネタにするぐらいだ。俺たちみたいな末端がそんな状況に遭遇するのなんて、隕石が衝突するようなものだろう。

 そう言おうとして、隣にいる彼女の顔を見る。
 2冊並んだうちの1冊、ビニールに包まれたその本を手に取った彼女は、感極まったような表情で、じっとその表紙を見つめていた。
 自分の初単行本が出たときのことを思い出し、つられて少し感傷的な気分になっていると、彼女は平積みされている萌え系4コマの単行本の上に自分の本を乗せた。

「はいはい、『ちくわぶ太郎』先生。それは作家あるあるだけどやめようね」

「なんでこんなときだけ呼ぶんですか。これ、アニメ化したんだから何もしなくたって売れますよ。ほんの一瞬ぐらい新人に場所を譲ってくれたっていいじゃないですか」

 アニメ化作家はアニメ化作家なりに苦労してるんだよ、たぶん。
 彼女は自分の単行本を棚に戻すと、その萌え4コマ本をレジに持って行った。……読者なのかよ。


    *    *    *


 ひととおり書店を見て回り(入荷している店は半々ぐらいだった)、俺と彼女は商店街をそのままブラブラと歩いていた。

「どこかで一休みしたいとこですけど、さすがに今日はどこのお店もいっぱいですね……」

 さっきまでは本のことしか頭になくて気づかなかったが、あらためて見ると商店街はクリスマスソングとイルミネーションでむせ返るほどだった。

「今日は本当にありがとうございます。わざわざ付き合ってくれた良い子の刹那先生には、サンタさんから何か届くと思いますよ。明日には間に合わないかもしれないけど」

「……俺の住所聞くとき、年賀状出すからとか言わなかったか」

「年賀状も書きますよ、たぶん」

 まだ書いてないんかい。
 しかも自分の住所は教えてくれなかった。
 まぁ、彼女の場合、そのぐらいガードが固いぐらいほうがいいんだろう。

 そして俺は、プレゼントのことなど何も考えていなかったことに気付いた。
 今朝まで会う予定もなかったんだし……まぁ、ダサいアクセだのぬいぐるみだの、下手にハズしたものを贈ってまたバカにされるぐらいなら、なくて良かったかもしれない。

「私へのプレゼントですか? 本をあと10冊ぐらい買ってくれれば十分ですよ。本屋さんになくなっても困るから電書でいいです。それからご家族やご親戚にもおすすめしてください」

 それはぜったいイヤだ。

「ところで、今日のことも漫画のネタにするのか?」

「あー……どうしましょう」

 彼女は珍しく含みのある返答をした。

「さすがにイブですからね……。変に邪推されて荒れるのもイヤだし、いるのか知らないけど刹那先生の女性ファンから恨まれても困るし……」

 恨むかどうかはともかく、いるにはいるぞ、失礼な。

「クリスマスだからって特別に意識するのもバカバカしいと思うんですけどね。刹那先生は、男女間の友情って信じるほうですか?」

「信じるってそんな、幽霊かUFOみたいな」

「似たようなもんですよ。愛情より友情のほうがレアなんだから、それを異性に限定したら当然少なくなりますよ」

「友情のほうがレア……?」

「恋愛だったら、成りゆきで朝チュンみたいなケースもありえますけど、友情ってちゃんと時間をかけないと育たないものじゃないですか。昔の少年漫画みたいに河原で殴り合って芽生えたりもしないし。男女でいくら友情を育んでたって、誘惑に負けてやっちゃったらそこで終わりですからね」

 彼女が言うほど女性に幻想は抱いていないつもりだが、そういうことを自然に口にされると、それでもちょっと反応に困ることがある。

「友情と言えば……前から言ってたリアルな女子高生の恋愛事情でもお話ししましょうか? これは高校時代の友達の話なんですけどね」

 行く当てもなく、なんとなくお互い歩調をゆるめながら、彼女はそう前置きして話しはじめた。

「まぁざっくり簡単に言うと、年上の大学生と付き合ってたつもりで、実は妻帯者だったとか、そういう話です。その年頃って、同年代の男子は子供に思えて、年上に走るってよくあることですけど、後から冷静に考えるとその年で女子高生に手を出す男なんて、やばいヤツの可能性が高いに決まってるんですよね」

 そこで彼女は俺の顔を見て、あわてて手を振った。

「ほんとに私の話じゃないですよ? 私は、その友人を本気で心配して、いろいろ相談に乗ったり忠告したりしてた友人Aの役です。10代の女の子に不倫の十字架を背負わせるなんて、ロクな男じゃないじゃないですか」

 いつもの余裕のある毒舌とは違う。本当に怒っている感じの口調だった。ただなんとなく、ただの怒りだけでもない。そんな気がした。

「私も若かったんで、いちど友人に内緒で、その相手の男のところに乗り込んでいったんです。そしたらそいつ、私を見て、『キミ、かわいいね』って。私にまで手を出そうとしたんですよ」

 彼女がきゅっと小さな拳を握り締めたのがわかった。そしてそれとは裏腹に、また冗談めかした調子に戻って言う。

「私、これからすごく鼻持ちならなくて最低でイヤミなこと言いますけど、あんまり引かないでくださいね?」

 意味が分からないまま、とりあえずうなずくしかない。
 彼女は苦笑しながら続ける。

「恋愛漫画でヒロインの周囲にいる友人Aってよくいるじゃないですか。ヒロインより地味で目立たなくて、一緒に悩んであげるけど特に問題を解決する力があるわけじゃないって感じの。顔だってだいたいヒロインのほうがかわいく描かれますよね」

 確かにその例えは、俺にはよくわかった。

「……そのクソ男に口説かれそうになったとき、わかったんですよ。ああ、私みたいなのは、その友人Aのポジションにいちゃいけないんだ、って。何も出来ないモブのくせに、外見だけ目立っても、邪魔なだけだから。いつもいつも、人間関係を余計に掻き回してしまうだけだから」

 そこで彼女はいったん口をつぐんだ。まるで小石を蹴るかのように、足先を軽く振り上げるようにして歩いていく。

「けっきょく彼女、なかなかその男と別れられなくて。そして、少し大人になってから、私もそんな彼女の気持ちが少しわかるようになっちゃったりもして。二重に自己嫌悪ですよ。青春の黒歴史です」

「ああ……そういう経験があったから、そんな潔癖な感じになったんだな、ちとせは」

 なんと言っていいかわからず、とりあえずそう声をかけてみた。

「――私が、潔癖?」

 振り返った彼女は、心底意外だというように目を見開いて言った。

「いや、冗談で下ネタは言ったりするけど、根は真面目っぽいし、ガードも固いし……」

「……はぁ」

 彼女は立ち止まり、わざとらしく大きくため息をついた。

「ほんとに、何もわかってないんですね、刹那先生は。……でもまぁ、そのほうがいいのか」

 そして彼女は、ぽつりとつぶやいた。

「やっぱりこれ以上、期待させちゃダメだよね」

 そうして顔を上げた彼女は、明るく言った。

「先生。いちおう聞きますけど、まさか、私のために誰か他の人との予定を断ったりしてないですよね」

「そんな相手いないの知ってるだろ。男同士でクリスマス会みたいな寂しいイベントもないし。そっちこそ……」

「私はいいんです。私の勝手で、好きでここにいるだけですから」

 クリスマスソングに混じって、商店街のアーケードをバラバラと何かが叩く音が響きはじめた。

「……雨ですね。やっぱり、今日は帰れって言われてるみたい。クリスマスイブだからって都合よく雪に変わったりもしない。現実なんてこんなものですよ、刹那先生」

「えっと……ちとせ?」

 わけがわからないまま、踵を返して歩いていこうとする呼び止めようとする。

 彼女は意外とあっさり振り向いて、いつも通りの調子でこう言った。

「今夜また、Skypeでお話できますか。さすがにこんな場所で面と向かって話せる内容じゃないので」


    *    *    *


 それからどうやって家まで帰ったのかよくおぼえていない。
 まったく、まるで思春期の初恋みたいじゃないか。彼女にさんざんバカにされるわけだ。

 あんな可愛い子と知り合って、何度か一緒に出掛けたりして、柄にもなく浮かれていたんだ。

 混乱した頭で、なぜかコンビニでケーキとチキンなど買ってきてしまった。せめてクリスマスらしく、それらをPCの前に並べてから電源を入れる。

 時刻は午後11時すぎ。いつも彼女とよく通話している時間だ。

『えっと……刹那先生。昼間はすみませんでした。空気悪い感じにして帰っちゃって』

「いやまぁ、せっかくの発売記念日だし、クリスマスイブだし」

『この通話なら、いま私が他の誰かといるわけじゃないって、わかりますよね?』

「……? うん、それは別に気にしないけど」

 自分でもよくわからない返事をしてしまう。
 それにしても、どうして彼女のほうが沈んだ声をしているのだろう。そんなに気を遣わせているんだろうか。

『これから話すのは、ほんとに自意識過剰で恥ずかしい話なので……勘違い女のたわごとだと思って、聞いたらすぐにぜんぶ忘れてくださいね?』

「……うん」

 とりあえずそう答えるしかない。

『その……まず前提として、もしここが間違ってたらさすがに恥ずかしすぎて回線切って首吊るしかないんですけど――』

 ずいぶん古いネットスラングを持ち出す。冗談でもとりあえず吊るのはやめておけ。

『――先生は、私のことを、女性としてそれなりに好意的に見てくれている、ってことでいいですよね……』

「うん……単純だと思われるかもしれないけど」

『……うー……』

 回線の向こうで、彼女が奇妙な呻き声を漏らしている。どういう感情のそれなのか、さっぱりわからない。

『私も、これまでさんざん思わせぶりな態度を取ってきた自覚はあります。先生はニブいからあんまり気づいてないかもしれないけど』

「いや、それは勘違いするほうが悪いんだよ。ちとせみたいな女の子が本気で俺を相手にするわけがないことぐらい、いくら俺にだって……」

 別に恋愛的なことを期待していたわけじゃない。容姿を抜きにしても彼女は魅力的な人間だと思うし、漫画家仲間としてこれからもたまに友人付き合いが出来れば、それで。

『だから、そういうのじゃないんです!』

 彼女が大きな声を出す。息を吸い込む音がかすかに聞こえ、彼女は矢継ぎ早に話しはじめた。

『私だって、刹那先生に好意を持っていますよ。絵は上手いし、漫画家の先輩としてもリスペクトはしてますし、個人的にもいろいろ手助けしてもらってるし、わがまま言っても聞いてくれるし。人として信頼してます。……でもたぶん、それはまだ、刹那先生が考えるような異性への恋愛感情じゃないと思います』

「いやだからそれはわかってるから。わざわざ強調しなくても」

『そうじゃなくって……!』

 彼女はそこで少し黙り込んで、慎重に言葉を探してるようだった。

『たぶん、女としてはそこまで珍しくもないと思うんですけど、先生みたいに恋愛や女性に幻想持ってる人はたぶん引くでしょうから……聞き終わったらすぐ忘れてくださいね。私だって恥ずかしいし、できれば言いたくないので』

 何度か言っているけど、『恥ずかしい』とは、いったい何なんだろう?


『……私は、先生になら抱かれてもいいです』

「……は?」

 その言葉の意味を理解するのに、素で10秒近くかかってしまった。

「だって、恋愛感情はないって」

『だから、ですね……恋人関係じゃないけど信頼できる相手からそういうふうに求められるのも悪くないっていうか……たまにそんな妄想をしたりして……』

 消え入りそうな小さな声でボソボソとそう言ったあとで、慌てたように付け足す。

『あっ、でも、妄想はあくまで妄想で、現実にそうされたいかというと微妙に違うんですけど……! えっと、だから、その……』

 深呼吸するような息の音が聞こえて、少ししてから彼女は落ち着いた調子に戻って話を続けた。

『これが、本当の私ですよ。刹那先生が身体だけが目当てみたいな人だったら、ある意味ラクだったと思いますけど――でもそれはきっと、刹那先生が求める形じゃないですよね。だから、つらいんです』

 正直言って、予想もしなかった言葉ばかりで、頭で理解が追い付かない。そんな自分が心から情けないと思った。

『私はそんなキレイな愛情なんて持ってないから……刹那先生の恋愛観を、私で汚したくない』

 最後にそう言って、それきり彼女はオフラインになった。
 気付けば時計は0時をまわっていた。



                         (つづく)