思い返してみても、素晴らしい映画だった。
記憶を噛みしめつつ、俺は描き上げた感想レポ漫画をTwitterの投稿欄に貼り付け、送信ボタンを押した。
さすが、話題の映画だけあって、見る間にRTが増えていく。
漫画を描いていてよかったと思える瞬間だ。
実際に、万人受けするだろう映画だったし、特に俺のフォロワーの皆さんにはぜひ観てもらいたいと思う。
一仕事終えた達成感に浸りながら、TLをぼんやりと眺めていたときだった。
毒々しい色合いの1P漫画が流れてくるのが目にとまった。
投稿したアカウント名は、『ちくわぶ太郎』となっている。
この『ちくわぶ太郎』というフザけた名前の漫画家は、俺と同じくTwitter上によく作品をアップしている。
しかし、その作風は俺とはまるで違う。
絵柄こそ少しポップ調に寄せているが、基本的に勢いだけの低俗で下劣な内容で、ドギツいインパクトだけでRTを稼ぐ、ギャグと呼ぶのもおこがましいようなクソ漫画だ。
しかもなぜかこの『ちくわぶ太郎』は、以前からよく俺に絡んできて、『話がクサい』『女の子の言葉遣いが古い』だのクソリプを飛ばしてくる。俺のほうもたまに、周囲からぎりぎりネタに見える程度に煽り返したりして、なぜか相互フォローで相手の作品をdisりあうという、奇妙な関係なのだった。
「これ、まさか『雪穴2』の感想漫画か……?」
どこか見覚えのあるシルエット。悪意を感じるようなデフォルメを施されたそのキャラは、やはり『雪と王女の穴2』の主要人物らしかった。
最初はまた俺への嫌がらせかと思った。だがクソリプならともかく、漫画を描いて着色してアップするという工程をこのわずかな時間でできるわけがない。
確認してみると、その漫画は俺と全く同じ時刻に投稿されていた。
『今日は話題の雪穴2を見に来ました! 明らかに場違いな自分!』『そしてなんと、すぐ前のハゲオヤジが暗くなると同時にイビキかいて爆睡! 驚きの安眠作用!(※個人差があります)』
そうそう、そうだったよな。
試写会だというのに、左斜め前の席のこの男のせいで、せっかくの良い映画が……。
……ん?
……どうして『ちくわぶ太郎』が、同じ映画で俺と同じ体験をしているんだ?
このイビキをかいていた男の真後ろ、つまり俺の左隣に座っていたのは――
小奇麗な格好をした、華奢で可愛らしい女性だった。
(さすが、一流映画の試写に招待されるような人は、俺なんかとは住む世界が違うな)
モデルとか女優とか、芸能関係者なのだろうと思った。それぐらい印象的だった相手を、そうそう忘れるわけがない。
『右の奴は右の奴で、仕事場から出てきたばっかの漫画家みたいなカッコしてるし……それなりの服装で来いや! 王女の前やぞ!』
んん……? この汚らしい男のイラストも、あの日の俺の服装に似てるような……。
ポコンと通知がポップアップし、DMが届いたことを伝える。
『ちくわぶ太郎です。少しお話できませんか?』
* * *
急ぎで相談があるという『ちくわぶ太郎』としばらくメッセージを交わして、俺はようやく状況を理解した。
――早い話が、俺はステマ炎上騒動に巻き込まれてしまったわけだ。
同時刻に雪穴2の感想漫画を投稿したweb漫画家が他にも何名かいたらしく、すでにそこから火が付き始めていた。
ネットではまだるっこしいので直接会って話したいという『ちくわぶ太郎』に俺は呼び出されることになった。
住所を聞くと同じ沿線だったので、ちょうど中間の駅前で待ち合わせることになった。
ちなみに相手のほうが都心寄りだ。……いいとこに住んでやがんな。
目印として、俺は自分の漫画の単行本をさりげなく小脇に抱えている。これが真のステマというものだ。
「刹那漣先生ですか?」
そう声を掛けられるまでもない。数十m先からでも明らかにひときわ目立つ容姿の持ち主――試写会で隣にいた可愛らしい女性が、俺に近寄ってきた。
俺の目は節穴じゃない……少なくとも漫画に関しては。
食べたものやなんかの内容や、細かな部分の表現から、『ちくわぶ太郎』が若い女性だろうというのは、以前からうすうす見当がついていた。
しかしまさか、あのとき隣に座っていたこの美人が、あんなクソみたいな漫画の作者本人だとは……。
彼女も俺を見て、それに気づいたようだった。大きな目を見張って、俺の顔をまじまじと見つめる。
ここまで可愛い女性と間近で見つめ合ったことなどないので、少し動揺してしまう。
「え……あの時の……?」
と言うか、あの席では俺なんかまるで眼中にないかのように振る舞っていたのに、さりげなく容姿や服装を観察して覚えてやがったんだな。クソでも漫画家、あなどれない。
「どうも。原田俊哉と申します」
落ち着いた風をよそおって俺は本名を名乗る。
「刹那先生ですよね?」
彼女は、よく通る声で俺のハンドルネームを繰り返した。
「あのー、公共の場なんで本名にしませんか」
「……? なんでです?」
「なんでって……『ちくわぶ太郎』さん」
大きめに言ったつもりだったが、途中からどうしても声が小さくなってしまう。
くそっ、こっちのほうが恥ずかしいやつじゃねーか。不公平だ。
「まぁ、こんなところでする話じゃないですしね。……とりあえず、あそこで」
そう言って彼女は、駅前のコーヒーチェーンを指さした。
* * *
紙カップのカフェラテを片手に、彼女は窓際のカウンター席のスツールに腰掛ける。
……顔と手、小っさ。まるで俺が漫画の中で描いてる女の子みたいだ。
俺には何と呼べばいいのかもわからないような、ふわふわヒラヒラした服装は、俺の1900円のシャツの10倍はするだろうということだけは軽うじてわかる。
隣に並んで座ると、コーヒーの匂いを抑えて彼女の香水が鼻をくすぐる。俺の日頃の生活の中では決して嗅ぐことのない、不思議な香りだ。
「あんまジロジロ見ないでください。急いでて化粧とか手を抜いてますから」
さっきさんざんこっちをジロジロ見ていたくせに、そんなことを言う。
そう言われても、どこが手を抜いているのかわからない。これで手抜きだってんなら、俺なんか生まれた時から廃棄扱いの不良品だ。
「刹那先生は――」
「原田」
「――原田さんは、こういうところでネーム考えたりします?」
「俺はファミレスが多いかな」
「えー。騒がしくないですか?」
「俺はそれぐらいのほうが逆にいいかな。こういうとこに長居するほうが落ち着かない」
作品の印象とは違って、思いのほか普通に会話が成立していることに驚く。そのことを彼女に言うと、
「リアルで初対面の相手にあんな漫画みたいな態度取ってたらただの狂人でしょ。漫画はフィクションですよ、大丈夫ですか?」
……いや、リアルでもあんまり中身は変わらない気がしてきたぞ。
どれだけ見た目が可愛らしい女性でも、やっぱりこいつはあのクソ漫画家だ。
そう思った俺は、さっそく本題を切り出した。
「いちおう確認しておくけど、PR漫画の依頼をしてきたのって、S社の宮崎って人?」
「あーはい、その人です」
他の漫画家にも依頼しているとは思わなかったが、考えてみればそれ自体はじゅうぶんありえる話だ。問題はわざわざ同時刻に投稿させたことだ。
「なに考えてんだ……」
そもそも『ちくわぶ太郎』の漫画に至っては、寝てた人がいるとか、PRなのにそれ描いちゃダメだろ。通すほうも通すほうだ。いつもの作品に比べればそれでもおとなしめだったけど。
「なんかメールの対応もいいかげんで、ちょっと怪しいなとは思ったんですけど、天下の『雪穴』ですしね。試写会も本物だったし、提示されたギャラも良かったし……ちょうど欲しい冬物コートがあったんですよ」
その動機を責めることはできない。金目当てで漫画を描くことは悪いことではない。もちろん、一発大儲けして遊んで暮らしたいわけじゃない。普通に生活しながら漫画を描き続けるためには、それなりの金が必要なのだ。
「そういう刹那先生こそ……」
いちいち訂正するのも面倒だし、さいわい店内に客は少なかったので、もうスルーすることにする。
「刹那先生こそ、なんで引き受けたんですか? まさか……」
カフェラテを一口飲み、彼女はちらりと横目で俺を見て、言った。
「まさか本気で『雪穴』が大好きで、続編を一般の人より一足早く見れるのが嬉しくて、引き受けちゃったとか……?」
――その通りだよ、悪いか!
どちらにしろ自分で金を払って観に行くつもりでいたし、漫画に描いた内容はすべて偽りなく自分の本心で、たとえ依頼がなくても同じ内容の漫画を描いてアップしていただろう。ステマ呼ばわりされる筋合いはない。
「私、お金もらえなきゃ絶対に見ないですよ。タダでも見ません。その時間でお散歩でもしてたほうが健康にもいいし」
「なんでだよ、いい映画だろ! これまでのおとぎ話とは違う、現代的なテーマが……」
「あんなのただ、甘いおしるこにちょっと飽きた人たちが、塩昆布を添えてもらって喜んでるだけじゃないですか。ましてや味付けされた塩昆布をかじった程度で、それが海に生えてる昆布の本質だとか。そういうカンチガイした主張が透けて見えるのがイヤ」
なんだかどんどん『ちくわぶ太郎』の地が出てきている気がするが、それがこんなに可愛い女の子の口からとなると、少しドキッとしてしまう。
そんなこちらの気持ちにはまるでお構いなしで、彼女の毒舌は続いた。
「おとぎ話で何が悪いんです? 恋愛に頼らず生きるのなんて、誰だってやろうと思えば明日からでもできますよ。映画に応援なんかしてもらわなくったって」
口調にこそトゲはあるが、彼女は真剣な表情で、ガラス窓の外を行き交う通行人たちを見つめながら言う。
「……でも、運命的な出会いから素敵な恋に落ちるなんて経験、ほとんどの人には一生できないんです。みんながしたくても出来ない夢を描くのが、フィクションの意義じゃないですか。……私はそう思ってます」
とてもあのクソ漫画を描いている人間の言葉とは思えない。
「現実の一面を浮き彫りにするのだってフィクションの意義だろう」
「はぁ……あの刹那漣先生がそんなことを言うなんて、残念だなー」
「なんでだよ」
「だって刹那先生は、いつもこっちが小っ恥ずかしくなるような、クサい青春恋愛ものをアップしてるじゃないですか。フォロワーさんたちは、そんな恋愛は現実には体験できっこないって知ってるから、いいねを押すんですよ。そこに中途半端なリアルさなんて求めてません」
「恥ずかしくてクサい漫画で悪かったな」
「……なんでそこで拗ねるんですか? せっかく珍しく褒めたのに」
褒めてねーよ。
「まぁいいです。話がそれちゃいましたね」
そうだった。問題はこのステマ疑惑への対策だ。
「実は私の漫画、いま書籍化の話が出てて……この時期に炎上はぜったい避けたいんですよねー。そっちの編集さんとかにも迷惑かかっちゃいますし」
「そうか。そりゃ確かにちょっとマズいな」
出版不況のこのご時世だ。たとえそれがムカつく作者のものであっても、業界のためには無事に売れてほしいと思うのが正直なところ。
「幸い、私のはとてもお金もらってPRしてるようには見えない漫画ですし……」
やっぱり自覚はあるのかよ。
「刹那先生にしても、あのキモいぐらいの感情移入っぷりはステマではありえません。マジキモいです。だから、時刻がかぶったことだけたまたま偶然ってことで押し通せれば、何とか誤魔化せると思うんですよ」
「いや、それは無理があんだろ。これだけ何人もの漫画家が同時に投稿してたんじゃ……」
「それは、ぜんぶを否定しようとするからですよ。私と刹那先生の二人についてだけ、同時に投稿したのが偶然じゃないっていうちゃんとした理由を、別に作ってかぶせればいい」
そうして彼女は、そのやたらと整った顔には似合わない、ニヤリという悪そうな笑みを浮かべた。『ちくわぶ太郎』の漫画のキャラがよくするやつだ。
「だからですね、私と刹那先生との間に納得のいく『関係』を用意するんです。そうすれば残りの人たちは必然的に無関係ってことになるでしょ」
彼女は、少し俺のほうに顔を近づけて――髪と香水の匂いがふわっと鼻をくすぐる――小声になって言う。
「私と刹那先生が、実は裏では仲良くしてて、一緒に映画を観に行ってたってことにしましょう」
* * *
――という、一風変わった『打合せ』を経て、俺と彼女は『実は一緒に映画を観に行っていて、示し合わせて同時刻にアップしたのはそのネタばらしのため』という捏造漫画をお互いに描くことになった。
並んで一緒に観ていたのは半ば事実ではあるが、さすがにちょっと強引すぎやしないか。
「だいじょうぶですよ。こういうのって、白黒の証明なんて出来ないんですから。重要なのは、黒っぽいのをグレーに薄めることです」
と、天使のような顔をして真っ黒なセリフを口にする彼女。
原稿が上がったら投稿する前にまずそっちに送るから確認してくれ、と言って、Skypeと仕事用メールのアドレスを交換して別れた。
「別に私はどんな描かれ方しててもかまいませんけど……やっぱり刹那先生って、漫画の印象どおり、クソ真面目な人なんですね」
クソとか付けるんじゃない。クソ漫画家はお前だろ。
ともかくそういうわけで、俺は『舞台裏』の漫画を描いている。
(これはちょっと、美人に描きすぎか……?)
『ちくわぶ太郎』の下描きをしながら思う。しかし実際に彼女の外見イメージはこんな感じだった。
美化するならまだしも、わざと実物より不細工に描くというのは、絵描きのはしくれとしてのプライドが許さない。
けっきょく、いつも彼女が自画像として使っている魚に手足が生えたような生物(なんだこれ……)に服を着せ、少しかわいめにアレンジして描くことにした。
そんな試行錯誤をしていると、当の彼女のほうから先に原稿データが送られてきた。
意外と早いな、と思いながら自分の作業の手を止めて見てみる。まず目に飛び込んできたのは、だらしない格好をした、俺らしき男性の絵だった。
『というわけで、実はあの刹那漣先生とは、こうしてたまに映画を見に行ったりするんです』『このムサ苦しい男が、あんな繊細なマンガ描いてるんですよwwwウケるwwwww』『同じ時間に投稿しようって言ったら律義に守ってくれました。あっちのほうが作画カロリー高いのに、まんまと乗せられてやんのw』
ウケるじゃねーよ草生やしやがって。
いつものように全方位をdisり散らしながら、その漫画はなんだか妙に楽しそうに描かれているように見えた。
楽しそう? 俺と会ったことが?
……いや、もともと「仲が良いフリをする」のが目的だったんだから、そう描くに決まってるじゃないか。
しかしそうなると、勢いだけで描いていると思っていた彼女の漫画が、実はちゃんと考えて描かれているということになる。
まぁ、話してみて頭悪そうな感じもしなかったしな。
そう思って彼女の過去の漫画をあらためて見直してみると、タッチこそ少し乱雑に見えても、仕上げに手を抜いている様子はない。勢いがあるのは、テンポよく読みやすいようにコマ割りやセリフが構成されているからだ。
俺は少しだけ、『ちくわぶ太郎』の作品の評価を見直すことにした。
正直、フォロワーを騙すような形で隠ぺい工作をすることに後ろめたさのようなものがあったが、彼女の漫画を読んでいるとなんだかこちらも気合が入ってきた。その勢いで俺は自分のぶんのレポ漫画を一気に描き上げ、彼女に送った。
しばらくして、返信があった。
「これでOKですよ。発表前の刹那先生の作品に干渉したりしませんって。アップされたらイジりにいきますけど」
興味なさげな、そっけない返信と、いつもの毒舌。
それに加えて、少し間を置いてから、追加の一言が送信されてきた。
「私のこと、可愛いキャラで描いてくれてありがとうございますw」
どうやらアレで正解だったらしい。
やっぱり、彼女のセンスはよくわからない。
* * *
彼女の読みはどうやら正しかったらしく、ステマ騒動は俺と『ちくわぶ太郎』の周囲ではひとまず沈静化したように見えた。
もともと二人ともよく投稿していた時間帯で、お互いにとても仕事で描いたとは思われないような普段どおりの漫画だったのも幸いした。
10日ばかりが過ぎて、PCに向かって原稿作業をしていると、とつぜん『ちくわぶ太郎』からSkype着信があった。
マンガ家は通話にSkypeを使うことが多い。会話しながらでも手が空くからだ。
「刹那先生。今ちょっとだいじょうぶですか?」
……声も可愛いんだよな。聞いているだけで癒される感じがする。描く漫画は癒しどころじゃないのに。
「……あ。ちょっとだけ待ってください」
彼女の声が少し遠くなり、何か言っているのが聞こえてくる。
「こら、ツミレ! そこ乗っちゃダメだってばー」
『ツミレ』というのはおそらく、彼女がたまに写真を上げている飼い猫の名前だろう。
……練り物が好きなのか?
「すみません、お待たせしました」
声が近くに戻ってきた。俺に対しては意識してハキハキ喋ろうとしているのがわかる。
「ああ、いいけど。何?」
「そろそろまたどこか行きません? 一緒に」
予想外の言葉に慌てて、思わず声が上ずってしまう。
「え、なんでまた……」
「いや、まわりに怪しまれちゃうでしょう。仲がいいって設定になってるんですから」
相手に聞こえないように軽く深呼吸し、少し冷静に考えてみてから返答する。
「適当に話つくって合わせればいいんじゃないの? 実際に行かなくても」
「それだと、どこかでボロが出ちゃうおそれがあるので。一度ターゲッティングされると、そういう細かいところまでアラ探しされちゃうんですよ」
まぁ確かに……信じられないほど昔のことや、ほとんど関係のない遠いところまで掘り返されるのを見たことはある。
「話は盛って、画像や証拠は間違いなく本物を用意する、これがコツですよ」
何のコツだよ……。時々、俺より年下であろうこの女の子のことが少し恐ろしくなる。
「じゃあまた、何か映画とか?」
「余計ステマを疑われるだけじゃないですか。……と言って、けなすためだけにわざわざクソな映画を観に行くのもなんか違う気がしますし」
俺の漫画はいつもわざわざdisりに来るくせにな……。
「んー、じゃ、流行り物の取材にでも行くか」
「何かあります?」
「タピオカとか」
「……うわ」
呆れたように小さな声を漏らしたのが聞こえてくる。
「いや、言いたいことはわかるが最後まで聞いてくれ。『タピオカミルクティー鍋』を始めた店があるんだ」
「ほぅ……」
思ったとおり興味を示したようだったので、店の名前や場所などを簡単に説明してやる。
「いいですね。女の子同士じゃちょっと行きにくそうなお店ですし。漫画のネタにも良さげです」
「じゃあそれで。……そう言えば、こっちは教えたんだし名前教えてくれない? 外で呼ぶときに不便で困る」
しばらく沈黙があったあと、ポツリと声が返ってきた。
「……桜小路です」
「は?」
「しょうがないでしょ、戸籍にも載ってるれっきとした本名なんだから。文句あるなら先祖に言ってください」
* * *
金曜の夜、ちくわぶ太郎こと桜小路嬢と俺は、タピオカミルクティー鍋の店に来ていた。
店の前には入店待ちの列が出来ている。世の中には物好きが多いらしい。
「ってかさ、ネットで知り合っただけの良く知らない相手と簡単に二人で会ったりして、危なくない?」
もしかすると俺に合わせてくれているのか、初対面のときよりは地味目な格好の彼女に、俺は話しかけた。
彼女は、マフラーで口元を半分隠すようにしつつ、涼しい顔で答える。
「良く知らないってことはないですよ。アカウント押さえてるのって、下手すれば本名より強力ですし。変なことしたら、ぜんぶ漫画に描きますからね」
確かに……そういった男女がらみの炎上案件もネットではよく見かけるが。
「だいたいTwitter見てればわかりますけど、刹那先生にはそんな度胸も経験もないでしょう」
「は? 馬鹿にするなよ。あんたに何がわかるんだよ」
「――経験人数はせいぜい2、3人。ひとりは学生時代の地味なオタク女子、その次はちょっと無理めなコスプレイヤーあたりを狙いに行って玉砕、ってところですか?」
よどみなくスラスラと答えられて、怒るよりまず絶句してしまった。
「刹那先生の漫画の女の子って、決まってその2タイプの派生しか出てこないですしね。……ちなみに後者の子はたぶん、フラレたというよりただの遊びかキープ……」
「わかったわかった、もうやめてくれ!」
「名前教えてあげたのにあんた呼ばわりとか、そういう人がモテるわけないです」
……いっさいの躊躇なく追撃してきやがった。
「わかりました。すみません、桜小路さん」
俺の謝罪で機嫌を直したのか、少しだけ口調が柔らかくなる。
「でも、そこが先生の漫画の魅力だと思いますよ。普通の人なら黒歴史としてしまいこんじゃうようなみっともない経験と、逃げずにちゃんと向き合って直視して、作品にしてるんですから――」
「うるせーよ」
俺がさえぎると、彼女は、漫画だったら口をとがらせていると表現するような、不満げな顔で言った。
「……褒めてるのに」
ぜったい褒めてない。
* * *
ようやく席に通され、鍋が運ばれてくるのを待つ間、俺は店内を軽くスケッチしておくことにした。帰ったら漫画にしないといけないからな。
向かいに座った『ちくわぶ太郎』も、バッグからタブレットを取り出して何か描こうとしたようだったが……
「そっか、自分でスケッチしなくてもいいんだ。あとでスキャンして送ってください、それ」
「いやいや、自分で描けよ」
「仲がいい設定なんだから、それぐらいしてもいいでしょう。美大の頃からデッサンとかパースとか苦手なんですよ。……あっそうそう、証拠写真も撮っておかないと」
そう言うと、彼女はスマホを持って俺の隣に座ってきた。
急に近くに来られると心臓に悪い。くそっ、こんなクソ漫画家にドギマギさせられるなんて……。
「どうしたんですか、ゴブリンに捕まった女騎士みたいな顔をして。別に顔は撮りませんよ。私だって顔出しなんてしたくないですし」
以前なら、「テメーの顔なんざ誰も興味ねーよ、自意識過剰な藻女が」とか思っていただろうが――
(確かに、これだけ可愛けりゃなぁ……変な男とかいくらでも寄ってくるだろうし)
どこぞのお嬢様みたいな名前と容姿を持ちながら、なぜ描くのがよりによってあんなクソ漫画なのか。
「あ、ちょうどいいからそのまま描いててください」
そう言って彼女は、シャーペンを握った俺の手の、スケッチブックを挟んだ反対側に自分の右手を添え、スマホカメラのシャッターを切った。
「うん、いい感じ。これとあと鍋の写真を撮っておけば、アリバイとしてはじゅうぶんですね」
そう言いながら、撮った画像を俺に見せる。
確かに顔は写っていないが、お互いの手だけというのが、かえってリアルで生々しくて、何かいけないことをしているような気分になる。
やがて運ばれてきたタピオカミルクティー鍋にひとしきりツッコミを入れたり、意外な風味を楽しんだりしたあと、彼女がまた少し真面目な調子で切り出してきた。
「そう言えば、刹那先生の漫画も、もう何回か書籍化されてますよね」
「ああ、おかげさまで」
「宣伝ツイートが正直うざかったですけど」
「しょうがないだろ、みんなが一日中Twitterに張り付いてるわけじゃないんだから」
「私だって文句ぐらい言う権利ありますよ。購入した読者なんですし」
「買った? 嘘だろ」
すると彼女はスマホを指でちょいちょいと捜査すると、表示された表紙絵を俺に見せてきた。
「ほら、こないだ電子書籍で買いましたよ。ちょうどセールだったんで」
そういう余計なことは言わなくていい。『B○○K○FFで買いました』よりマシだけど。
「……表紙で止まってるってことは、買っただけで読んでないだろ、それ」
「だってTwitterでぜんぶ読んだことあるやつだし……」
こいつ……原稿料が出るわけでもないオマケページや描きおろしに俺がどれほど労力をかけたと……。
「で、そのときサイン会なんかもやってましたよね? 私は行きませんでしたけど」
そりゃそうだ。もし来てたら俺の顔をおぼえてるだろうし……俺だって、こんな可愛い読者が来てくれたなら忘れるはずがない。
「――私も、自分の本が出るときに、やったらどうかって言われてて」
思わず箸を止めて考え込んでしまう。
赤の他人として考えれば、これだけの容姿を売上や話題作りに利用しない手はない。
でもそれは、本人にとっては大きなリスクを伴うだろう。
「それはイヤだなって思う私が、子供なんでしょうね。それで読者が喜んでくれるならやるべきなんだろうし、作者も含めて作品で、それはどうしたって切り離せるものじゃないのに」
『ちくわぶ太郎』のあのクソ漫画と、今こうして真剣な表情で思い悩んでいる姿さえ絵になる彼女……。
……うん、なんだかそれは切り離したほうがいいような気もしてきたぞ?
「まぁ、俺なんかが言うのも何だけど……作者である自分も作品の一部だっていうなら、自分がやりたいようにやればいいんじゃないかな。誰に何を言われたってさ」
そう言うと、彼女は黙ってうなずいて、タピオカをすくったレンゲを口に運んだ。
* * *
帰りの電車は、先に彼女の最寄り駅に着く。
「それじゃ、また」
また、の後に続くのが「マンガにしてアップしますね」なのは、自分たちぐらいだろう。
ホームに降り立ってこちらに手を振ろうとした彼女は――発車を告げるブザーと同時に、俺の手をつかんで引っ張った。
「え……?」
勢いでホームに降りてしまった俺の後ろで、電車のドアが閉まる。
騒音が走り去って少し静かになってから、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい、刹那先生。なかなか素直に話す勇気が出なかったので、もう少しだけ時間ください」
「……?」
「最初に先生の漫画にコメント付けたとき……私、ちょっと酔ってて、誰かにかまってほしい気分で。そうしたらTLにちょうど先生の漫画が流れてきて」
彼女にしては珍しく、何か言葉を選びながら、懸命に自分の気持ちを表現しようとしているように見えた。
「あぁ、こんなにも、自分のイタい部分を恥ずかし気もなく曝け出すような漫画を描く人がいるんだって」
……言葉を選んでそれかよ。
「前に偉そうなことを言いましたけど、あれは私に対してでもあるんです。嫌なことは嫌って言う、好きなことを好きにやる、そんな単純で当たり前のことも、フィクションに背中を押してもらわなきゃできなかったりする」
電車が去り、ホームの端にはもう人はいない。
「――私も、刹那先生みたいに、青臭くてこっ恥ずかしい漫画でも堂々と描けるようになりたいです」
だから一言余計なんだが……しかし彼女はあくまで、真剣な告白をするかのように、そう言っているようだった。
「まぁ、そんな気にすることでもないさ。あんたの……桜小路さんの漫画も――」
「私の漫画も?」
彼女は顔を上げて、何かを期待するような瞳で、じっと俺の顔を見つめる。
女性経験のなさを馬鹿にされた俺でもわかる。
彼女はきっと、可愛いとかキレイとか言われるより、自分の漫画が面白いと言われるほうが嬉しいのだろう。
そう言えば、彼女が心から楽しそうに笑った顔を、まだ一度も見ていない気がする。
もし彼女の漫画を褒めてあげたら、彼女はどんな表情をするだろう。
恥ずかしそうに照れるのか、嬉しそうに満面の笑みを浮かべるのか。
きっとその表情は、とても魅力的だろう。
――だが、それだけは言ってやるもんか。
「『ちくわぶ太郎』の漫画も、じゅうぶん恥ずかしいクソ漫画だろ」
彼女は少しがっかりしたように目をそらした。……ついでに小さく舌打ちしたような気もしたが。
「それじゃあ、またアリバイ作りに付き合ってくださいね。私と仲がいい設定の刹那先生」
* * *
翌朝、PCを立ち上げると、『ちくわぶ太郎』から無言で原稿データが送りつけられていた。
相変わらず早いな、と思いながら目を通す。
『あいつチョロいから、真面目な顔で相談があるとか言うとホイホイ出てくる』『これからもこの手で色々とおごってもらおうっと♪』『あと、帰り際に降りる駅を間違えて取り残されてた。ウケるwww』
「……やりたいようにやりやがって、あのクソ漫画家ァ……!!」
さっそく俺は、お返しの原稿のネームに取り掛かるのだった。
(つづく)