読み終えたあとも、じっと手紙を見つめていた。
 何度も、何度も読み返してしまった。
 その度に、思い知らされる。
 唇をきつく締めて、喉にぐっと力を込めて、溢れそうになるものをむりやり抑え込む。
 たぶん僕は心のどこかで、菫さんはまだどこかで生きているんじゃないかって、思いたかったのかもしれない。
 思っていたよりも低くかった、アルトの声も。
 せっけんみたいな、いつまでも嗅いでいたくなる香りも。
 とても柔らかい、真っ白な肌も。
 絹のように、艶やかでさらさらな黒髪も。
 景色をさらに美しくして映し出す、水晶のように透き通った黒い瞳も。
 花がゆらゆらとそよいでいるような、あの微笑みも。
 これから先、一生、触れることはできない。
 そう、突き付けられていた。
 空を見上げると、灰色のキャンパスに、ぼんやりと菫さんの笑顔が浮かんだ。
 ゆっくり、瞼を下ろす。
 菫さんは、今、あそこにいるのかもしれない。
 だったら、教えてほしい。
 菫さんがいない今、僕はなにを撮れば良いんだろうか。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
 ペトリコールの香りが、すうっと鼻を抜けていく。
 もうそろそろ、雨が降るらしい。
 散歩するためだけにわざわざ傘なんて持ってきていないから、僕たちは火葬場に戻ることにした。
 そういえば、彼女は雨が嫌いだった。
 だけど僕にとっては、特別な天気にもなっていた。
 ペトリコールの香りを嗅げば、雨を見れば、彼女のことを思い出すことができる。
 でもそれといっしょに、思うことがあった。
 夕方を見たって、夏になったって、花を愛でたって、どんな時でも彼女との思い出に触れることになるんじゃないだろうか。
 もしかしたら、なんだって良いのかもしれない。
 いつだったか、フミさんが亡くなった夫のことを、とこ花と言っていた。
 あのあと、僕は意味を調べていた。
 「いつまでも散らずにいる花」を、とこ花と呼ぶらしい。
 今なら、フミさんの気持ちがよく分かる気がした。
 どんなものを感じたとしても、きっと彼女のことを思い出してしまうだろうから。
 心の片隅になんて彼女を置けるとは、とうてい思えない。
 だから菫さんのお願いは、もうすでに、叶えられそうになかった。
 ぽつりと、何かが頭に落ちた気がした。
 もう雨が降り始めてきて、僕たちは駆け足で向かう。
 けど、僕は転びそうになってしまう。
 なぜかアスファルトのど真ん中に、すみれの花が咲いていた。
 その拍子に、手に持っていた袋を落としてしまった。
 中から、二つのものが飛び出ていた。
 手紙と、さっきの写真がひっくり返っていた。
 拾い上げると、おもわず顔を近づけてしまった。
 なにか、文字が書いてある。
 そして僕は固まって、目を見開いてしまった。
 気づけば、だんだんと雨脚は強くなって、まるでカーテンみたいだった。
 雨水で服が重りを背負ったみたいに重くなってきて、寒くなってきて、このままだと風を引きそうだった。
 それでも僕は身動きを取ることができなかった。
 ひざから、崩れ落ちてしまう。
 写真の裏には、手紙の続きが書かれていた。