「菫さん、自分がどんな状況か分かってるんですか?」
 口を丸くしてから、菫さんはなにかを言おうとした。でも、ゆっくりと口を閉ざして目を手元に落とす。
 こんなこと、言うつもりなんてなかった。
 それでも、止まってはくれなかった。
「菫さんは、いなくなっちゃうんですか?」
 彼女は、困ったように眉を垂れさせる。
「まだ、いなくならないよ?」
 僕の手を握った。
 暖かくて、柔らかくて、愛おしくて、張り裂けそうでたまらない。
 その手を、胸の中で抱きしめる。
「でも、すぐ、じゃないですか。もう、梅雨に、なっちゃったんです」
 鼻が詰まっているからか、声がうまく出ない。
「でもね、もしかしたら夏かもしれないし、冬かもしれないし、一年後の梅雨かもしれないよ?」
 菫さんは微笑みながら、もう片方の手で、頭を優しく撫でてくれた。
 花畑の上で眠っているみたいに、とても心が安らぐ。
 そのはずなのに、視界がいっそうブレて、嗚咽が激しくなっていく。
 ますます、積み重ねてきた隠し事が崩れ落ちていく。
「もう、嫌なんですよ。菫さんがいなくなることを、考えなきゃいけない、今が」
 僕は布団を引き剥がし、壁を殴りつける。手の甲が濡れて、ヒリヒリしていた。何度も何度もくりかえして、気づけば手の甲に痛みを感じなくなってくる。
 すると、目の前が真っ暗になった。
 とても柔らかくて、好きな匂いに包まれて、僕の体よりもずっとずっと暖かくて。
 熱があるだけの僕なんかより、菫さんのほうが比べものにならないくらい辛いはずなのに。
 叫びたいのは、彼女のはずなのに。
 僕に触れているところは、どこもかしこも優しかった。
「どうして、いなくなっちゃうんですか」
 胸の中で声を籠らせる。
 菫さんは、繰り返し頭を撫でてくれた。
「ごめんね」
「菫さん、僕の前からいなくならないでください」
「うん」
「ずっと、いっしょにいたいです」
「うん」
「家事も、仕事も、ぜんぶ僕がしますから」
「螢くんなら、できちゃいそうだね」
 ふふっと笑って、僕の頬に触れて、頬をすり寄せた。
 菫さんの肌に、吐息に、熱に、心を揺さぶられる。
 首筋まで、涙が流れていく。
 嗚咽が、溢れ出てくる。
 好きだなって、何回だって思ってしまう。
 会ったときから、今も、きっとこれからも。
「菫さん、大好きです。僕だけの花に、なってくれませんか?」
 好きが花開いて、積っていくんだろう。
 菫さんの肩が強張るのを感じた。
 腕の力が抜けたかと思えば、今までないくらいの力で抱きしめてくる。
 僕は彼女を抱き寄せて、ベッドの中にまで引き込む。
 横に並んで、傍から見たら恋人のように、すき間を埋めるように抱き合う。
 そして彼女は、囁くように言った。
「ありがと」
 たった、それだけだった。
 まるで軽やかに風を受け流す、一凛の花のようだった。
 でも、しょうがないとも思った。
 伝えられただけで、十分なのかもしれない。
 そう、頭の中で繰り返して、納得させたはずなのに。
 大声を出して、泣いてしまった。
 嘘だった。
 ぜんぜん、良くなんかない。
 本当は、好きだと言ってほしかった。
 ずっといっしょにいたいと、言ってほしかった。
 好きで、好きで、大好きだ。
 僕はずっと泣いていて、菫さんはいつまでも抱きしめていてくれた。
 いつまでも、こうしていたかった。
 でもいつの間にか、僕は泣き疲れて眠ってしまった。
 その瞬間、聞き間違いかもしれないけど。
 ごめんね、と言っていた気がした。
 枯れてしまった花びらのような、とても掠れた声だった。