「螢くん」
 僕のことを呼ぶ声が聞こえてくる。
 母さんだろうか。
 でもそれにしては濁ったような声ではなくて、純水のように透き通った、きれいなアルトの声だった。
 それに僕の部屋では感じられない、石鹸のような香りがする。
 瞼を開ければ、真っ白なワンピースにかかる長い黒髪と、僕よりも一回りも小さい顔が見えた。ほんのり赤みがかった白い肌に、くりっとした大きな瞳が二つ浮かんでいた。
 僕が映り込んでしまうくらい、まっさらな瞳だった。
 おもわず、飛びのいてしまった。
 幻でも、見ているんだろうか。
 それとも、まだ夢の中なのだろうか。
 僕の目の前にいたのは、まぎれもなく菫さんだったからだ。
「螢くん、大丈夫?」
「いや、だいぶおかしいかもしれないです」
 頬をつねって、ついでにビンタしてから言うと、「これなら大丈夫そうだね」とくすくす声を漏らしていた。
 花咲くような笑顔と、頬の痛みで、菫さんだと確信した。
 体を起こしてみる。まだ体はだるいけど、ぼうっとする感じは少しマシになっていた。菫さんと会えたからだろうか。そうだとしたら、菫さんはもう僕にとっては天使なのかもしれない。いや、実際もう天使であることは間違いないんだけど。
 いや、今はそんなことどうだって良い。
「どうして、ここにいるんですか?」
「それは、心配だったからだよ。螢くんなら、這いつくばってでも会いに来そうだからね」
 僕の頭をポンポンとしてから、そっと頬に触れた。ちょっとひんやりとしていて、気持ち良かった。
 否定はできなくて口を閉ざしてしまうと、菫さんは僕の手を握りながら、どうやって来たか話してくれた。
 どうやら、輝さんに車で送ってもらったらしい。
 よく首を縦に振ってくれたものだと思った。最初は反対されていたらしいけど、菫さんが日にちを跨いでまで、どうにかこうにか説得したらしい。
 僕はつい、笑ってしまった。
 けどそれはほんの一瞬で、服に皺ができるくらい胸を握ってしまう。
 ずきずきと、内側が痛んだ。
 菫さんの顔を見ることができなくて、いつまでも彼女の足元に目を凝らしてしまう。きれいで、人形みたいに細い足だった。
 こんなに細い足で来てもらったんだと思うと、とても情けなかった。
 彼女はもうあまり動けなくて、それでも無理をしちゃう人だって、一年を通して知ったはずなのに、ここまで来させてしまって。
 本当になにをやっているんだろう、僕は。
 唇を噛みしめてしまう。湯が沸くみたいに体が熱くなって、頭がぼんやりとして、視界がぼやけていく。
 頬になにかが伝って、気づけば。
「菫さん、帰ったほうが良いんじゃないですか?」
 そんなことを口にしていた。「どうして?」と菫さんは首を傾げていて、僕もはっとなって口元を押さえてしまう。
 なにを言っているんだろう。
 僕のために来てくれたのに、失礼にもほどがある。
 そんなことは、分かっているんだと思う。
 だけどぼうっとして、ぜんぜん頭が回らなくて、片隅に浮かんでいるちょっとした嫌なところが、いように大きくなっていた。
 上っ面の僕が、外に追いやられていく。