満開だった桜の面影はもう、あまり残っていない。
 雨が降ってしまったせいだった。桜の花と葉が散りぢりになって、しんなりしていて、アスファルトにたくさん寝そべっている。
 大学の授業が終わって外に出てみると、曇り空から薄っすらと夕日が差していた。暖かくなってきて、ジャケット一枚を羽織るだけでちょうど良いくらい。
 蓮と待ち合わせをしていて、入り口で待っていると、数分して「お待たせ」と時間ぴったりに来た。
 大学の大通りには桜の木があって、僕たちはその真ん中を歩いていた。新入生がサークルの勧誘を受けていて、そんな時期もあったな、と誘いを全て断った僕は思った。
 蓮は新入生なんかに目も呉れず、じっと桜に目を凝らしていた。
「今年の桜は、短かったな」
「まあ雨だったし、しょうがないね」
 桜をしり目に歩いていると、「そうだ」と急に蓮は振り向いてきて、僕は立ち止まってしまった。
「桜餅、買ってこうぜ」
「どうして?」
 首を傾げてしまうと、蓮は小さく笑みを浮かべ、緑が生え始めている桜の木に目を据えた。
「母さん、桜餅好きだから、春にはいつも買ってってんだよ」
「そっか。でも、食べすぎは良くないよ」
「なんで?」
 僕は桜の木の下まで行ってしゃがみ、桜の葉を拾って蓮に渡した。
「桜の葉にはクマリン、っていう毒があるからね」
「マジかよ」
 慌てたように投げ捨てていて、僕はつい噴き出してしまう。鋭い目つきでこっちを見てきて、僕は咳払いをして桜の木の下に指をさした。
「本当だよ。ほら、桜の木の下にはあまり雑草が生えてないでしょ? それも、クマリンっていう毒のせいなんだよ。でも触っても大丈夫だし、桜餅も食べ過ぎなきゃ大丈夫だから」
「螢って、無駄なこと詳しいよな」
「一言余計だよ」
 そう文句を言えば、蓮はからからと笑う。僕もつられて笑ってしまうけど、口下がうまく上がってくれなかった。少し、ぎこちなくなっている気がした。
 それは、一つの懸念があったから。
「念のため、菫さんには食べさせないようにね」
「まあ、そうだな。念のためにな」
 蓮は桜の木に目を澄まし、襟足をいじる。でもすぐにまたおおげさに笑って、あいかわらず太陽みたいなやつだと思った。
「今日も、来るだろ?」
「……うん、菫さんに会いにね」
 少し間が開いてしまうけど、なんとか頷いて笑みを浮かべることができた。それを見て蓮はいっそう唇の端を上げて、先を歩いていく。僕はほっとしたい気持ちを心の内に潜ませ、あとを追いかけた。
 南寄りの風が、頬を掠めていく。花の香りがどの季節よりも強くて、町の色もそこはかとなく明るくなっている気がする。
 春は始まりみたいな、そんな風潮がある。
 始めたり、変われたり、なにかときっかけにしやすい、そんな季節。
 だから、春を待ち望んでいる人は多いのかもしれない。
 でも今の僕には、大学三年生になったことも、成人したことも、どうでも良いような気がした。
 春と夏の間には、梅雨が待っている。
 春一番が僕の中に吹き抜けて、隠そうとしているものをぶり返してくる。
 左右に首を振って、まだ大丈夫だと、そう心で繰り返す。
 夏の思い出も、きっと映せる。
 梅雨で、終わったりなんかしない。
 レンズ越しで見ている僕には、とてもそんなふうに思えないから。