かすかに、塩の香りがする。
 窓から張りつくような湿った風が吹き込んで、覗き込めば、真っ白な砂浜が細かく光っていた。先の見えない広大な海が、すぐそこにはあった。
 写真を撮ったら、どんなふうに映るんだろうか。
 そんなふうに思い浮かべてみるけど、僕が手に持っているのは、一眼レフカメラでもなく、ミラーレスカメラでもなく。
 プラスチック製のトランプ、ジョーカーだった。
「はーい、私の勝ち」
「菫さん、強すぎじゃないですか?」
「入院中死ぬほどやったからね。今はもう負ける気がしないよ」
 僕、嶋野螢が少し項垂れていると、菫さんはこっちを見ながらにやにやしていた。僕は小さく息を吐き出し、トランプをかき集めてシャッフルすると、彼女は両手で頬杖をついた。
「まだやるの?」
「やります、勝つまで」
 ふふっと噴き出す声がしたけど、聞こえないふりをした。
 新年を迎えた後の冬休み中、約束通り僕たちは旅行に来ていた。
 泊まっているのは海の近くのホテル。
 なのに僕たちは、部屋の中でトランプをやっていた。
 寝る前でも良いんじゃないか、とは言ったんだけど、菫さんは今したいらしい。ずっとババ抜きをやっていた。でもけっきょく一回も勝てないまま、海を見に行くことになった。
「あ、ちょっと待って」
 菫さんはポーチを手に持って、お手洗いに行った。
 紫色の花柄のポーチで、彼女にピッタリのだと思った。
 おそらく、化粧直しだろう。
 数分したら戻ってきて、僕たちは部屋を後にした。エレベーターに乗って一階に降りると、若い女性二人とすれ違った。そのとき「カップルかな。めっちゃ美人だよね」という声が微かに耳に入った。
 となりでくすりと笑う声が、しっかり聞こえてきた。
「私たち、カップルに見えるんだね」
「まあ、男女でいればだいたいそうなんじゃないですか?」
「ふーん」
「なんですか?」
 横目でじっと見てきて、つい聞いてしまう。菫さんは自分の頬に指を刺した。
 顔、赤くなってるんだろうか。
 とっさに頬を押さえて、ぺたぺたと触ってしまう。すると彼女はまた声を出して笑った。少し睨みつけてしまうけど、僕はすぐにやめていた。
 なぜか彼女が、枯れ葉が落ちるのを眺めているときみたいに、眉を顰めて笑っていたから。
「でも、なんか不思議」
「そうですか?」
 首を傾げて聞くと、菫さんは体を強張らせてゆっくりと僕のほうに向いて、左右に首を振った。
「ただ、なんとなく思っただけ」
 菫さんはにこりと微笑み、「今日は一段と寒いね」と話しかけてきた。話題を変えられてしまって、掘り返すこともできなかった。
 なんだか、違和感があった。
 でもこういうことは、たまにある気がする。
 とても悲しそうに笑ってから、僕を見て優しく笑う。
 僕はその度に、少し心がざわついてしまう。
 その表情はまるでなにかを悟ったみたいに弱々しくて、今すぐにでも壊れてしまうんじゃないかって、すごく心配になる。
 僕に、なにかできることはないだろうか。
 そんなことばかり、このごろずっと考えている。
 菫さんにはいつだって、幸せそうに笑っていてほしいから。