部屋で待ってもらい、お茶を持っていく。お礼を言って螢くんは一口飲んで、息を吐くと、コップに視線を落としたまま口を開いた。
「菫さんって、海、好きですか?」
「えっ、うん、まあ、どちらかというと」
 とうとつな質問に、つい口ごもってしまう。
「冬の海って良くないですか? 空気がぼやけて、夏よりぜったいきれいですよ」
「どうしたの、螢くん?」
 窓の外を見据えながら淡々と言ってきて、おもわず螢くんの肩を揺らしてしまった。すると螢くんは頬を掻き、私の目を見つめる。
 まるで、カメラを覗いているときみたい真剣な眼差しだった。
「いっしょに、海に行きたくないですか? それも、泊りがけで」
 固まって、「えっ」と声を漏らしてしまった。
 いったい、なにを言っているんだろう。
 たしかに行きたいけど、それを私に行ったところで意味なんてない。そういうのは、きっと他の人と行ったほうが楽しいに決まっている。
 そうだ、蓮を誘えば良いんだよ。
 それを伝えようとするけど、すっと、私にスマホを見せてくる。
 ホテルのホームページが映っていて、そこには海が一望できるホテルの一室の画像があった。
 でも、どんな表情をしたら良いか分からなくて、顔を上げる。
 そこには夕焼け色に頬を染めた、少し照れたような笑みが待っていた。
「菫さん、今度、旅行に行きませんか?」
 空いた口が塞がらなかった。下を向いて、胸にかかる髪の毛先をいじっていた。きゅっと、きつく掴んでしまう。
 旅行、私が?
 そんなの、無理に決まっている。
 たった数時間しか起きていられない私に、そんな大掛かりなことができるはずがないのに。
 どう答えたら良いのか分からなくて、いつまで経っても下を向いていると、螢くんは私の肩を優しく叩いた。
「大丈夫です、考えはあります」
 螢くんはスマホをすらすらと操作していく。目配せを織り交ぜながら、丁寧に話してくれた。表情を汲み取ったのか、それとも元々準備していたのか、螢くんにしては珍しく余裕のある行動だった。
 関東県内に絞って、穴場スポットを調べてくれていた。移動にあまり時間を取られないためにも、そうしたらしい。
 写真越しでも底が見えるくらい、透き通った青い海だった。水平線が、きらきらと星屑みたいに眩しかった。
 じっさいに見たら、どれだけきれいなんだろう。
 今はもう薄っすらとしか覚えていない、潮風や冷たい海を思い浮かべて、つい、子どもみたいに期待を膨らませてしまう。
 けどそれといっしょに、とうとつな眠気が襲ってくる。瞼が落ちそうになるのを、ぐっと堪える。螢くんがいる前で、眠るわけにはいかない。
 それでも私の中に流れている毒が、つたで締めつけるようにゆっくりと体の自由を奪っていく。
 まるで、現実を突きつけてくるようだった。
 左右に首を振り、私はどうにか笑顔を作ってスマホを押し返した。
「私にはむりだよ。じっと、花びらが散るのを待つしかないんだよ」
 そっと、瞼を落とした。目のふちが熱くなってきて、零れ落ちてしまいそうだったから。
 それと自分自身、なにを言っているのか分からなくなっていた。いつも通り、それとなく受け流してしまえば良いだけだった。行けたら良いね、ってこの先があるみたいに誤魔化せば丸く収まるんだから。
 こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。
 眠くて仕方がなくて、頭があまり回ってくれない。
 ぜんぶ、ぜんぶ、植物病のせいだ。
 どうして、私なんだろう。
 でもそれを含めて、今の私だった。
 十年ほど経った今、それをどうこう言うつもりなんてない。