どうして、こんなことをしたんだろう。
 彼女の手を握り返すなんて、前だったら想像もできないことを、僕はしていた。笑っているけど、これが本当に正解なのかは、全く分からない。
 でも、菫さんが笑顔に戻っているなら、それだけで良い気がしてくる。
 となりを見ると、菫さんは子どもっぽく笑っていて、まるでふわふわと浮かんでいる、タンポポの綿毛みたいだった。
 こんなふうにも笑うのか、菫さんって。
 いつまでも見ていたくて、この先もずっと笑っていてほしい。
 どうしてかは分からないけど、笑顔じゃないと胸が締め付けられるみたいに苦しくなっていく。
 おもわずぎゅっと力強く抱きしめたくなるような、そんな感覚。
 でも、そんなことはなんだって良いのかもしれない。
「僕は、嫌です」
 体を正面に向けて、カメラを握った。
 まっすぐ菫さんの瞳を見つめていると、彼女は目を丸くしてから笑みを浮かべた。
「そっか。じゃあ、もうお別れだね」
「それも、僕は嫌です」
 左右に首を振れば、また菫さんはきょとんとした。
 すると、瞼が下がってしまうくらい強い風が吹く。本格的に冬が迫ってきていて、じゃっかん肌も痛くなるくらい冷たい。
 となりで菫さんが、体を震わせていた。
 余った手が赤くなっていて、とても冷たそう。
 その手も握れば、菫さんはまた手を震わせ、僕のほうを見上げた。
 最初は開いたり閉じたりして迷子みたいになっていたけど、しっかりと握り返してくれて、ボクもまた握り返す。
 僕はそこに目を落として、想いを言葉にした。
「僕は今までより、もっと、菫さんのことを知りたいです。このフォルダに、もっと菫さんでいっぱいにしたいです」
 菫さんは目を丸くしてから、すっと視線を手元に向けて、瞼を落とす。風で、彼女の髪が横になびいていた。
 すぐには答えず、菫さんはじっとしていた。
 僕は片方の手だけを離し、じっと空を見つめていた。
 だけど、どんな空なのかはぜんぜん頭には入って来ない。
 視線だけは、ずっと菫さんに向いていた。
『僕は、哀川さんを撮ってみたいです』
 初めて会った日は、たしか僕はそんなようなことを言っていた気がする。あのころは苗字で呼んでいたのかと、たった数か月前のことなのに懐かしく感じていた。
 思えば、なにも変わっていないのかもしれない。
 あのころも、今も、
 首を縦に振ってくれるだろうか。そんなふうに思って、カメラに目を凝らしていると、彼女はゆっくりとこっちを向いた。
 僕も、菫さんの瞳を見つめた。
「約束してほしいことが、あるの」
 変な間があって、息を吞んでしまう。
「なんですか?」
 菫さんは僕の抱いているカメラをそっと撫でてから、僕の瞳を見据えた。
 ブルーモーメントが反射して、ゆらゆらと揺れていて、まるで深い海の中にでもいるようだった。
 とても細い体のはずなのに、とても重い意思がこもっているような気がした。
「写真を撮ることだけは、やめないで。私が枯れてしまっても、ずっと、撮り続けて」
 目の奥を覗いてくるような、そんな視線だった。僕は少し固まってしまいながらも、しっかりと頷いた。
 写真をやめることなんて、想像もできない。
 だからこそ、どうしてそんなことを言ってくるのかは、僕には分からなかった。
 趣味は、大切にしろということだろうか。
 とにもかくにも、それさえ守れば、菫さんといられる。
 それならもう、十分に思えた。