そのフィルムを持っている白いニットの袖が濡れて、まだら模様になっていく。
「もっと撮っていれば、ねぇ」
 フミさんは息を吐くように言葉を零し、袖で目元を拭う。「年を取るとどうもいけないねぇ」、と微笑んでこっちを見た。僕も、なんとか唇の端を上げる。
「あの人が嫌がるだろうからって、言えなかった。それに、こんなふうに思うなんて、あのころは考えてもいなかったからねぇ」
 とたんに、真っ直ぐな目つきになって、僕は肩を強張らせてしまう。
 どうしてだろう、心がズキズキと痛む。
 まるで、自分のことみたいに。
「どうしたいのかしっかりと伝えることも、とても大切なの。自分のためにも、相手のためにもねぇ」
 フミさんは僕の手を強く、二回だけ握って、そっと離した。すんなりと言葉が馴染んできて、心の中に直で触れてくるみたいだった。
 離れてもしばらく、手はほんのりと暖かかった。
 それからの僕は、とにかく笑顔だったと思う。
 撮影を終えて、フミさんが作ってくれた煮物や焼き魚を食べながら、いろいろ話した。最近寒くなってきたとか、お孫さんのこととか。どういう話しをしたのかは、うっすらとだけ覚えている。
 でも、中身のことまではあまり思い出せない。
 なんだろう、そのときだけ夢にふけっていたみたいだった。
 食べ終えて、そろそろ良い時間だから帰ることを告げ、玄関に向かう。靴を履こうとすると、フミさんが靴ベラを刺してくれた。僕は履き終えて、振り返った。
 でも、頬を掻いて立ち尽くしてしまう。唇を糸で縫われてしまったみたいに、うまく口が開いてくれない。
 思い立ったのは良いものの、こんなことを聞くべきではないような気もしてきた。そんなふうに俯いていると、フミさんに肩を叩かれた。
 顔を上げれば、いつもの優しいフミさんの笑顔が待っていた。
「良いから、言ってごらん?」
 体の重りが、すっと抜け落ちていく。強張っていた唇を、何事もなかったかのように開くことができて。
 今の僕は、自然と笑えているのかもしれない。
「昔に戻れたら、フミさんは健一さんに写真を撮りたいと伝えますか?」
 最後に、どうしても聞いておきたかった。
 フミさんは目を丸くしてから、徐に目を細めて頷く。僕は頬を掻いて、また聞いた。
「断られたら、どうするんですか?」
「それなら、それで良いのよ」
「写真、撮れないのにですか?」
「それでも、あの人が本当に写真を撮りたくなかったことを、知ることができるじゃない」
 そう言ってフミさんは笑うけど、僕は目線を靴に落としてしまった。
 だったら知らないほうが、傷つかずに済むんじゃないだろうか。
 すると、フミさんの手が目の前に出てきた。
 そこにあったのは、いつもくれるチョコレートだった。
 お礼を言って受けてれば、フミさんは僕の肩を叩いて、瞳を見据えてきた。僕もおもわず、見つめ返してしまう。
「あの人がどうしたいかが、わたしにとっては一番大切なことだから」
 フミさんの瞼を細めて笑っていて、温かくて、真っ直ぐな瞳だった。本当にそう思っていることが、見えないなにかを通じて、僕に教えてくれるような気がした。
 僕はとっさに手を後ろに隠した。拳に力が入るのを感じていたから。大して隠すようなことではないんだとは思うけど、たぶん、男としての意地のようなものなのかもしれない。
 でも、思った。もしかしたら、そういうのがいけないんじゃないだろうかって。
 もう少し、むき出しになっても良いのかな。