「きれいな夕焼けだね。そうだ、撮らなくて良いの?」
 湿って重くなった風が吹いて、彼女の長い黒髪にふわりと空気が含まれる。
 彼女の髪を伝って僕まで風が届き、石鹸の香りがして。
 そして、より強いペトリコールの香りがした。
 髪を押さえて、彼女は空を見上げながら微笑んでいた。
 けど僕の視線は、いつまでも彼女の瞳に注がれていた。
 きれいな夕焼けよりも、もっと撮りたいものが、今の僕には生まれていたからだろうか。
「僕は、哀川さんを撮ってみたいです」
 彼女は目を丸くしてから唇の片端を上げる。
「ふーん」とだけ言って、後はなにも言ってくれなかった。
 僕はハッとなって、そっぽを向いてしまった。カメラに目を落として、ディスプレイに映る自分の姿を眺めていた。モノクロでも、顔がちょっと赤いのがなんとなく分かってしまう。
 まるで、口説き文句じゃないか。
 どうして、こんなこと言ってしまったんだろう。
 彼女は、ふふっと笑っていた。
 冗談だと思ってくれたんだろうか。それとも、気持ち悪すぎて引かれたんだろうか。変な汗が止まらなかった。
 彼女は立ち上がったけど、僕は影をずっと追うことしかできなかった。一歩一歩、踏みしめるように近づいてくる。雨が止んだからか、カウントダウンのように、砂が擦すれる音がやけに大きく聞こえてくる。
「良いよ」
 おもわず「えっ」と声が漏れてしまう。僕はとっさに顔を上げると、彼女は笑顔で首を縦に振った。それでも、首を傾げずにはいられなかった。
「本当に、良いんですか?」
 ついつい聞き返してしまうけど、彼女は嫌がらずに笑みのままもう一度頷いてくれた。
 僕はほっと一息を吐いて、空を仰いでしまった。
 正直、今は嬉しさより、安心のほうが大きかった。
 本当に、これから彼女を撮れるんだ。
 そんなふうに徐々に実感してくると、顔が緩んでいってしまって、ついガッツポーズを決めてしまった。ふふっと笑い声が聞えてきて、顔が熱くなって、すぐに手を引っ込めていた。
「でも、今日はだめ。私、もう帰らなきゃいけないの」
「そうですか」
 じゃっかん目を落としてしまうと、彼女はまたふふっと小さく笑みを零した。
「でも、明日なら良いよ。会えるのは、夕方だけ。それと、水曜日と土、日曜日は用事があるから、会えないからね」
「はい。ぜんぜん大丈夫です」
 僕は顔を上げてすぐさま頷くと、彼女は微笑む。
「螢くんって、ほんとに素直だね」
 彼女はいっそう大きく笑った。顔が熱くなるのを感じて、おもわず目を逸らしてしまった。
 からかわれっぱなしなのも嫌で、彼女のほうをしっかりと見る。いつの間にか彼女は、優しく目元を細めていた。
「でもね、良いことだと思うよ」
「そう、ですか?」
 僕は言葉を詰まらせてしまいながら、首を傾げていた。すぐに顔に出て、嘘がバレやすいだけなのに、なんの良さがあるんだろうか。
「まあ、まだ分かんないよね」
 空気に溶け込んでしまいそうな声で呟くけど。
「帰ろっか」とスイッチを切り替えるみたいに花笑みで言った。
 身支度をしている彼女には、声をかけて言い雰囲気は少しもなくて、おとなしく僕も帰る準備を進めた。
 けど、一つだけ思ったことがあった。
 迷ったけど、帰る直前に声をかける。