「ペトリコールって、知ってる?」
おもわず、首を傾げてしまう。
そんな言葉、聞いたことがなかった。
それに、どうしてそんなことを突然言ったんだろう。
彼女は得意気に唇の端を上げて、意味を教えてくれた。
ギリシャ語で、石のエッセンス。
雨の匂いを差す言葉らしい。
僕は目を閉じて、空気をめいっぱい吸い込んでみた。じんわりと、雨の世界が胸の中で目一杯広がっていく。
これが、ペトリコールか。
石の地面に打ち付ける雨を見下ろしてから、なぞるように空を見上げる。つい、笑みが零れてしまう。
どんよりとして薄暗いはずなのに、とても輝いて見えて。
まるで、新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいな、そんな気分だった。
「雨、好き?」
ゆっくりな口調で、雨、という言葉を強く表すように言う、僕は変な間を作ってしまってから頷いていた。
素直に、好きです、と言葉にするのがなんだか嫌な気がした。
「どうして、雨、好きなの?」
「雨の音や匂い、景色って、なんだか落ち着かないですか? それに、雨が降るだけで、同じ景色でもぜんぜん違うふうに見えて、写真を撮るのが、もっと楽しくなるんです」
言い終えて一息つくと、彼女が目を丸くしているのが見えて、口元を手で押さえていた。
熱くなって語りすぎた。
もしかしたら、引かれてしまったかもしれない。
雨漏りするみたいに、少しずつ僕の不安を煽っていく。
けど彼女は、「そっかそっか」と感心するように首を縦に振っていた。どうやらよけいな心配だったようで、心の中でほっと一安心していた。
けど彼女の一言に、僕の心はまた乱される。
「私はね、雨、嫌いかな」
彼女はこっちに振り向くと、花が咲くようにそっと笑った。
僕はおもわず固まって、ぽかんと口を半開きにしてしまった。
たしかに、嫌いと言っていた。
だったらなんで、好きかどうか聞いてきたんだろう。
ペトリコールという言葉を、知っているんだろう。
どうして、笑うんだろう。
それが表情に出てしまっていたのか、彼女は困ったように眉を顰めた。
けど、口元の笑みは崩さなかった。
「梅雨には、菫の花は、散っちゃうからね」
彼女は、また空を見上げた。
強い風が吹くと、彼女の頬に水滴がぶつかった。
まるで、花びらから雨の雫が伝っているみたいだった。
いつの間にか雨は止んで、空は夕焼けになっている。
けれど、僕の心はまったく晴れていなかった
そう言われても、困ってしまう。
はたして、それだけで雨が嫌いになったりするんだろうか。
もっと、違うわけがある気がする。
つい探ってみたくもなるけど、そんな簡単に聞いて良いものなんだろうか、とも悩んでしまう。
彼女の視線を渡って、僕も空を仰いだ。
夕焼けは、普段見ている茜色ではなくて、青と紫が重なったような色に、少しずつ移り変わっていく。
ブルーモーメント、という夕焼けだった。
きれいですね。
そう言おうと思って、となりを向いた。
けど、言えなかった。
もっときれいなものを、今、見つけてしまったから。
レンズ越しじゃないのに、被写界深度が浅くしているみたいに周りがぼやけて、彼女だけがくっきり僕の目には映っていた。
彼女の瞳が、薄っすらと紫がかっていた。
普通なら、こんなにきれいに色が載らないはず。
だけど、彼女の瞳は違くて。
ピアノの音色のように、透き通っているからかな。
景色の良さを引き立たせるような、そんなきれいな瞳だと思った。
おもわず、首を傾げてしまう。
そんな言葉、聞いたことがなかった。
それに、どうしてそんなことを突然言ったんだろう。
彼女は得意気に唇の端を上げて、意味を教えてくれた。
ギリシャ語で、石のエッセンス。
雨の匂いを差す言葉らしい。
僕は目を閉じて、空気をめいっぱい吸い込んでみた。じんわりと、雨の世界が胸の中で目一杯広がっていく。
これが、ペトリコールか。
石の地面に打ち付ける雨を見下ろしてから、なぞるように空を見上げる。つい、笑みが零れてしまう。
どんよりとして薄暗いはずなのに、とても輝いて見えて。
まるで、新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいな、そんな気分だった。
「雨、好き?」
ゆっくりな口調で、雨、という言葉を強く表すように言う、僕は変な間を作ってしまってから頷いていた。
素直に、好きです、と言葉にするのがなんだか嫌な気がした。
「どうして、雨、好きなの?」
「雨の音や匂い、景色って、なんだか落ち着かないですか? それに、雨が降るだけで、同じ景色でもぜんぜん違うふうに見えて、写真を撮るのが、もっと楽しくなるんです」
言い終えて一息つくと、彼女が目を丸くしているのが見えて、口元を手で押さえていた。
熱くなって語りすぎた。
もしかしたら、引かれてしまったかもしれない。
雨漏りするみたいに、少しずつ僕の不安を煽っていく。
けど彼女は、「そっかそっか」と感心するように首を縦に振っていた。どうやらよけいな心配だったようで、心の中でほっと一安心していた。
けど彼女の一言に、僕の心はまた乱される。
「私はね、雨、嫌いかな」
彼女はこっちに振り向くと、花が咲くようにそっと笑った。
僕はおもわず固まって、ぽかんと口を半開きにしてしまった。
たしかに、嫌いと言っていた。
だったらなんで、好きかどうか聞いてきたんだろう。
ペトリコールという言葉を、知っているんだろう。
どうして、笑うんだろう。
それが表情に出てしまっていたのか、彼女は困ったように眉を顰めた。
けど、口元の笑みは崩さなかった。
「梅雨には、菫の花は、散っちゃうからね」
彼女は、また空を見上げた。
強い風が吹くと、彼女の頬に水滴がぶつかった。
まるで、花びらから雨の雫が伝っているみたいだった。
いつの間にか雨は止んで、空は夕焼けになっている。
けれど、僕の心はまったく晴れていなかった
そう言われても、困ってしまう。
はたして、それだけで雨が嫌いになったりするんだろうか。
もっと、違うわけがある気がする。
つい探ってみたくもなるけど、そんな簡単に聞いて良いものなんだろうか、とも悩んでしまう。
彼女の視線を渡って、僕も空を仰いだ。
夕焼けは、普段見ている茜色ではなくて、青と紫が重なったような色に、少しずつ移り変わっていく。
ブルーモーメント、という夕焼けだった。
きれいですね。
そう言おうと思って、となりを向いた。
けど、言えなかった。
もっときれいなものを、今、見つけてしまったから。
レンズ越しじゃないのに、被写界深度が浅くしているみたいに周りがぼやけて、彼女だけがくっきり僕の目には映っていた。
彼女の瞳が、薄っすらと紫がかっていた。
普通なら、こんなにきれいに色が載らないはず。
だけど、彼女の瞳は違くて。
ピアノの音色のように、透き通っているからかな。
景色の良さを引き立たせるような、そんなきれいな瞳だと思った。