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 どこをどう歩いたのか記憶にないけれど、気がつけば私はマンションの前にいた。

 くじら山病院から家までは何度か歩いて帰ったこともあったので、足が道を覚えていたようだった。

 歩くと三十分くらいの道のりだろうか。普段ならばバスを遣う距離だ。思えば、歩いて帰ったのはいつも心が疲れていたときだった。

 例えば、病室のドアに提げられた例の四文字を見た日とか。

 重ねまいとすればするほど、お父さんと鹿島くんとが重なっていく。

 縁起の悪い想像の翼をへし折るためにはどうするか。

 簡単だ。考えることを止めればいい。

 歩き、歩き、歩く。

 そうして家まで歩いてきた。

 しかし目的地のある彷徨は、その場しのぎにしかならない。

 ほら、マンションの前に立った私は、現にまた考え始めている。

 もう、どうでもいいや。

 階段を登り、自宅のドアに鍵を差し込んだ瞬間、勢いよくドアが押し開けられた。

「舞夕ちゃん!」

 飛び出てきたのは、私の名を呼ぶ声と、希帆さんの持ったバスタオルだった。

「もう、びしょびしょじゃない!」

 ふかふかのタオルが、頭に顔に肩にと押し当てられる。

「……希帆さん。痛い」

「我慢しなさい!」

 希帆さんの叱声。そんな声を聞いたのはいつ以来だろう?

 もしかしたら、一度もなかったかもしれない。

「何度も電話したんだよ。見なかった?」

 タオルの隙間から、スマホを見る。希帆さんからの着信が、何度も、何度も記録されていた。

「本当だ。ごめんなさい」

 バスタオルの圧力が弱くなっていく。

「……病院から艶話があったの。受付の方がね、様子がおかしいって気づいてくれて、行洋さんの入院記録から連絡先見つけてくれて」

 同じく、希帆さんの声も弱まっていく。

「でも病院出てどこ行ったかは分からなくて。私も、こういうとき舞夕ちゃんがどこ行くのか、思い、当たらなくて」

 希帆さんの声に、洟をすする音が混じる。

「ごめん、なさい」

「やっぱり、私、舞夕ちゃんの、お母さんじゃ、ないから」

「そんなこと!」

 バスタオルを跳ね除ける。

 希帆さんの目が、赤くなっている。

「今日も、もしかしたら、お母さんの所に帰ったのかなって」

「……希帆さん、知ってたの?」

 無言のまま、希帆さんは首肯した。

 前の母と連絡をとっていること、会っていることは知らせていなかった。気づかれないようにしたはずなのに。希帆さんのいるところで電話には出ていないし、会ったときも支払いは任せたからレシートはもらっていないし、痕跡は……。

「あ。もしかして、名刺見た?」

「名刺? ううん」と、希帆さんは首を振った。

「夏ぐらいから、かな。舞夕ちゃんのお母さんから、何度か電話があったの。『娘を返せ』って」

 瞬間、血が熱くなる。

「あの、クソババア……!」

「私には、止める権利なんてないから」

「そんなことない!」

 呟いた希帆さんがいつになく小さく見えて、私は衝動的に抱きしめた。

 そして気づいた。

 小さく見えたのは、印象でも比喩でもなかった。

 希帆さんは実際小さかった。背は私より低いし、肩幅は狭くて、華奢だった。

 知らなかった。

 それは多分、希帆さんにここまで近づいたことが、なかったから。

 こんなお互いの気持ちがぶつかるような近さまで……。

「ねえ、希帆さん。傷つくようなこと言ってもいい?」

「……何?」

 肩を抱く手に力を入れ、私は希帆さんに告げた。

「私ね、希帆さんのこと『お母さん』って呼べない」

 希帆さんの身体が小さく震える。

「傷ついた?」

「……うん」

「ならよかった」

「うん?」

 希帆さんの声に混乱の色が混じる。

「私ね、希帆さんと家族になりたい。今みたいな距離で、気持ちぶつけて、傷つけ合って……そしたら絆になるんじゃないかって、そう思うの」

 両手で、希帆さんの背中をさする。

「準備だけはできてるの。『お母さん』って呼ぶ準備は。でも自然にそうは思えなくて」

「……舞夕ちゃん、私もね」

 と、掠れた声で希帆さんが切り出した。

「舞夕ちゃんのこと、娘だと思えない。だって出会ったときから、舞夕ちゃんはもう舞夕ちゃんだった」

「うん」

「ていうかね、私、最初は行洋さんのことも夫だと思えなかった。お父さんとまでは言わないけど、自分と対等な人だとは全然思えなくて」

「……じゃあ、いつ変わったの?」

「行洋さんが、その、いなくなって初めて実感したの。ああ、私、未亡人なんだって。これまでは妻だったんだなって。酷いよね、どうしようもなく手遅れで。名前って後からつくんだなって、初めて実感したの」

 お父さんがいなくなったときって。

 もうそのときには覚悟を決めていたのだと思っていた。

 だってお父さんのお葬式のすぐ後には、もう希帆さんは言っていた。

 『舞夕ちゃんが自分の力で生きられるようになるまでは、私が一緒にいます』と。

「だからね、舞夕ちゃん」
 と、希帆さんはそう続けた。

「……うん」

「いつか舞夕ちゃんが今日を思い出して、私のこと『お母さん』だったと思いだしてくれたらいいな」

「……それって、お別れした後ってことよね。一緒にいるのは、私が独りで生きられるようになるまでって。だから私、高校出たら働かないとって。希帆さんがいなくても生きていけるようになって、早く希帆さんを解放しないとって。だって希帆さん、まだ二十代で、まだこの先も、」

「舞夕ちゃん」

 と私の言葉を遮り、希帆さんは身を離した。そして真っ赤な目で笑みを浮かべながら、私の頭を撫でた。

「独りで生きなくてもいいんだよ。私はね、舞夕ちゃんに、自分の力で生きられるようになって欲しいの」

「それって違うの?」

「うん。自分で生きていける力があればね、誰と生きるか選べるの」

「……誰と、生きるか」

「そう。そのときまでは絶対一緒にいるよ。それからも一緒にいられたらいいな。舞夕ちゃんが、私を選んでくれるならね」

「でも希帆さん、まだ三十にもなってないし、まだこの先、」

「違うよ、違うんだよ。舞夕ちゃんのためだけじゃないんだよ。私があなたを選んだの」

 希帆さんはそう言って頷いた。

「一緒にいるのは、一人が辛いからじゃないよ。いないと駄目っていう関係は寂しいもん」

「じゃあ何で私といるの?」

「幸せになるためだよ」

 そして希帆さんは、心の底から幸せだという表情を浮かべた。

「いつもお料理してくれてありがとう。お買い物してくれてありがとう。お風呂の準備してくれてありがとう。私が帰ったとき出迎えてくれてありがとう。それにね」

 季帆さんの体温が、頭に、顔に、肩に、心に感じられる。

「頑張ってくれてありがとう。舞夕ちゃんが頑張ってるのを見ると、私も頑張らないとって思えるの」

「それって幸せなの?」

「それ以上の幸せってある?」

 いつも遅くまで仕事して、お付き合いで飲み会にも出て、ふらふらになって帰ってきても、いつも笑顔で『ありがとう』って言ってくれる。

 私は、そんな人と暮らしている。

 持てる時間を費やして机に向かい、あらゆる工夫を凝らして点数をもぎ取り、報われることなんてない期末テストに命を懸ける。

 私は、そんな人と競っている。

 なるほど。

 これ以上の幸せなんて。

「……ないかもね」