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山に囲まれ閉塞したこの土地に、よそから来て好んで住まうような人は、ほとんどいない。土地の人間か旅人でなければ立ち寄らない場所だ。
久我の家も、「華族は東京へ住まうよう」という触れに従い、東京に屋敷を造って本宅を移し、家の事業のため横浜に別宅を構えていた。ここは本来の住処であったはずが、取り残された土地だ。だから、縁者も、事業に関わる者も、ここにはあまり足を運ばない。ただ大きな屋敷は蕭然とある。
だがそれでも、祖父はこの家に固執した。必ず人が彼を畏敬の目を向ける場所を捨てたくなかったのか。
その執着をあらわすように、この家には鬱屈した空気が満ちていた。住まう者の意識そのままに。それともこの家にこそ暗澹がわだかまり、祖父の方がそれに捕らわれていたのか。
慎司も綾都も、幼くして両親を亡くしていた。
跡目相続が明文化され、長男だけが家を継ぐことを許されるようになった。爵位は、長男のみに与えられ、他の人間は華族とは称さない。
慎司の父は、長男だった。
真面目な気質だったと聞かされている。そして然るべき家から迎えた嫁。子が生まれてすぐ長男は病で亡くなり、残された嫁も、間をおかずに息を引き取ったという。
心労のあまりに、疲れきって。耐えられなかったのだろう。この、窮屈で、神経質な人々に。閉塞した土地に。
放蕩だった次男は、どこの生まれとも知れない女に子供を産ませ、酒に溺れて体を壊して野垂死んだ。
女は子を産み落とし、手切れ金を握らされて行方を晦ませたのだと噂されていた。どこぞかで生きているのか、野垂れ死んだか。もしくは手切れ金を渡したというのは表の話で、裏で殺されたのか。家の体裁のために。
そうやって二人の父母はいなくなり、家の体裁を尊び、この家と土地に固執した祖父母も、やがてこの世を去った。
東京から戻った慎司は、広い屋敷の手入れのためと、食事の世話と、綾都の世話のための人手と、どうしても必要な人間以外は屋敷を去らせていた。
ただただ広い屋敷は、人の少なさを強調する。使用人は彼らと生活を共にしない。食卓の席に着くのは二人だけで、その光景もとても寂しい。
食事は、医者に言われるままに栄養を考え、体が受けつけ易い柔らかいものばかりだった。綾都が、ナイフとフォークを使う異国風の食事よりも、箸を使って食べるものを好むので、彼の好みに合わせたものばかりが食卓に並んでいた。慎司も同じものを口にする。
「綾、食べないの」
綾都は、やわらかい粥を匙でかきまわしている。先刻までは、よく煮込んだ野菜を箸でかきまわしていた。
「食べてるよ」
憮然として言うが、慎司が見ている限り、口に運んだ気配が無い。
「食事が嫌だったら、何でもいいから、持ってこようか。取り寄せたあんぱんも卵糖もある」
「檸檬水か氷菓子」
「……ごめん、季節じゃないから、手に入らなくて」
「じゃあ、食べない」
「綾、お願いだから。このままだったら、転んだだけで骨を折るかもしれないって、お医者さまが」
「そしたら、ふらふら歩き回れなくなって、外聞も悪くないし、お前は助かるんじゃないのか」
「綾都」
悲しく眉根を寄せて、慎司が呼ぶ。諌めるように。
「安静にしていてほしいとは思うけど、綾都が傷ついて嬉しい訳ないだろう。外聞なんてどうだっていいよ」
「口先ならいくらでも言えるよな」
鼻でせせら笑って、綾都はとりあわない。
まだ、食べ物をかき回している。慎司は、また怒鳴られるのを覚悟しながら、遠慮がちに問いかけた。
「綾、食欲ないの」
「そんなわけじゃない」
「じゃあ」
「食い物の味が分からない」
とうとう綾都は、箸を放り出した。
「不味いのか旨いのか分からない。これ、何だ。本当に食いものか? 泥じゃないのか」
「綾」
それは、食欲がないということなのでは。
「具合が悪いの」
「違う」
「綾」
「だから、いらないって言ってるだろう」
再び、大きな声が上がる。手元にあった皿を持ち上げて、床にぶちまけた。
控えていた女中が悲鳴を上げる。慎司が、彼女に下がるようにと視線を送ると、逃げるように部屋を飛び出していった。その後ろを、腹立ち紛れに綾都の投げた皿が追う。襖にぶつかり、砕け散った。皿の中身が襖と床を汚す。
「綾都」
彼の行動に、慎司も声を荒げる。