その足で教室に向かう。
 日直だというのなら、教室にいるのだろう。
 校内はまだ時間が早いからか、パラパラとしか生徒はいない。どこからか運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。

 教室にたどり着く。後ろの扉から中をそっと覗いてみると、川内が黒板に向かっていた。チョークを持って、日付を書き直しているようだ。

 教室には、一人しかいない。

「お、おはよう」

 意を決してそう話し掛けると、川内は驚いたように、バッとこちらに振り向いた。
 そして何度か目を瞬かせたあと、小さな声で、「おはよう」と返してきた。

「あの……」

 俺はそっと歩み寄った。足音一つたてないように。そうしなければ、逃げ出される気がして仕方なかった。

 川内に近付き過ぎないように、離れた位置で足を止める。
 それから、いったん口を開きかけてはみたけれど、なにから言えばいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。

 川内はちょっと首を傾げて、俺を見つめている。

「あ、えと、日直、忙しい?」

 邪魔をするのもなんなので、そう問うてみる。
 川内はゆっくりと口を開いた。ものすごく久しぶりに声を聞くような気がした。

「ううん、もう終わる」
「……そう」

 それから、少しの静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。

「あの……」

 とにかく、なにか言わないと。

「あの……俺、あのテーブルヤシに謝ったんじゃ」
「うん」

 川内は俺の言葉に首を傾げることなく、うなずいた。
 それから、ゆっくりと微笑んだ。

「うん、知っとる」
「え」

 川内は開いている窓の外に目を向けて、それからもう一度こちらに振り向いてから、言った。

「皆が教えてくれたけえ」
「えっ、伝播するもんなんっ?」
「いつもじゃないけど」
「あ、そう……」

 そう呆けた返事をして、しばらくじっと川内の顔を見つめてしまう。

 なんだ、と思った。なんだか力が抜けた。
 なんだって、バレちゃうんだな。
 これは、敵わない。

 そう思うと、口から小さく笑いが漏れた。

「なに?」

 川内は首を傾げる。
 俺は慌てて顔の前でひらひらと手を振った。

「あ、いや、あの……ひどいこと言って、ごめん」

 そう言って頭を下げる。
 少しして、ちらりと川内を見ると、彼女は首を横に振った。

「ううん、私も、悪かったけえ」
「いや……」

 そしてまた、気まずい空気が流れる。
 これはこれからどうしたらいいんだろう。

「あ」

 ふいに川内が声を上げる。

「え」
「一年生が、温室に来とる」
「えっ?」
「たぶん、入部希望。早う行ってあげんと、先生しかおらんよ」

 チョークを置いて、慌てたように川内は歩き出す。
 すごい。そんなことまでわかるのか。

 俺は階段を降りるところで、川内が歩く横に追いついた。

「浦辺先生が顧問じゃって知ったら、逃げるかな」
「かもしれんね」

 苦笑しながらそう返してくる。
 なんだか自然で、もうわだかまりはないように感じた。
 これは仲直り、ということでいい気がする。俺はほっと息を吐いた。

 それにしても、植物の言葉が聞けるって、すごい。ここまでとは思わなかった。
 きっと本当に、温室の前に一年生がいるのだろう。

 確信を持って、そう思う。
 今は川内の力が信じられた。

 ほんと、敵わない。
 悪いことできないな。もし秘密ができたら、周りに植物がないか確認しなきゃいけないよな。
 ……たとえば、そう。エロいこととか……。
 うん、部屋には絶対に植物は置かないようにしよう。

 なんてくだらないことを思っていると、ふいに横を歩く川内がぴたりと足を止め、俺のシャツの袖をくいっと引っ張った。

 そちらに振り向くと、彼女が俺を見上げていた。少し睨んでいるような目つきだった。

「……なに?」

 仲直りしたと思ったのは俺だけで、川内はまだ怒っているのだろうか。
 すると川内は少し口を尖らせて、言った。

「今、なにか悪いこと考えよったよね?」
「えっ、いや別に?」
「嘘。わかるんじゃけえね」

 それから彼女は俺を睨むようにじっと見つめてきた。

 なんでわかったんだろう。
 辺りを見渡す。ここは階段の踊り場で、周りに特に植物は見当たらない。
 じゃあどうしてわかった?

 となると、もしかして。
 つまりこれは、女の勘ってやつなのかもしれない。

 そういえば、尾崎もやたらに勘が鋭い。
 植物がどうこう以前に、女の子という人種には、なんでも読まれてしまうのか。

 しかし一応、否定はしてみる。

「いや、悪いことなんか考えとらんよ」
「嘘」
「ホントだって。早く行こう」

 俺は川内の手を握って引っ張る。川内はみるみるうちに頬を紅潮させた。

「もう! こんなんでごまかされんのんじゃけえね!」
「うん、わかった」

 前を向いて、川内に見えないように、こっそりと息を吐く。
 これは絶対に勝てない。

 俺は心の中で木下に呼びかける。
 俺たちは、尻に敷かれるしかなさそうだよ。

 そんなバカなことを思いながら、俺は川内の手をしっかり握ったまま、足を進めたのだった。

          了