そのあと、作業を終わらせ、教室に戻る。
「おはよー」
「はよー」
「昨日、どうじゃったん?」
「うん、割とすんなり、引っ越しできたよ」
「よかったな」
そんな話をして、席に着く。
いつも通り。
遅れて川内が教室に入ってきて、皆に声を掛ける。
「おはよう」
「おはよー」
これもいつも通り。
「今日からまた復活するけえね。よろしくー」
「ホンマ? 無理せんでもええけえね」
「大丈夫よー」
まるで、何事も起きていないかのような、朝の時間だった。
◇
そうして、尾崎のじいちゃんが介護施設に入居して、園芸部の活動はまた四人に戻ることになった。
サボテンはすくすくと育っていたし、畑のネギもピーマンもナスもあっという間にどんどん伸びていた。
俺たちのプランターに植えられたコスモスやマリーゴールドも九月には花を咲かせるのではないかと思う。
部員募集のポスターを何枚か描いて、生徒会のハンコを貰って、掲示板に貼ってもらった。
なにも、問題はない。順調すぎるくらいだ。
ただ、俺はあの翌日から、朝の温室に立ち寄らなくなっていた。
放課後の部活も、俺は主に畑や花壇の雑草を抜いていて、温室には向かわなかった。
なんとなくだが、あそこに今、立ち入りたくなかった。折れてしまったテーブルヤシがどうなったのかも見たくなかった。
帰り道はいつものように、四人で帰る。俺は自転車を引き、カゴには四人分の荷物が乗せられている。
けれど川内と俺は、必要最低限の言葉しか交わさなくなってしまった。
なにをしゃべればいいのかわからなかったし、元々そうだと言えばそうなのだが、川内も積極的に話し掛けてくることもなかった。
ときどき、尾崎と木下は心配そうに俺たちを見ていたが、その視線には気付かないふりをして、数日を過ごした。
◇
昼食は、サボテンの芽が出てからは温室で食べるようになっていたが、俺はあの日以来、教室で食べることにしていた。
お一人様、再び、だ。
「いやもう、ホントに暑くて。俺、暑さに弱いんよ。ホント、ごめん」
だのなんだの言ってなんとか逃れてきたのだが、ある日の昼休憩、温室に行く前、尾崎が俺の前に立った。
「ちぃと話があるんじゃけど、ええ?」
顔はニコニコと笑ってはいるが、目は笑っていない。これはご立腹だとすぐにわかった。
「先行っとこ。先」
「え、う、うん……」
木下は川内を連れて教室を出て行く。
それを見送ったあと、尾崎も俺を教室から連れ出した。
そして階段の踊り場に俺を引っ張っていく。
俺を壁際に置いてその前に立った尾崎は、いきなり足を振り上げて、ドン、と俺の横の壁に足の裏を押し付けた。
ご立腹なんてレベルではないようだ。というか、これも壁ドンというものに含まれるのかな、とそんなバカなことを考えた。
「ウチは怒っとる」
「うん」
見ればわかる。
「なにがあったか知らんけど、謝っときんさいね」
その言葉に返事はしなかった。
それが尾崎の怒りをさらに増幅させたらしい。
「なんなん? 謝る気はないん?」
そう言って、さらに目を吊り上げてこちらを睨みつけてくる。
「それは、川内からなにか聞いて、それで俺が悪いと判断して言うとるん?」
できるだけ冷静さを保った声でそう言い返すと尾崎は、はあ、とこれみよがしにため息をついたあと、足を下ろした。
「なんも聞いとらんよ」
「なのに俺が悪いと一方的に決めつけたん?」
「だって悪いに決まっとるもん」
苦笑が漏れた。ここまでくると、さすが、としか言いようがない。
「まあ……俺が悪いよ」
「やっぱり」
「でも、どうしたらええかわからん……いうか」
自分の中で、この感情をどう処理したらいいのかわからないのだ。そんな状態で謝ったって、それは意味のあることだとは思えない。
尾崎は今度は腕を組んで、こちらを睨んでくる。
「ウチ、言うたよね?」
「……なにを」
「ハルちゃんと一緒におってって」
言われた。確かに言われたけれど。
「あれは、尾崎が帰ってくるまでの話じゃないんか」
「そんなこと、一言も言うとらんのんじゃけど」
そう言って、じっとこちらを見ている。
どうやら、ご立腹なのはその約束を違えたからもあるらしい。
そう思いながら尾崎の顔を見ていると、口元がゆっくりと動き出した。
「まさかアレ聞いて、痛いとか思うとるんじゃないよね?」
「えっ」
アレ。
川内が植物と会話しているということ。
俺の表情を見てわかったのか、尾崎は大きくため息をついた。
「やっぱり聞いとるんじゃね」
「……知っとるんか」
川内は、尾崎には言っていないのではなかったのか。
尾崎は軽く肩をすくめながら、苛立ちを隠すことなく口を開く。
「園芸部入った言うたらさ、ご丁寧に教えてくれるバカがおったんよ。仁方から来よるの、一人じゃないけえね」
小学時代、中学時代から逃げるように、この山ノ神高校に来たというのに、それでもまだその話が付きまとっているのか。
それはなんだか腹立たしかった。
「それ、川内には」
「言うわけないじゃろ。ウチはチクるのは性に合わんし、それ聞いたってハルちゃんが傷つくだけじゃん。意味ないわ」
「そう」
そう聞いて、ほっと息を吐く。それに尾崎は川内が心配していたように、『おらんようになる』ことはないのだ。よかった。
俺の表情を見たのか、尾崎は少し首を傾げて問うてきた。
「それが原因じゃあないんじゃね?」
「ああ……、それ自体は……痛いとかは思うとらん」
「ふうん?」
それでも疑わしそうに、こちらを眺める。
どうやら白黒はっきりつけたいようだが、けれど誰にも踏み込んで欲しくはなかった。
「……説明する気はないんじゃけど」
「ウチにも?」
「うん。俺の問題じゃし」
俺がきっぱりとそう言うと、尾崎は一歩下がって、そして肩を落とした。
「まあとにかく、昼は温室に来んさい。ヘラヘラ嘘つかれて気分悪いし、気まずいわ」
「……わかった」
確かに、逃げ回っていても仕方ないのは確かだ。
自分で言ったように、俺自身の問題で、いつかは俺がその問題をクリアしなければならない。
それがいつになるのかは、わからない。
けれど、逃げ回るのだけはもう止めようか、という気にはなった。
尾崎は、くい、と指先を校舎の外に向けて動かした。
「ほいじゃあ温室行くよ」
「ああ……いや、明日からにする」
「ええ?」
俺のその返事にどうやらご不満らしく、眉をひそめる。
「明日の朝、川内に話をする。あっちにも言いたいことがあるじゃろうし」
それを聞いて尾崎はしばらく黙って俺を見つめていたが、少しして、はあ、とため息をついた。
「まあ……それでもええけど。じゃあ明日からね」
「うん」
それで話はついたと思うのに、尾崎は足を動かさず、考え込んだあとに顔を上げて問うてきた。
「なんかヒントないん?」
「ヒント?」
「うん、喧嘩の原因のヒント」
俺がだんまりのままなのが、気になって仕方ないらしい。
ヒントねえ、と考えたあと、ぽつりと言ってみた。
「まあ、簡単に言うたら、嫉妬しとる」
「はあ? 嫉妬? 誰に?」
訳がわからない、という風に眉根を寄せる。
川内は大人しくて、園芸部以外では、積極的に誰かと話をすることはない。
なのに嫉妬? と思うのは無理はないのかもしれない。
「内緒」
「……まあ、ええけどさ。嫉妬とか、こまい男じゃねえ」
「『男じゃ女じゃ言うな。差別じゃ!』」
尾崎の口調を真似して言った。いつか彼女が木下に言った言葉だった。
尾崎は眉をひそめる。
「はがええわ」
それになんだか笑いが零れた。
くつくつと笑っていると、腰のあたりを肘で小突かれる。
「まああんたも、いつまでも、はぶてとりんさんなよ」
「はぶてとるように見えるん?」
「違うん?」
そう言われて、少し考えてみる。
確かに、『はぶてとる』以外の何ものでもないような気がした。
行くと決めたは決めたのだが、それでも翌朝学校に着いてから、温室に向かう決意を新たにしなければならなかった。足が重い、だなんて本当にあるんだな、と思いながら足を進める。
温室にたどり着くと開いた南京錠が掛けられていたから、一度深呼吸をして、それから、えいっとドアを開ける。
しかし。
「げっ」
思わず口をついて出た。
「げっ、とはなんじゃあ、げっ、とは」
なんとそこには川内の代わりに浦辺先生がいたのだ。
じょうろで鉢植えに水を遣っている。じょうろを持っていたおかげで、頭をギリギリとやられる刑を免れたらしい。
けれど、これは完全に予想外だ。
どうすればいいのかわからなくて、途方に暮れる。
「川内か?」
仏頂面でそう言うので、曖昧にうなずいた。
「はあ……まあ……」
「今日は日直じゃけえ、もう教室じゃ。じゃけえワシが代わりにやりよる。まあ、たまにはの」
「あ……ああ……日直……」
「なにをボーッと突っ立っとるんじゃ。入れ」
まるで脅迫されている気分で、素直に言う通りにする。浦辺先生と温室で二人きり。あまり嬉しくない状況だ。
これはいったいどうしたらいいんだろう、と俯いて考えていると。
「お前、元気か?」
「えっ」
急に話し掛けられて、慌てて顔を上げて浦辺先生に視線をやる。
しかし浦辺先生はこちらを向いていなかった。
「お、お前は綺麗に咲いたなぁ」
じょうろで水を遣りながら、先生は鉢植えに話し掛けていた。優しい声音で。
「せ、先生……」
「ん?」
「今……」
「ああ、似合わんか」
にやりと笑って、俺のほうに振り向く。
開いた口が塞がらない。まさか、浦辺先生も植物の気持ちがわかるのだろうか。川内だけじゃないのだろうか。実は他にもいるのだろうか。
そんなことをぐちゃぐちゃと考える。
「お前、知らんのんか? サボテンにはテレパシーがあるいう話」
呆然としている俺に向かって、浦辺先生は淡々と語る。
「あ、いや、知っとるけど……」
「ずっと話し掛けて育てたサボテンは綺麗な花を咲かせるらしいけえの。ホンマかどうかはわからんが、どうせならやってみてもえかろうが」
あまりにも有名な話だ。もちろんやってみる人もいるだろう。
サボテンは、優しくされれば喜ぶし、侮蔑されれば悲しむ。
「人間となんら変わらんよのう」
「……うん」
心なしか、しゃべっている内に、浦辺先生の表情が穏やかになってきたような気がする。
カタギじゃない、だなんて言われて、学校で一番怖いと噂される先生とは思えない雰囲気だ。
先生は温室の中をぐるりと見回すと、言った。
「ワシはの、神崎。川内は植物の言葉がわかるんじゃないかって思うとる」
「えっ!」
ぎょっとする。なんで。なんで浦辺先生がそんなこと。先生は知っているんだろうか? 川内は浦辺先生には言っているんだろうか。
自分の不思議な力のこと。
完全に頭の中が混乱しまくっている俺には気付かない様子で、浦辺先生はにっ、と歯を出して笑う。
「バカバカしいじゃろ?」
「……いや」
「川内には言うなよ、笑われちゃあいけんけえのう」
そう言って苦笑する。ということは、聞かされていないってことなのだろう。
とりあえず落ち着こう、とこっそりと息を吐く。
「あの子がこの温室を世話するようになってから、明らかにここが変わったんよな。植物の言葉を聞いて、ほいで世話しとるんじゃ。じゃけえ、変わったんじゃないかのう」
俺は先生の言葉を受けて、温室の中を見渡す。
居心地の良い温室。いつだって温かで、心穏かになれる場所。
川内が作り上げた温室。
先生は、川内になにも言われなくたって、そこに近付いたのか。この温室で過ごすうちに。この温室を見ているうちに。
なのに、俺はいったい、なにを見ていたのだろう。
ふと、思う。
俺は、理解しているふりをしていただけだったのかもしれない。心の底では、なにをバカなことをって思っていたのかもしれない。
だから、俺よりも植物を優先したことが、我慢ならなかったのかもしれない。
優しいふりをして、ただ傍にいたいがために、理解した素振りを見せてきたのかもしれない。
実は、信じようともしていなかったのかも、しれない。
「川内だけじゃのうて、ワシも、お前も、たぶん皆、聞こえるのかもしれんぞ。聞く気になれば」
穏やかな声が耳に入ってくる。
俺は緊張を解いて、ベンチに腰掛ける。なぜか、浦辺先生の言うことを素直に聞けた。心を穏やかにしようと務めてみた。
もしかしたら、俺にもわかるのかもしれない。彼らの気持ち。
「ここに来ると穏やかになれると思わんか? 川内が丁寧に手入れしてくれるおかげでそうなんじゃないかと思うがのう」
そうだ。いつもここに来ると、安らげた。それは川内がいたからかもしれないけれど。
でも。
なぜだろう。今日はなんだか落ち着かない。川内がいないからかもしれない。浦辺先生と二人きり、なんて状況だからかもしれない。
でも、それだけじゃないような気がした。
さっきから、なにか、嫌なものが俺に向けられている気がして仕方ない。
……敵意。あるいは、悪意。
そういうものを向けられている。そう感じた。
ゾワッとなにかが身体をすり抜けた。暖かいのに、寒さを感じて二の腕を擦る。
なにが、誰が、それを俺に向けている?
「お前ら、付き合うとるんじゃろ?」
急にそう言われたので、驚いて顔を上げて浦辺先生のほうを見る。けれど、先生はもう俺に背を向けて、水遣りを始めていた。
「えーっ……と、あの」
もしかしたら、学生は勉強が本分、なんて怒られるのかと考えて、どう答えようかとしどろもどろしていると、浦辺先生は再び振り向いた。
「別に隠すことでもないじゃろ」
「……はあ、まあ……」
「なんだかな、最近元気がないけえ。喧嘩でもしとるんか?」
「いや……喧嘩っていうか」
「謝っとけ」
「え?」
尾崎と同じことを言うので、思わず聞き返す。浦辺は少し声を大きくして、再び言った。
「謝っとけ。どうせお前のほうが悪いんじゃ」
「ひどっ」
もう苦笑いするしかない。
しかし浦辺先生は少し首を傾げる。
「川内のほうが悪いんか?」
「いや、悪くない……けど」
「ほうじゃろ。じゃけ、謝っとけって。こんな綺麗な花を咲かせる子が悪いわけがなかろうが」
ムチャクチャだ。俺の言い分は聞く気はないらしい。まあだいたい正解なので、それはいいのだが。
ふと視線を上に向けると、あのテーブルヤシがあった。
折れた茎のところに添え木がしてあって、ぐるぐるとテープを巻いている。ちゃんと繋がっているのか、まだ葉は青々としていた。
「あ」
「ん?」
俺の視線の先を追って、先生もそのテーブルヤシを見る。
「ああ、これか? 折れたみたいなけえ、川内が治療しよったぞ」
治療。まるで、人間みたいだ。でも、他に当てる言葉はない気がする。
「これ、俺が不注意で……」
「ああ、じゃ、踏み台壊してしもうたのお前か」
「……すみません」
思わず謝ると、浦辺先生は古かったからな、とつぶやいた。
「謝っとったほうが……ええよな」
俺が小さく言った言葉に、先生は首を傾げる。
「テーブルヤシにか。それとも川内にか」
俺はちょっとの間考えて、そして言った。
「……どっちも」
「そりゃそうじゃろ」
「……うん」
そうつぶやいて黙り込んでいると、浦辺先生はテーブルヤシを指差して言った。
「こっちはすぐに謝れるじゃろ?」
「えっ」
思わず顔を上げて、先生を見る。
「今?」
「今」
冗談かと思ったけど、浦辺先生は真剣な様子でうなずいた。戸惑っていると、さらに浦辺先生は言葉を継いでくる。
「嫌なんか?」
「嫌じゃないけど」
これは、逃れられそうもない感じだ。
人前でそうするのはかなり抵抗があったけど、俺は立ち上がってテーブルヤシの前に立ち、見上げた。
もう一度浦辺先生のほうへ振り返る。先生は、顎をしゃくって、ほら、と俺をうながした。
こうなったらもうヤケだ。俺は思い切り頭を下げた。
「すみませんでした!」
温室の中に静寂が訪れる。俺は頭を下げたまま、ただ時間が過ぎるのを待った。
すると。
感じた。さっきまで俺に向けられていた敵意が波が引くように去っていく。いつもと変わらない温室に変化していく。
慌てて頭を上げて、きょろきょろと辺りを見渡す。変わった。空気が。
愕然と立ちすくむ。
嘘だろう?
「どうかしたんか?」
先生が首を傾げている。
「いや……」
確かに、感じられた。俺にも。
川内のようには受け止めてはいないのだろうけれど、確かに感じた。
呆然としている俺に、浦辺先生が声を掛けてくる。
「どうした?」
「俺」
慌てて、ドアに向かって駆け出した。
「謝らないと」
「おい、神崎!」
呼び止められて、振り向く。浦辺先生が苦笑しながら、言った。
「お前ええ加減、卒業までには敬語を使えるように、ちっとは気を付けとけ」
その足で教室に向かう。
日直だというのなら、教室にいるのだろう。
校内はまだ時間が早いからか、パラパラとしか生徒はいない。どこからか運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。
教室にたどり着く。後ろの扉から中をそっと覗いてみると、川内が黒板に向かっていた。チョークを持って、日付を書き直しているようだ。
教室には、一人しかいない。
「お、おはよう」
意を決してそう話し掛けると、川内は驚いたように、バッとこちらに振り向いた。
そして何度か目を瞬かせたあと、小さな声で、「おはよう」と返してきた。
「あの……」
俺はそっと歩み寄った。足音一つたてないように。そうしなければ、逃げ出される気がして仕方なかった。
川内に近付き過ぎないように、離れた位置で足を止める。
それから、いったん口を開きかけてはみたけれど、なにから言えばいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。
川内はちょっと首を傾げて、俺を見つめている。
「あ、えと、日直、忙しい?」
邪魔をするのもなんなので、そう問うてみる。
川内はゆっくりと口を開いた。ものすごく久しぶりに声を聞くような気がした。
「ううん、もう終わる」
「……そう」
それから、少しの静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。
「あの……」
とにかく、なにか言わないと。
「あの……俺、あのテーブルヤシに謝ったんじゃ」
「うん」
川内は俺の言葉に首を傾げることなく、うなずいた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「うん、知っとる」
「え」
川内は開いている窓の外に目を向けて、それからもう一度こちらに振り向いてから、言った。
「皆が教えてくれたけえ」
「えっ、伝播するもんなんっ?」
「いつもじゃないけど」
「あ、そう……」
そう呆けた返事をして、しばらくじっと川内の顔を見つめてしまう。
なんだ、と思った。なんだか力が抜けた。
なんだって、バレちゃうんだな。
これは、敵わない。
そう思うと、口から小さく笑いが漏れた。
「なに?」
川内は首を傾げる。
俺は慌てて顔の前でひらひらと手を振った。
「あ、いや、あの……ひどいこと言って、ごめん」
そう言って頭を下げる。
少しして、ちらりと川内を見ると、彼女は首を横に振った。
「ううん、私も、悪かったけえ」
「いや……」
そしてまた、気まずい空気が流れる。
これはこれからどうしたらいいんだろう。
「あ」
ふいに川内が声を上げる。
「え」
「一年生が、温室に来とる」
「えっ?」
「たぶん、入部希望。早う行ってあげんと、先生しかおらんよ」
チョークを置いて、慌てたように川内は歩き出す。
すごい。そんなことまでわかるのか。
俺は階段を降りるところで、川内が歩く横に追いついた。
「浦辺先生が顧問じゃって知ったら、逃げるかな」
「かもしれんね」
苦笑しながらそう返してくる。
なんだか自然で、もうわだかまりはないように感じた。
これは仲直り、ということでいい気がする。俺はほっと息を吐いた。
それにしても、植物の言葉が聞けるって、すごい。ここまでとは思わなかった。
きっと本当に、温室の前に一年生がいるのだろう。
確信を持って、そう思う。
今は川内の力が信じられた。
ほんと、敵わない。
悪いことできないな。もし秘密ができたら、周りに植物がないか確認しなきゃいけないよな。
……たとえば、そう。エロいこととか……。
うん、部屋には絶対に植物は置かないようにしよう。
なんてくだらないことを思っていると、ふいに横を歩く川内がぴたりと足を止め、俺のシャツの袖をくいっと引っ張った。
そちらに振り向くと、彼女が俺を見上げていた。少し睨んでいるような目つきだった。
「……なに?」
仲直りしたと思ったのは俺だけで、川内はまだ怒っているのだろうか。
すると川内は少し口を尖らせて、言った。
「今、なにか悪いこと考えよったよね?」
「えっ、いや別に?」
「嘘。わかるんじゃけえね」
それから彼女は俺を睨むようにじっと見つめてきた。
なんでわかったんだろう。
辺りを見渡す。ここは階段の踊り場で、周りに特に植物は見当たらない。
じゃあどうしてわかった?
となると、もしかして。
つまりこれは、女の勘ってやつなのかもしれない。
そういえば、尾崎もやたらに勘が鋭い。
植物がどうこう以前に、女の子という人種には、なんでも読まれてしまうのか。
しかし一応、否定はしてみる。
「いや、悪いことなんか考えとらんよ」
「嘘」
「ホントだって。早く行こう」
俺は川内の手を握って引っ張る。川内はみるみるうちに頬を紅潮させた。
「もう! こんなんでごまかされんのんじゃけえね!」
「うん、わかった」
前を向いて、川内に見えないように、こっそりと息を吐く。
これは絶対に勝てない。
俺は心の中で木下に呼びかける。
俺たちは、尻に敷かれるしかなさそうだよ。
そんなバカなことを思いながら、俺は川内の手をしっかり握ったまま、足を進めたのだった。
了