彼女のテレパシー 俺のジェラシー

「え、なに?」

 振り返ると、尾崎が神妙な顔をして口を開いた。

「あのあとさあ、あの三人に会わんかった?」

 不安げな声音で、そう言う。どうやらずっと気になっていたのだろう。川内がいなくなるタイミングを計っていたのかもしれない。

「ああ、うん、会わんかった」
「ほうなん? ほいならええけど」

 尾崎がほっと息を吐く。

「なんか感じ悪かったじゃん? じゃけえ、心配じゃって(していて)。ハルちゃん、なんかあっても我慢しそうじゃし」

 それを聞いた木下が、肩をすくめる。

「心配しすぎなんじゃないんか。ちぃと(ちょっと)過保護で?」
「ほうかもしれんけどー」

 尾崎が口を尖らせる。

「ハルちゃん、なんか言われても言い返しそうにないし、心配にもなるわ」
「まあ、わかるけどのう」

 そう言って、三人で黙り込む。
 確かに、少し心配ではある。俺は、小学校、中学校時代の話も聞いたし、それで泣いていたのも見た。
 俺の知らないところで、またからかわれたりしているのではないかと、不安にはなる。
 そして川内は、たぶん、それを誰にも相談してこない気がする。

 すると、それを黙って聞いていた浦辺先生が、ふいに言った。

「お前らって、全員中途半端なんよな」
「え……」

 いったいなんの話が始まったのかと、三人とも浦辺先生のほうに振り返る。
 先生は、腕を組むと、続けた。

「ワシはいろんな高校に行っとるけえ、そう思うんじゃが、学校自体が中途半端な立ち位置じゃけえかのう。ものすごい進学校でもないし、落ちこぼれとるわけでもないけえ、まあそういう生徒が集まっとると言われればそうなんじゃが」

 ……ひどい言われようの気がする。
 というか、先生はどうして今、この話をし始めたのだろう。

「規則が厳しいだの、シャトルバスを出せだの、ブーブー言う割に、何もせんのんよな。生徒会を通して、みんなでそういう要望を出せばええのに、そういうことはやらん。ブーブー言うばっかりよ」
「だって……」

 そうすると、心証が悪くなる気もするし、学校生活になんらかの影響があるかもしれない。
 なにより面倒だ。
 皆の意見を取りまとめ、学校に対して意見する、その労力はいかばかりか。
 それなら三年間、我慢したほうが楽だ。

「気持ちはわからんでもないが、張り合いはないよのう」

 ため息混じりに、そう言う。

「じゃあ、言うたところで先生らに張り合われるん?」
「そりゃそうじゃろ。まあ、何もせんほうが、ワシらは楽で?」

 楽なら文句を言わないで欲しい。
 しかし、浦辺は続けた。

「でも、川内はワシのところに来たで」
「えっ」
「園芸部はもうないんですか、って。昔はあったのに、どうしてないんですか、って」

 その言葉に温室内は、しん、となる。
 一年のときは園芸部の部員はたった一人だった。先輩もいなかった。
 川内は一年間、ただ一人の部員として、活動していたのだ。

「部員がおらんだけで、別に復活させてもええで、言うたら、じゃあ入るから復活させてください、言うたで。あれは大人しそうじゃけど、けっこう強い子じゃわ」

 そう言って、うんうん、とうなずく。
 確かに。
 もし俺だったら、たぶん、何もしない。仮にやりたいことがあったとしても、もうないのなら、と諦める。

「芯が強い、いうのはああいう子のことよ。強そうに見えて弱いとか、弱そうに見えて強い、いうのはいくらでもあるんじゃけえ、決めつけるなよ」

 尾崎はその言葉に、少し目を伏せた。
 気の強い尾崎。向かうところ敵なし、といった感じの彼女だけれど、お母さんが倒れたと聞いて、明らかに動揺して、冷静さを失っていた。もちろんお母さんが倒れただなんて大変なことだけれど、いつもの尾崎からは考えられないような狼狽えようだった。
 そのことを思い出しているのかもしれない。

「ただ、助けを求められたら、絶対に手を貸せ。友だちて、そういうもんじゃろ」

 言われて、俺たちは顔を上げる。
 そして顔を見合わせてうなずいた。
 それは大丈夫。絶対に見捨てたりしない、と無言で確認し合った。

 浦辺先生はその様子を見て、口の端を上げた。

「あと、お前らでどうにもならんようになったら、ワシに言え」

 そう言って胸を張る。
 浦辺先生は怖いけど、頼もしい。確かに、なにかあったらなんとかしてくれそうな気がする。
 なんだか少し、見直した。

「去年と一昨年のしかなかったー」

 そのとき、川内が温室に帰ってきて、その話は終わりとなった。
 それからも毎日、朝は温室に向かった。

 あまり手伝えることはなくて、窓を開けたり、あるいは閉めたり、じょうろに水を汲んだり、その程度のことしかできなかった。

 川内はいつも、「元気?」「かわいいね」なんて声を掛けながら水やりをする。

 慣れているはずなのに、ときどき、自分が話し掛けられたのかと思ってパッとそちらに振り向いてしまうこともある。
 川内はそんな俺に気付かないまま、柔らかな声で、穏やかな表情で、植物たちと接している。

 もしかしたら本当は、俺が朝、温室に来るのは迷惑なんだろうか、と不安になってくる。
 そもそも、最初から川内は、『一人でやりたい』と言っていた。
 気弱そうに見えて頑固なところもあるから、そこはもう揺らがないのではないだろうか。

 俺は実は、邪魔者なのではないだろうか。
 俺だけが、川内と二人で過ごしたいと思っているのではないのだろうか。
 俺だけが、この温室の中で異物なのではないだろうか。
 そんな不安が、毎日、俺の中に降り積もっていく。

 けれど今日も温室は、穏やかで暖かで居心地のいい空間なのだった。

          ◇

「そろそろ、芽が出るかも」

 とコミュニケーションアプリで連絡が来たのは、朝、自転車を漕いでいるときだった。
 グループでメッセージが来たので、当然、尾崎と木下にも届いているだろう。
 俺は自転車を漕ぐ足の動きを速くして、心臓破りの坂を上りきる。

 走って温室に向かうと、川内はしゃがんで植木鉢を覗き込んでいたが、こちらに振り向いてにっこりと笑った。

「よかった、授業中とかじゃったら、絶対無理じゃもん」
「どれ?」
「サボテンよ」

 川内は植木鉢を指差す。
 俺も隣にしゃがみ込んで植木鉢を覗いてみるが、どこにも緑色はない。

「え、出てない?」
「うん、これから出るんじゃもん」

 川内は当然のようにそう言った。

「これ、種。土は被せてないけえ」

 川内が指差して教えてくれる。俺には周りの土との違いはいまいちわからなかった。

「千夏ちゃんが来るの、待っとるんよねー」

 そう言って、植木鉢に向かって笑う。

 まさか本当に。芽が出るタイミングがわかるというのだろうか。
 あの二人が学校に来るのは、あと一時間くらいか。いや、メッセージを受けて早めに来るのかもしれない。

「それまで、水やりしよこ(していよう)?」
「あっ、ああ、うん」

 じょうろに水を汲んで、そしてまた植木鉢を覗き込む。やっぱり土の茶色しかない。
 そうしてソワソワと他の植木鉢への水やりの合間に何度も見てみるが、どこにも緑色は見つからなかった。

「まだよー」

 くすくすと笑いながら川内が言う。
 そうこうしているうちに、尾崎と木下が同時に温室に走り込んできた。

「出たんっ?」
「どれっ?」

 ハアハアと息せき切って、川内のほうにやってくる。

「これ。サボテン」

 川内が植木鉢を指差すと、二人はしゃがみ込んで土の表面を覗き込んでいる。

「まだ出てないんか? もしかして今から?」
「まさか、そんな都合よくは……」
「あっ、これ!」

 尾崎が植木鉢の上を指差す。
 俺も慌てて後ろから、膝に手を当てて屈み込んで見てみる。

 まさか。そんな。
 よくよく見ると、小さな小さな白い点があったのだ。
 嘘だろう。さっきまで、絶対になかった。だってあんなに何度も見たのに。

「さっきは、なんにもなかった気がしたのに」

 愕然とする俺を他所に、尾崎と木下ははしゃいだ声を出している。
 二人はさっき来たから、なんとも思わないのだろうか。

「見落としとったんじゃろう」
「今出たとか!」
「ええー? さすがにそれはないじゃろ?」

 いや、今、芽が出たのだ。
 尾崎が来るのを待っていたかのように、発芽したのだ。

「うわあ、なんか感動するう」
「ホンマに芽が出るんじゃのう」

 尾崎と木下は、弾んだ声でそんなことを言っている。
 川内はニコニコとして、植木鉢を眺めていた。

 そのとき初めて俺は、本当に川内は植物の声を聞いているのかもしれない、と思ったのだった。
 サボテンの芽が出てからというもの、昼休憩は温室で過ごすようになってしまった。
 窓も全開で扉も開けて、それでも暑いけれど、サボテンのためだと思うと快適に思えるから不思議だ。
 サボテンは豆粒のような大きさなのに、トゲはちゃんとあるので、なんだか可愛い。

「水やってもええ?」

 尾崎は事あるごとにそう言って、川内を困らせている。

「サボテン枯らしたことがあるいうの、納得するわ」

 木下はそんな尾崎を見て、呆れたようにそう言っていた。

「全然水をやらんのも、やりすぎるのもいけんって、ワシでもわかるわ」
「だってー」
「水やっても良うなったら言うけえ」

 川内はなんとか尾崎を止めることに成功している。おかげで順調にサボテンは育っている様子だ。

「あっ、そうそう」

 尾崎は弁当の唐揚げをモグモグと食べながら言った。

「今日、じいちゃんの引っ越しなんじゃ」
「へえ、じゃあ今日からなんじゃ。よかったな」
「じゃけえ、ワシも駆り出されとる」
「あ、そうなんか」
「家具とか運ぶけえ、男手がいるいうて」

 木下は肩をすくめてそう言う。けれど嫌そうな様子ではない。

「ほいじゃけ、今日は千夏もワシも部活は休みじゃ」
「うん、わかった」
「まあ、たまには二人きりで帰るんもええじゃろ?」

 尾崎がニヤリと笑って、こちらに顔を向けた。
 川内は真っ赤になって、少し俯いている。
 ……うん。この様子だと、嫌だと思っているわけではなさそうだ、と心の中でほっと安堵の息を吐いた。

「俺らにそうは言うけど、それはそっちもじゃろ?」

 そう返すと、尾崎と木下は顔を見合わせて、それから同時に首を傾げた。

「なんかもう、小さい頃から一緒におりすぎて、ようわからんわ」
「まあのう」

 そんな二人を見ていると、ドキドキするとかキュンとするとか、そういう恋愛ではなく、まるでもう本当の家族みたいな関係なんだろうな、と思った。

 俺みたいに、ほんの少しのことで一喜一憂しているのはバカみたいだな、とちょっと情けなくなった。

          ◇

 ということで、放課後は二人きりで帰ることになった。
 尾崎と木下には申し訳ないが、少し嬉しい。

 川内はどう思っているんだろう、やっぱり尾崎がいないと寂しいのかな、二人きりは気まずいと思わないかな、と駐輪場から自転車を出しながら、ちらりと横目で川内を見る。

 しかし彼女は、近くに生えているツツジの木をじっと見つめていた。こちらには目もくれない。
 もしかしたら今、会話しているのかもしれない、と少し肩が落ちる。

「神崎ー!」

 しかし、どこかから大声で呼ばれて、顔を上げる。
 校舎三階、二年生の教室が並ぶ階の窓から、何人かの男子がこちらを見ていた。
 理系の教室。そしてそこにいるのは、一年生のときに同じクラスだったヤツらだ。この時間なら、補習なのだろうか。

「お前、裏切りかー!」
「なんじゃそれ、自慢かー!」
「文系、滅びろー!」

 ふざけたように笑いながら、そんなことを言っている。
 それを聞いていた、川内が驚いたようにこちらに顔を向けてくる。

「えっ……ど、どうしよう」

 どうしようもこうしようも。

「いいよ、放っておけば」
「で、でも。大丈夫なん……? 一年のときは仲良かったのに……」

 それを聞いて、思わず噴き出した。ああ、なるほど、そういう解釈か。

「いや違うし。あれ、イジメとかじゃないけえ」
「そ、そうなん?」

 不安げに首を傾げるので、俺は理系の教室に向かって手を振った。

「うっわ、余裕かー!」
ぶちはがええ(すげえムカつく)ー!」
「これだから文系はー!」

 それを見て、冷やかされているのだと気付いたらしい川内は、俺から少し距離を取った。

「帰ろう」
「う、うん」

 声を掛けると、おずおずと足を踏み出す。

 ふと上に視線を向けると、教室の中から「なにをしよるんじゃ、お前らはー! まだ補習がしたいんかー!」という怒号と、「うわっ、やべっ」とかいう声が聞こえた。
 あの声は、浦辺先生の次に怖いと噂の、数学の佐藤先生だ。ご愁傷様、と心の中で思う。

 二人で並んで校門を出る。
 川内のほうに視線を向けると、彼女は頬を紅潮させていた。
 やっぱり可愛いな、と思う。

「通学路、長いけど」
「うん」

 俺の声に、川内はこちらを見上げてくる。

「川内が彼女で、それを自慢できるみたいで、ええなって思う」

 そう言うと、川内はさらに顔を真っ赤にして、そして俯いてしまった。

「仁方は……ちょっと遠いけえ、無理じゃけど」
「うん」
「でも私も、みんなに自慢したいなって思うときある……」

 恥ずかしそうに、小さな小さな声で、そう言う。
 ヤバい。嬉しい。ものすごく、嬉しい。

「じゃあ今度、仁方に行こうか」
「なんにもないよ?」
「そうなん? でも焼山もなんにもない」
「じゃあやっぱり呉?」
「でも呉もそんなに遊ぶとこないよな」

 長い通学路をゆっくりと歩きながら、俺たちはこれからの未来について話をする。

「艦船巡りって知っとる?」
「知らんよ。なに?」
「呉桟橋から船乗って、潜水艦とか護衛艦とかを近くで見れるんと。一回、乗ってみたかったんじゃ」
「面白そうじゃね」
「今度、一緒に乗ろう」
「うん」
「あと、どっか行きたいとこある?」
「今は思いつかんけど……考えとく」
「うん」
「あっ、今年はもう終わったけど、来年は、音戸のツツジを見に行きたい」
「ええね」
「遠いけど」
「免許取ったら、姉ちゃんの車借りて、もっと遠くに行きたいな」
「危なくない?」
「たぶん、姉ちゃんの運転よりは危なくない」
「こないだ乗してもろうたときは、危ないって思わんかったよ?」
「そりゃあ短い距離じゃったけえじゃ。姉ちゃんの運転は怖い」
「そうなん?」

 川内はクスクスと笑う。
 こうしてずっと一緒にいられたらいいな、と思う。川内の隣は、とても安心する。

 通学路の横の竹林が、さわさわ、さわさわ、と静かな音をたてていた。
 朝、少し寝坊して温室に向かうと、川内が長い棒を持って、天井の窓を開けようとしていた。

「あっ、やるよ」
「あ、おはよう」
「おはよう。いうても、早くもないけど」

 そんな挨拶を交わして、川内から棒を受け取る。

「ごめん、寝坊してしもうて」
「ううん、そんな日もあるよね」

 そう言って、にっこりと笑う。

「それより、窓が開かんのんじゃ」

 天井を見上げて、川内が言った。

「ああ、最近、変な音がしよったけえ。油を差さんといけん思いよったんじゃけど」

 言いながら、棒を持った手を伸ばす。しかし天窓はガタガタとは動くが、開きはしなかった。

「あれ、本当に開かん」
「どうしよう」
「とりあえず、開けてみるわ。あとで油貰ってくる」
「うん」

 川内はうなずいて、そして普通に水やりにかかった。窓は任せる、ということだろう。

 まいった。また今度また今度と、ついつい後回しにしてしまっていた。
 たしか、温室の外に踏み台があったはず。棒で開けるのは困難でも、直接窓を手で押せば、力も入るし開くだろう。

 俺は温室の外に回ると、そこに置いてあった木製の二段の踏み台を手に取り、温室内に持って入り、天井を見ながら足元に置く。足を乗せると踏み台はギシッと鳴った。
 古いみたいだから、まずいだろうか。けれど、少しの間のことだし、とそのまま二段目に足を置く。

 そして手を伸ばしてみるが、あと少しというところで届かない。

たわん(届かない)?」

 下から川内が心配そうな声で言う。

「あと少しなんじゃけど……」

 やむを得ない。踏み台から片足だけ上げ、植木鉢が乗っている棚に掛けてから、手を伸ばす。すると窓に手が届き、力を入れるとなんとか開いた。
 ほっと息を吐く。油を差すなら脚立もついでに借りてこよう。

 そんなことを思いながら、棚から足をどけて、踏み台に体重を掛けた途端。

「う……わ!」

 ふいに足元が覚束なくなり、下に身体ごと落ちる感覚がする。ミシッという音とともに踏み台が崩れたのがわかった。
 咄嗟に植木鉢が乗っていた棚に手を掛けるが体重が支えきれなくて、棚が揺れる。乗っていた植木鉢がグラグラと揺れているのが見え、これはまずいと手を離した。

「いっ……」

 そのせいで、思いきり後方に倒れ、しりもちをつく。
 同時に、何個かの植木鉢がガシャンと割れる音が聞こえ、目の端に、川内が駆け寄ってくるのが見えた。

「てー……」

 見てみると、植木鉢が三つ、落ちていた。それ以外のものは、なんとか棚の上に持ちこたえている。
 心臓がバクバクいっている。冷汗が出た。

 目の前の惨状は、大変といえば大変だが、思っていたほどではなくてほっとする。
 しかし、植木鉢の一つ、テーブルヤシといったか、小さなヤシが植えられていたものは哀れ、植木鉢が壊れただけでは済まず、茎のところから折れていた。

「あー……」

 やってしまった。

「大丈夫っ?」

 川内の声が聞こえる。
 大丈夫、と言いかけて、留まった。

 なぜなら彼女は、俺に向かってそう言ったのではなかったからだ。
 こちらに駆け寄ってきた川内は、俺の傍にはやってはこなかったのだ。

「ああ、痛いね。うん、痛かったね」

 彼女は俺のほうをちらりと見ただけで、しゃがみ込んでテーブルヤシの鉢植えに手を伸ばした。そして折れた箇所にそっと手のひらを添える。まるでそれが治療であるかのように。

 俺は呆然とその光景を眺めていた。
 そしてそのうち、苛立ちが沸き上がってきた。
 そりゃあ確かに、俺はしりもちをついただけで、ケガ一つしていないけれど。
 それはないんじゃないか、と思う。

「なに、それ」

 思わず、口に出た。

「え?」

 川内は、顔を上げる。

「先に俺に『大丈夫?』って訊かない? 普通」

 自分で思っているよりも、冴え冴えとした声が出ている。
 川内は、少し怯えたような目をしてこちらを見ていた。

「えっ……だって」

 か細い声で返してくる。

「だって、神崎くんは……ケガしてないみたいだったから……。それで、この子は痛いって泣いているから……」
「はあ?」

 言いながら、立ち上がる。威圧的になるのはわかっていたけれど、そうしたかった。

「でも俺も一応、危なかったんだけど」
「あ、うん……」
「おかしくない?」

 そうやって川内を問いただすたび、怒りがだんだん大きくなっていくのがわかった。
 膨らんでいったその感情は、自分自身で制御できるものではなかった。
 今まで降り積もってきた不満が、一気に表に出てきたような感覚だった。

 だから、思わず言ってしまったのだ。

「だいたい、本当に痛いって聞こえよるん?」
「え」

 俺の言葉を聞いて、川内は動きを止めた。
 しまった、と思ったときは遅かった。
 川内は俯いて、なにも言わなくなってしまった。

『信じんでもええよ。でも、笑わんでほしい』

 そう言われた。その通り、俺は笑わなかった。
 けれど嘲笑の代わりに、怒りをぶつけた。

 俺はどうしても、その気持ちを止められなかったし、止めようとも思わなかったのだ。

 川内の瞳が潤んでいる。俺が、泣かせた。
 そう思ったけれど、口元をきゅっと引き結んだ彼女の瞳からは、涙は零れなかった。

「……ごめん」

 今さらながらそう言うと、川内はなにも言わずに首を横に何回か振った。

 俺は再びしゃがみ込むと、割れた鉢植えのかけらを拾い集めた。
 二人してしゃがんで向かい合って、その作業をしていたけれど、二人ともなにも言わないままだった。
 そのあと、作業を終わらせ、教室に戻る。

「おはよー」
「はよー」
「昨日、どうじゃったん?」
「うん、割とすんなり、引っ越しできたよ」
「よかったな」

 そんな話をして、席に着く。
 いつも通り。

 遅れて川内が教室に入ってきて、皆に声を掛ける。

「おはよう」
「おはよー」

 これもいつも通り。

「今日からまた復活するけえね。よろしくー」
「ホンマ? 無理せんでもええけえね」
「大丈夫よー」

 まるで、何事も起きていないかのような、朝の時間だった。

          ◇

 そうして、尾崎のじいちゃんが介護施設に入居して、園芸部の活動はまた四人に戻ることになった。

 サボテンはすくすくと育っていたし、畑のネギもピーマンもナスもあっという間にどんどん伸びていた。
 俺たちのプランターに植えられたコスモスやマリーゴールドも九月には花を咲かせるのではないかと思う。
 部員募集のポスターを何枚か描いて、生徒会のハンコを貰って、掲示板に貼ってもらった。

 なにも、問題はない。順調すぎるくらいだ。
 ただ、俺はあの翌日から、朝の温室に立ち寄らなくなっていた。
 放課後の部活も、俺は主に畑や花壇の雑草を抜いていて、温室には向かわなかった。

 なんとなくだが、あそこに今、立ち入りたくなかった。折れてしまったテーブルヤシがどうなったのかも見たくなかった。

 帰り道はいつものように、四人で帰る。俺は自転車を引き、カゴには四人分の荷物が乗せられている。
 けれど川内と俺は、必要最低限の言葉しか交わさなくなってしまった。
 なにをしゃべればいいのかわからなかったし、元々そうだと言えばそうなのだが、川内も積極的に話し掛けてくることもなかった。

 ときどき、尾崎と木下は心配そうに俺たちを見ていたが、その視線には気付かないふりをして、数日を過ごした。

          ◇

 昼食は、サボテンの芽が出てからは温室で食べるようになっていたが、俺はあの日以来、教室で食べることにしていた。
 お一人様、再び、だ。

「いやもう、ホントに暑くて。俺、暑さに弱いんよ。ホント、ごめん」

 だのなんだの言ってなんとか逃れてきたのだが、ある日の昼休憩、温室に行く前、尾崎が俺の前に立った。

ちぃと(ちょっと)話があるんじゃけど、ええ?」

 顔はニコニコと笑ってはいるが、目は笑っていない。これはご立腹だとすぐにわかった。

「先行っとこ。先」
「え、う、うん……」

 木下は川内を連れて教室を出て行く。
 それを見送ったあと、尾崎も俺を教室から連れ出した。
 そして階段の踊り場に俺を引っ張っていく。

 俺を壁際に置いてその前に立った尾崎は、いきなり足を振り上げて、ドン、と俺の横の壁に足の裏を押し付けた。
 ご立腹なんてレベルではないようだ。というか、これも壁ドンというものに含まれるのかな、とそんなバカなことを考えた。

「ウチは怒っとる」
「うん」

 見ればわかる。

「なにがあったか知らんけど、謝っときんさいね」

 その言葉に返事はしなかった。
 それが尾崎の怒りをさらに増幅させたらしい。

「なんなん? 謝る気はないん?」

 そう言って、さらに目を吊り上げてこちらを睨みつけてくる。

「それは、川内からなにか聞いて、それで俺が悪いと判断して言うとるん?」

 できるだけ冷静さを保った声でそう言い返すと尾崎は、はあ、とこれみよがしにため息をついたあと、足を下ろした。

「なんも聞いとらんよ」
「なのに俺が悪いと一方的に決めつけたん?」
「だって悪いに決まっとるもん」

 苦笑が漏れた。ここまでくると、さすが、としか言いようがない。

「まあ……俺が悪いよ」
「やっぱり」
「でも、どうしたらええかわからん……いうか」

 自分の中で、この感情をどう処理したらいいのかわからないのだ。そんな状態で謝ったって、それは意味のあることだとは思えない。
 尾崎は今度は腕を組んで、こちらを睨んでくる。

「ウチ、言うたよね?」
「……なにを」
「ハルちゃんと一緒におってって」

 言われた。確かに言われたけれど。

「あれは、尾崎が帰ってくるまでの話じゃないんか」
「そんなこと、一言も言うとらんのんじゃけど」

 そう言って、じっとこちらを見ている。
 どうやら、ご立腹なのはその約束を違えたからもあるらしい。

 そう思いながら尾崎の顔を見ていると、口元がゆっくりと動き出した。

「まさかアレ聞いて、痛いとか思うとるんじゃないよね?」
「えっ」

 アレ。
 川内が植物と会話しているということ。

 俺の表情を見てわかったのか、尾崎は大きくため息をついた。

「やっぱり聞いとるんじゃね」
「……知っとるんか」

 川内は、尾崎には言っていないのではなかったのか。
 尾崎は軽く肩をすくめながら、苛立ちを隠すことなく口を開く。

「園芸部入った言うたらさ、ご丁寧に教えてくれるバカがおったんよ。仁方から来よるの、一人じゃないけえね」

 小学時代、中学時代から逃げるように、この山ノ神高校に来たというのに、それでもまだその話が付きまとっているのか。
 それはなんだか腹立たしかった。

「それ、川内には」
「言うわけないじゃろ。ウチはチクるのは性に合わんし、それ聞いたってハルちゃんが傷つくだけじゃん。意味ないわ」
「そう」

 そう聞いて、ほっと息を吐く。それに尾崎は川内が心配していたように、『おらんようになる』ことはないのだ。よかった。

 俺の表情を見たのか、尾崎は少し首を傾げて問うてきた。

「それが原因じゃあないんじゃね?」
「ああ……、それ自体は……痛いとかは思うとらん」
「ふうん?」

 それでも疑わしそうに、こちらを眺める。
 どうやら白黒はっきりつけたいようだが、けれど誰にも踏み込んで欲しくはなかった。

「……説明する気はないんじゃけど」
「ウチにも?」
「うん。俺の問題じゃし」

 俺がきっぱりとそう言うと、尾崎は一歩下がって、そして肩を落とした。

「まあとにかく、昼は温室に来んさい。ヘラヘラ嘘つかれて気分悪いし、気まずいわ」
「……わかった」

 確かに、逃げ回っていても仕方ないのは確かだ。
 自分で言ったように、俺自身の問題で、いつかは俺がその問題をクリアしなければならない。
 それがいつになるのかは、わからない。
 けれど、逃げ回るのだけはもう止めようか、という気にはなった。

 尾崎は、くい、と指先を校舎の外に向けて動かした。

「ほいじゃあ温室行くよ」
「ああ……いや、明日からにする」
「ええ?」

 俺のその返事にどうやらご不満らしく、眉をひそめる。

「明日の朝、川内に話をする。あっちにも言いたいことがあるじゃろうし」

 それを聞いて尾崎はしばらく黙って俺を見つめていたが、少しして、はあ、とため息をついた。

「まあ……それでもええけど。じゃあ明日からね」
「うん」

 それで話はついたと思うのに、尾崎は足を動かさず、考え込んだあとに顔を上げて問うてきた。

「なんかヒントないん?」
「ヒント?」
「うん、喧嘩の原因のヒント」

 俺がだんまりのままなのが、気になって仕方ないらしい。
 ヒントねえ、と考えたあと、ぽつりと言ってみた。

「まあ、簡単に言うたら、嫉妬しとる」
「はあ? 嫉妬? 誰に?」

 訳がわからない、という風に眉根を寄せる。
 川内は大人しくて、園芸部以外では、積極的に誰かと話をすることはない。
 なのに嫉妬? と思うのは無理はないのかもしれない。

「内緒」
「……まあ、ええけどさ。嫉妬とか、こまい(小さい)男じゃねえ」
「『男じゃ女じゃ言うな。差別じゃ!』」

 尾崎の口調を真似して言った。いつか彼女が木下に言った言葉だった。
 尾崎は眉をひそめる。

はがええ(ムカつく)わ」

 それになんだか笑いが零れた。
 くつくつと笑っていると、腰のあたりを肘で小突かれる。

「まああんたも、いつまでも、はぶてとりんさんなよ」
「はぶてとるように見えるん?」
「違うん?」

 そう言われて、少し考えてみる。
 確かに、『はぶてとる(ふてくされている)』以外の何ものでもないような気がした。
 行くと決めたは決めたのだが、それでも翌朝学校に着いてから、温室に向かう決意を新たにしなければならなかった。足が重い、だなんて本当にあるんだな、と思いながら足を進める。

 温室にたどり着くと開いた南京錠が掛けられていたから、一度深呼吸をして、それから、えいっとドアを開ける。
 しかし。

「げっ」

 思わず口をついて出た。

「げっ、とはなんじゃあ、げっ、とは」

 なんとそこには川内の代わりに浦辺先生がいたのだ。
 じょうろで鉢植えに水を遣っている。じょうろを持っていたおかげで、頭をギリギリとやられる刑を免れたらしい。

 けれど、これは完全に予想外だ。
 どうすればいいのかわからなくて、途方に暮れる。

「川内か?」

 仏頂面でそう言うので、曖昧にうなずいた。

「はあ……まあ……」
「今日は日直じゃけえ、もう教室じゃ。じゃけえワシが代わりにやりよる。まあ、たまにはの」
「あ……ああ……日直……」
「なにをボーッと突っ立っとるんじゃ。入れ」

 まるで脅迫されている気分で、素直に言う通りにする。浦辺先生と温室で二人きり。あまり嬉しくない状況だ。
 これはいったいどうしたらいいんだろう、と俯いて考えていると。

「お前、元気か?」
「えっ」

 急に話し掛けられて、慌てて顔を上げて浦辺先生に視線をやる。
 しかし浦辺先生はこちらを向いていなかった。

「お、お前は綺麗に咲いたなぁ」

 じょうろで水を遣りながら、先生は鉢植えに話し掛けていた。優しい声音で。

「せ、先生……」
「ん?」
「今……」
「ああ、似合わんか」

 にやりと笑って、俺のほうに振り向く。
 開いた口が塞がらない。まさか、浦辺先生も植物の気持ちがわかるのだろうか。川内だけじゃないのだろうか。実は他にもいるのだろうか。
 そんなことをぐちゃぐちゃと考える。

「お前、知らんのんか? サボテンにはテレパシーがあるいう話」

 呆然としている俺に向かって、浦辺先生は淡々と語る。

「あ、いや、知っとるけど……」
「ずっと話し掛けて育てたサボテンは綺麗な花を咲かせるらしいけえの。ホンマかどうかはわからんが、どうせならやってみてもえかろう(いいだろう)が」

 あまりにも有名な話だ。もちろんやってみる人もいるだろう。
 サボテンは、優しくされれば喜ぶし、侮蔑されれば悲しむ。

「人間となんら変わらんよのう」
「……うん」

 心なしか、しゃべっている内に、浦辺先生の表情が穏やかになってきたような気がする。
 カタギじゃない、だなんて言われて、学校で一番怖いと噂される先生とは思えない雰囲気だ。
 先生は温室の中をぐるりと見回すと、言った。

「ワシはの、神崎。川内は植物の言葉がわかるんじゃないかって思うとる」
「えっ!」

 ぎょっとする。なんで。なんで浦辺先生がそんなこと。先生は知っているんだろうか? 川内は浦辺先生には言っているんだろうか。
 自分の不思議な力のこと。

 完全に頭の中が混乱しまくっている俺には気付かない様子で、浦辺先生はにっ、と歯を出して笑う。

「バカバカしいじゃろ?」
「……いや」
「川内には言うなよ、笑われちゃあいけんけえのう」

 そう言って苦笑する。ということは、聞かされていないってことなのだろう。
 とりあえず落ち着こう、とこっそりと息を吐く。

「あの子がこの温室を世話するようになってから、明らかにここが変わったんよな。植物の言葉を聞いて、ほいで世話しとるんじゃ。じゃけえ、変わったんじゃないかのう」

 俺は先生の言葉を受けて、温室の中を見渡す。
 居心地の良い温室。いつだって温かで、心穏かになれる場所。
 川内が作り上げた温室。

 先生は、川内になにも言われなくたって、そこに近付いたのか。この温室で過ごすうちに。この温室を見ているうちに。
 なのに、俺はいったい、なにを見ていたのだろう。
 ふと、思う。
 俺は、理解しているふりをしていただけだったのかもしれない。心の底では、なにをバカなことをって思っていたのかもしれない。

 だから、俺よりも植物を優先したことが、我慢ならなかったのかもしれない。

 優しいふりをして、ただ傍にいたいがために、理解した素振りを見せてきたのかもしれない。
 実は、信じようともしていなかったのかも、しれない。

「川内だけじゃのうて、ワシも、お前も、たぶん皆、聞こえるのかもしれんぞ。聞く気になれば」

 穏やかな声が耳に入ってくる。
 俺は緊張を解いて、ベンチに腰掛ける。なぜか、浦辺先生の言うことを素直に聞けた。心を穏やかにしようと務めてみた。

 もしかしたら、俺にもわかるのかもしれない。彼らの気持ち。

「ここに来ると穏やかになれると思わんか? 川内が丁寧に手入れしてくれるおかげでそうなんじゃないかと思うがのう」

 そうだ。いつもここに来ると、安らげた。それは川内がいたからかもしれないけれど。

 でも。
 なぜだろう。今日はなんだか落ち着かない。川内がいないからかもしれない。浦辺先生と二人きり、なんて状況だからかもしれない。

 でも、それだけじゃないような気がした。
 さっきから、なにか、嫌なものが俺に向けられている気がして仕方ない。

 ……敵意。あるいは、悪意。
 そういうものを向けられている。そう感じた。

 ゾワッとなにかが身体をすり抜けた。暖かいのに、寒さを感じて二の腕を擦る。
 なにが、誰が、それを俺に向けている?

「お前ら、付き合うとるんじゃろ?」

 急にそう言われたので、驚いて顔を上げて浦辺先生のほうを見る。けれど、先生はもう俺に背を向けて、水遣りを始めていた。

「えーっ……と、あの」

 もしかしたら、学生は勉強が本分、なんて怒られるのかと考えて、どう答えようかとしどろもどろしていると、浦辺先生は再び振り向いた。

「別に隠すことでもないじゃろ」
「……はあ、まあ……」
「なんだかな、最近元気がないけえ。喧嘩でもしとるんか?」
「いや……喧嘩っていうか」
「謝っとけ」
「え?」

 尾崎と同じことを言うので、思わず聞き返す。浦辺は少し声を大きくして、再び言った。

「謝っとけ。どうせお前のほうが悪いんじゃ」
「ひどっ」

 もう苦笑いするしかない。
 しかし浦辺先生は少し首を傾げる。

「川内のほうが悪いんか?」
「いや、悪くない……けど」
「ほうじゃろ。じゃけ、謝っとけって。こんな綺麗な花を咲かせる子が悪いわけがなかろうが」

 ムチャクチャだ。俺の言い分は聞く気はないらしい。まあだいたい正解なので、それはいいのだが。

 ふと視線を上に向けると、あのテーブルヤシがあった。
 折れた茎のところに添え木がしてあって、ぐるぐるとテープを巻いている。ちゃんと繋がっているのか、まだ葉は青々としていた。

「あ」
「ん?」

 俺の視線の先を追って、先生もそのテーブルヤシを見る。

「ああ、これか? 折れたみたいなけえ、川内が治療しよったぞ」

 治療。まるで、人間みたいだ。でも、他に当てる言葉はない気がする。

「これ、俺が不注意で……」
「ああ、じゃ、踏み台壊してしもうたのお前か」
「……すみません」

 思わず謝ると、浦辺先生は古かったからな、とつぶやいた。

「謝っとったほうが……ええよな」

 俺が小さく言った言葉に、先生は首を傾げる。

「テーブルヤシにか。それとも川内にか」

 俺はちょっとの間考えて、そして言った。

「……どっちも」
「そりゃそうじゃろ」
「……うん」

 そうつぶやいて黙り込んでいると、浦辺先生はテーブルヤシを指差して言った。

「こっちはすぐに謝れるじゃろ?」
「えっ」

 思わず顔を上げて、先生を見る。

「今?」
「今」

 冗談かと思ったけど、浦辺先生は真剣な様子でうなずいた。戸惑っていると、さらに浦辺先生は言葉を継いでくる。

「嫌なんか?」
「嫌じゃないけど」

 これは、逃れられそうもない感じだ。
 人前でそうするのはかなり抵抗があったけど、俺は立ち上がってテーブルヤシの前に立ち、見上げた。
 もう一度浦辺先生のほうへ振り返る。先生は、顎をしゃくって、ほら、と俺をうながした。

 こうなったらもうヤケだ。俺は思い切り頭を下げた。

「すみませんでした!」

 温室の中に静寂が訪れる。俺は頭を下げたまま、ただ時間が過ぎるのを待った。
 すると。
 感じた。さっきまで俺に向けられていた敵意が波が引くように去っていく。いつもと変わらない温室に変化していく。

 慌てて頭を上げて、きょろきょろと辺りを見渡す。変わった。空気が。
 愕然と立ちすくむ。
 嘘だろう?

「どうかしたんか?」

 先生が首を傾げている。

「いや……」

 確かに、感じられた。俺にも。
 川内のようには受け止めてはいないのだろうけれど、確かに感じた。
 呆然としている俺に、浦辺先生が声を掛けてくる。

「どうした?」
「俺」

 慌てて、ドアに向かって駆け出した。

「謝らないと」
「おい、神崎!」

 呼び止められて、振り向く。浦辺先生が苦笑しながら、言った。

「お前ええ加減、卒業までには敬語を使えるように、ちっとは気を付けとけ」
 その足で教室に向かう。
 日直だというのなら、教室にいるのだろう。
 校内はまだ時間が早いからか、パラパラとしか生徒はいない。どこからか運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。

 教室にたどり着く。後ろの扉から中をそっと覗いてみると、川内が黒板に向かっていた。チョークを持って、日付を書き直しているようだ。

 教室には、一人しかいない。

「お、おはよう」

 意を決してそう話し掛けると、川内は驚いたように、バッとこちらに振り向いた。
 そして何度か目を瞬かせたあと、小さな声で、「おはよう」と返してきた。

「あの……」

 俺はそっと歩み寄った。足音一つたてないように。そうしなければ、逃げ出される気がして仕方なかった。

 川内に近付き過ぎないように、離れた位置で足を止める。
 それから、いったん口を開きかけてはみたけれど、なにから言えばいいのかわからなくなって、黙り込んでしまった。

 川内はちょっと首を傾げて、俺を見つめている。

「あ、えと、日直、忙しい?」

 邪魔をするのもなんなので、そう問うてみる。
 川内はゆっくりと口を開いた。ものすごく久しぶりに声を聞くような気がした。

「ううん、もう終わる」
「……そう」

 それから、少しの静寂が訪れる。気まずいこと、この上ない。

「あの……」

 とにかく、なにか言わないと。

「あの……俺、あのテーブルヤシに謝ったんじゃ」
「うん」

 川内は俺の言葉に首を傾げることなく、うなずいた。
 それから、ゆっくりと微笑んだ。

「うん、知っとる」
「え」

 川内は開いている窓の外に目を向けて、それからもう一度こちらに振り向いてから、言った。

「皆が教えてくれたけえ」
「えっ、伝播するもんなんっ?」
「いつもじゃないけど」
「あ、そう……」

 そう呆けた返事をして、しばらくじっと川内の顔を見つめてしまう。

 なんだ、と思った。なんだか力が抜けた。
 なんだって、バレちゃうんだな。
 これは、敵わない。

 そう思うと、口から小さく笑いが漏れた。

「なに?」

 川内は首を傾げる。
 俺は慌てて顔の前でひらひらと手を振った。

「あ、いや、あの……ひどいこと言って、ごめん」

 そう言って頭を下げる。
 少しして、ちらりと川内を見ると、彼女は首を横に振った。

「ううん、私も、悪かったけえ」
「いや……」

 そしてまた、気まずい空気が流れる。
 これはこれからどうしたらいいんだろう。

「あ」

 ふいに川内が声を上げる。

「え」
「一年生が、温室に来とる」
「えっ?」
「たぶん、入部希望。早う行ってあげんと、先生しかおらんよ」

 チョークを置いて、慌てたように川内は歩き出す。
 すごい。そんなことまでわかるのか。

 俺は階段を降りるところで、川内が歩く横に追いついた。

「浦辺先生が顧問じゃって知ったら、逃げるかな」
「かもしれんね」

 苦笑しながらそう返してくる。
 なんだか自然で、もうわだかまりはないように感じた。
 これは仲直り、ということでいい気がする。俺はほっと息を吐いた。

 それにしても、植物の言葉が聞けるって、すごい。ここまでとは思わなかった。
 きっと本当に、温室の前に一年生がいるのだろう。

 確信を持って、そう思う。
 今は川内の力が信じられた。

 ほんと、敵わない。
 悪いことできないな。もし秘密ができたら、周りに植物がないか確認しなきゃいけないよな。
 ……たとえば、そう。エロいこととか……。
 うん、部屋には絶対に植物は置かないようにしよう。

 なんてくだらないことを思っていると、ふいに横を歩く川内がぴたりと足を止め、俺のシャツの袖をくいっと引っ張った。

 そちらに振り向くと、彼女が俺を見上げていた。少し睨んでいるような目つきだった。

「……なに?」

 仲直りしたと思ったのは俺だけで、川内はまだ怒っているのだろうか。
 すると川内は少し口を尖らせて、言った。

「今、なにか悪いこと考えよったよね?」
「えっ、いや別に?」
「嘘。わかるんじゃけえね」

 それから彼女は俺を睨むようにじっと見つめてきた。

 なんでわかったんだろう。
 辺りを見渡す。ここは階段の踊り場で、周りに特に植物は見当たらない。
 じゃあどうしてわかった?

 となると、もしかして。
 つまりこれは、女の勘ってやつなのかもしれない。

 そういえば、尾崎もやたらに勘が鋭い。
 植物がどうこう以前に、女の子という人種には、なんでも読まれてしまうのか。

 しかし一応、否定はしてみる。

「いや、悪いことなんか考えとらんよ」
「嘘」
「ホントだって。早く行こう」

 俺は川内の手を握って引っ張る。川内はみるみるうちに頬を紅潮させた。

「もう! こんなんでごまかされんのんじゃけえね!」
「うん、わかった」

 前を向いて、川内に見えないように、こっそりと息を吐く。
 これは絶対に勝てない。

 俺は心の中で木下に呼びかける。
 俺たちは、尻に敷かれるしかなさそうだよ。

 そんなバカなことを思いながら、俺は川内の手をしっかり握ったまま、足を進めたのだった。

          了

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