それは、高校に入学したその日のことだった。
今でもその光景を、鮮明に思い浮かべることができる。
入学式が始まる前、俺たち新入生は男女入り混じってのあいうえお順で、体育館の外の通路に並ばされていた。
一クラスずつ中に入って椅子に順に座るように言われていたけれど、前のクラスが手間取っているのか、俺たちはなかなか体育館の中に入ることができずに通路に立ちっぱなしにさせられた。
先生たちは、『私語は慎むように』って言っていたけれど、そんな注意は必要なかった。なぜなら皆、顔見知りが周りにいないのか、黙り込んだままだったからだ。
しばらくして列が進みだしたので、俺はほっと息を吐きながら、一歩前に踏み出そうとした。が、前の女子が動かなかったので足を止める。彼女の前が少しずつ空いていく。
彼女は体育館の脇、すぐそこにある桜の木を眺めているようだった。枝が四方に大きく広がり、俺たちの頭上にまで伸びている。見とれるのも無理はないか、と思えるほど、満開の桜は誇らしげに咲いていた。
とはいえ、そのままでいるわけにもいかない。俺が彼女に声を掛けようとしたその瞬間。
目前にひらりと桜の花びらが舞った。俺は声を掛けようとしたのも忘れ、思わず視線を頭上に移す。
視界いっぱいの、花びら。
「うわっ」
「きれーい」
黙りこくっていた新入生たちが、一斉に声を上げた。
桜吹雪。舞い散る花びらが俺たちに降りそそぐ。それは、俺たちの入学を祝うかのように。
嘘だろう。
俺は呆然として、その光景を見つめた。
……風も、ないのに。
いや、まったくの無風というわけではなかったかもしれない。さわさわと花を揺らす程度の風ならあったかもしれない。でも、少なくとも、あんなにたくさんの花びらが一斉に散るほどの風は、なかった。
皆、桜を見上げて両の手の平を前に差し出したりしていた。今日初めて顔を見るのだろうに、互いに髪や肩についた花びらを、笑顔で取り合ったりもしていた。
綺麗な光景に目を奪われて、誰もそのことには気付いていないのだろうか? それとも、俺だけが風を感じなかったのだろうか?
目の前に視線を移すと、俺の前に並んでいた彼女は口の端を少しだけ上げて微笑んでいた。
そして誰にもわからないくらい小さく、頭を下げた。
桜の木のほうへ。
「なにを騒いどるんじゃ、早う中に入れ」
担任の先生の声がして、彼女は小走りで前に進む。俺も慌ててそのあとに続いた。
体育館の中に入って、折り畳み式のパイプ椅子に座って、入学式が始まって、長々とした校長先生の話の最中も、俺の頭の中はさっきの光景でいっぱいだった。
ちらりと横を盗み見ると、彼女は少し俯いて、きちんと膝の上に手を組んで、静かに座っていた。
ええと、か、川……川内。そうだ、川内。
式の入場のために並ばされたときに、確か担任の先生がそう呼んでいた。
どこにでもいる普通の子。真っ黒でまっすぐな髪を肩のすぐ下あたりまで伸ばしている。太っているわけでもなく痩せぎすなわけでもない。身長が高いわけでもなく低いわけでもない。どちらかというと、印象の薄い部類に入ると思う。
でも俺の中で彼女は、その光景とともに強く印象付けられた。
けれど、それから彼女と親しく話をしたりすることはなかった。
入学して一年が過ぎても。偶然にも、二年に進級して同じクラスになっても。特に用事のないとき以外は、言葉を交わすことはなかった。
いつも変わらず出席番号は前後なのに。
「っはー、帰りてー」
教室に、そんな声が響いた。まだ一時間目の古典の授業が終わったところだった。
それを口にしたのは、尾崎千夏。
俺の前の前の出席番号の女子だ。
「千夏ちゃん、まだこれから二時間目だよ」
そう苦笑とともに答えたのは、尾崎が座る席のすぐ後ろの席にいた川内遥だった。
まだ二年生になったばかりなので、教室の座席は出席番号順になっている。なので俺の席はその後ろだった。
窓際なので、ずっとこのままでいたいと、二人とも思っているに違いない。もちろん俺もそう思っている。
「だって、すげえ眠いんじゃもん」
「暖かいけえね」
眉根を寄せる尾崎に向かって、川内はくすくすと笑いながら応えている。
尾崎が自分の机と川内の机を肘掛けのようにして腕を置き、片足を立てて足裏を椅子の端っこに置いて座っているのに対し、川内はきちんと前を向いて行儀よく座っている。
出席番号が前後とはいえ、この二人が仲がいい、というのは信じられない。
茶髪の先がほとんど金色になってしまっている尾崎と、まっすぐな黒髪の川内は、どう考えても別グループになりそうなのに、いつも二人で一緒にいる。
一年のときは川内は三組で、尾崎は二組だったから、二年になってから初めて同じクラスになって交流し始めたはずだが、まるで一年のときからずっと一緒にいた友だちのような雰囲気を醸し出している。
俺なんか、川内とは一年のときから同じクラスで出席番号が前後だったというのに、未だロクに会話もしていない。
もちろん、尾崎が女子で俺が男子という、どうしようもない違いがあるので、比べられるものでもないというのはわかってはいる。
わかってはいるが、情けない。
「やっべ、これ次の世界史、ぜってえ寝るわー」
天井を仰ぎ見て、女子とは思えない言葉遣いで大声を出す尾崎に、川内は困ったように首を傾げている。
いやこれ、女子と言い切っていいものだろうか? という疑問を胸に抱いたところで。
ふいに、俺の後ろの席から声が上がる。
「うるせえよ、尾崎」
後ろの席にいるのは、木下隼冬。こいつも確か一年のときは二組で、だから尾崎とは一年のときから同じクラスのはずだ。
「ああ?」
尾崎が眉をひそめて顔をこちらに覗かせる。
割と綺麗な顔立ちはしているけれど……やっぱり言動が女子じゃない。
実のところ、俺は少々ビビッてしまっているのだが、後ろの木下は慣れているのか意に介さない様子だ。
「声がでけえよ」
「あーあースミマセンねえ」
「なんじゃあ? その態度は」
「謝ったじゃろ? もうそっちがうるさいわ」
「はああー?」
いやもう二人ともうるさい。
それに、間に挟まれた俺は、なんだかいたたまれない。川内だってそうなんじゃないだろうか。
そう思っていると、ふいに川内がこちらに振り向いた。
じっとその後姿を見ていた俺は、ばっちりと川内と目が合ってしまい、どうしようかとおろおろとすると、彼女は小さく会釈してにっこりと微笑んだ。
そこで、二時間目の予鈴が鳴り響いた。
「千夏ちゃん、先生来るよ」
慌てたように川内が尾崎に話しかけている。
尾崎はまた天井を仰ぎ見て、ため息とともに言った。
「はー、もう始まるんか」
「眠気、飛んだ?」
川内の穏やかな声がして、尾崎は振り向く。
そして口の端を上げると、「うん」と素直にうなずいて、前の黒板のほうを見るように座り直す。
俺の肩に、ちょいちょいと何か触れる感覚がしたので首だけで振り返ると、木下が顔の前に手刀を作ってひそやかな声で言った。
「悪ぃ、神崎。なんかイライラしてしもうて。うるさかったじゃろ?」
うん、うるさかった。とは言えなかった。
「いや、そうでもなかった」
「ほいならええけど」
そこで本鈴が鳴り、俺たちは黒板のほうに向く。
本鈴と同時に教室の前の扉がガラッと開いて、世界史の先生が入ってきた。
これは教室の外で待っていたのではないだろうか、とヒヤッとしてしまう。
「きりーつ」
日直の号令とともに、皆がガタガタと椅子から立ち上がる。
「礼」
「よろしくお願いしまーす」
「はい、よろしくお願いします」
「ちゃくせーき」
そしてまたガタガタと皆が椅子に座る音がする。
「出欠はー、空いとる席がないけえ、皆おるなー?」
「はーい」
そんないい加減な出欠確認から、二時間目の授業は始まった。
俺はふと、窓の外に目を向ける。
窓からは、校門の近くに植えられた桜の木が見えた。
今まさに満開で、俺は入学式のときのことを思い出す。
去年は確か、少し早めに満開になったのではないかと思う。まるで、入学式に合わせたかのように。
俺たちが通うこの広島県立高校は、山ノ神高校。高校名からして、山の上にあるのが丸わかりで、皆の気のせいかもしれないが、酸素が薄いともっぱらの評判だ。
標高が高いためか市の中心部に比べて気温が低く、例年、桜が咲くのは遅めなのだと聞いた。
ハラハラと舞い散る桜は、あの日まるで、俺たちの入学を祝っていたようだったけれど。
でも桜が本当に祝ったのは、川内だけだったのかもしれないな、と俺は前の席のまっすぐな黒髪を見つめながら、そんなとりとめのないことを思ったのだった。
その日の昼休みのことだ。
まだ新しいクラスになったばかりで、誰かと向かい合わせに弁当を食べるというところまで来ていない俺は、ガサガサとカバンからパンを取り出した。
一年の頃に一緒にいたヤツらは、みんな理系クラスに行ってしまって、文系の俺だけがボッチになってしまった。……少々、寂しい。
制服のブレザーのポケットからスマホを取り出す。授業中はもちろん禁止で電源を切っていないといけないが、昼休憩の間は特になにも言われない。
スマホはお一人様の必須アイテムだな、としみじみと思う。
とはいえ残念ながら基本プランなので、動画なんかを見てしまうと、あっという間にデータ通信料が上限に達してしまう。なにか通信料を食わないいい暇つぶしはないかとスマホの画面を見る。
「……くん」
ざわざわと、教室は騒がしい。
「あの……神崎……孝明くん」
ふいに自分の名前が読み上げられて、驚いて顔を上げる。
すると、俺の机の横に川内が立っていた。なにか連絡事項でもあるのかと思ったが、彼女はなにか言いたげに、もじもじと両手の指先を弄んでいる。
いったい、なにが起こっているんだ。
「な、なに?」
思いがけず声が上擦っていて、俺は慌てて咳払いをする。なぜかごまかさなければならないような気になったのだ。しかしそれもわざとらしかったか、と冷汗が出る。
というか、どうして俺はここまで動揺しているのか。話し掛けられたくらいで。
川内は俺の動揺に気付いているのかいないのか、やっぱりもじもじとしながら、ゆっくりと口を開いた。
「えーとね、あの……。えっと……お昼、一緒に食べん?」
「はっ?」
あまりにも予測できない言葉が出てきて、俺の声はさらに上擦った。
少々音量もあったので、驚いたのか、川内は一歩、後ろに下がった。
「あっ、ごめんね、嫌ならええんじゃけど」
ぼそぼそと川内はそんなことを口の中で言う。
「いやっ、嫌じゃない、けど、なんで?」
男同士ならわかる。女同士もわかる。
けれど、男女が一緒にお昼を食べるというのは……あ、いや、いた。教室の隅にちらりと視線を向けると、一年のときから付き合っているという、佐々木と寺本が一つの机を挟んで向かい合わせに座って、楽しそうに弁当を広げていた。
いやこれは例外か。
川内は俺から目を逸らしたまま、小さな声で続ける。
「えーと……話、あるけえ」
「は、話? なんの……」
「はーい、ごめんなさいねー」
どきまぎしている俺の言葉を遮るように、そんな声が響いて、続いてガタガタと机と椅子を動かす音がする。
「もー、なんかたいぎいわ。そんなんしよったら、昼休憩が終わるわ」
「千夏ちゃん」
心底呆れたような顔をした尾崎が川内の机を持ち上げて、俺の机にくっつけていた。
「はい、木下も」
「はあっ?」
突如、尾崎は後ろの木下にも声を掛ける。言われた木下は素っ頓狂な声を出してしまっていた。
「なんでワシも」
「ええじゃん、あんたら二人ともボッチ飯なんじゃけえ。はいはい、こっち来て」
なぜか尾崎がその場を仕切りだして、俺たちは大人しくそれに従う。
教室にいたクラスメートたちは、なんかやってる? という表情をしていたが、特に興味はなさそうで、すぐに自分たちの昼飯に取り掛かっていた。
ぶつくさ言いながらも、木下は立ち上がって自分の椅子を持ち、こっちにやってくる。
なんだかんだで、木下は尾崎に弱い気がする。
俺たちは二つの机をくっつけた周りに椅子を四つ囲ませて、それぞれに座る。女子二人はお弁当を机の上に置いた。
「話、長うなりそうなけえ、まあお弁当でも食べながら話をしようや」
場が整ったことですっきりしたのか、尾崎はニコニコと笑いながらそんなことを言う。
「話って……なに?」
川内が俺に話があるのかと思っていたが、この様子では、川内と尾崎の二人が、俺と木下に話がある、ということのようだ。
……俺がときめいた時間を返してほしい。
「あっ、それはね、ハルちゃんから」
ニコニコとしたまま、尾崎は手のひらで川内を指す。
指された川内は、恥ずかしそうに少し俯いた。
「えと、お弁当、食べながらにしよう?」
「ああ、ほうじゃね」
それで俺たちはそれぞれ、机の上に昼飯を出す。女子二人は弁当箱を開け、木下と俺はコンビニおにぎりとパンを並べた。
ガサガサとパンの袋を開けていると、おにぎりの包装フィルムを剥がしながら木下が口を開いた。
「で、話ってなんなん?」
「まあ、そがあに焦りんさんなや」
苦笑しながら尾崎が言う。
「焦っとらんけど、そうもったいぶられると気になるじゃろうが」
少しふてくされた様子で、木下が答える。
「いやー、もっとパッパと話が終わる思いよったんよ。でもハルちゃんがいつまでもモジモジしよるけえ、こうなっただけ」
言われた川内は、また少し俯いた。
「今まであんまり話したことなかったけえ、なんか話し掛けづらくて……ごめんね」
その川内の言い訳に、尾崎は俺のほうに顔を向ける。
「てか、あんたら、一年のとき同じクラスじゃなかったん」
「ああ、同じ。三組」
「うん……同じじゃったけど……、あんまり話はせんかったよね」
ちらりとこちらに視線を移して、川内は少し首を傾げた。
「ああ、うん」
俺はこくこくとうなずく。
「で、話ってなんなん」
木下はそう言ってから、おにぎりにかぶりついた。
焦っているということはないだろうが、さすがに引っ張り過ぎではないかと、俺も思う。
しかしまだ川内は、「あの……」とか「えーと」とか、モジモジと言い淀んでいる。
「もうー、パッパと言いんさいや」
尾崎に急かされ、覚悟を決めたように、川内は顔を上げた。
「あのねっ」
「うん」
ようやく話が始まったか、と俺たち三人は昼飯に手を付ける。
川内は、ふう、と一つ息を吐いて、そして続けた。
「実はね、私、園芸部なんじゃけど」
「園芸部」
「園芸部なんかあったんか」
俺と木下は、そう声を上げる。本気で知らなかった。
「う……うん」
その言葉に川内は一瞬ひるんだようだけれど、しかし続けた。
「入部……してくれんかなーって思うて」
「え?」
勧誘か。なんだ。
少々がっかりはしたが、なるべくそれが顔に出ないように気を付けながら、俺は手の中にあるソーセージパンにかぶりついた。
川内は小さな声で続ける。よく耳を傾けていないと聞こえないかもしれない、という声だ。
「顧問の先生がね、男手があったらええって言うて、クラスの男子に声かけてみろって言われて……」
「あんたら、帰宅部じゃろ? 他の男子はなんかどっかの部活に入っとるみたいなし」
そう尾崎が補足する。
この一組は文系クラスで、女子が圧倒的に多い。三十名のうちの八名が男子という構成だ。少々、肩身が狭い。
確かに、残りの六人を見渡してみても、サッカー部とか吹奏楽部とかだったような覚えがある。
「園芸部ってなにするん?」
木下がそう言い、川内がそれに答えた。
「花壇に水やったりとか……」
「うっわ、たいぎいー!」
大声を上げてしまった木下を見て、川内はまた俯いてしまう。彼女の弁当は手付かずのままだ。
尾崎がその様子を見て、助け船を出した。
「でも、なんか部活やっとったら、内申点が良うなるかもしれんよ。面接とかで、帰宅部ですーって言うより、部活やっとりましたって言うたほうがええじゃん」
「あー、まあ、そりゃそうなんじゃろうけど」
木下が頭を掻きながら、一応は尾崎の言葉に同意する。
「でも園芸部かー。ほら例えば、ダンス部あるじゃん。あんなんだったら」
「ダンス部いう柄かよ」
尾崎が木下の言葉に鼻で笑う。それにムッとしたように、木下は眉をひそめた。
「笑わんでもええじゃろ」
「笑うわ、あんたがダンス部とか」
そんな風に二人が軽口の応酬をしているが、川内はなにも言わずに俯いたままだ。
それを見ていると、なんだか胸が痛んだ。俯かせているのが自分のような気がして仕方ない。
だから俺は言った。
「俺、入ってもええよ」
「ホンマっ?」
川内がパッと顔を上げた。喜色満面、という表情だった。
早まったか、と少し思わないでもなかったが、その顔を見たら、まあいいか、という気持ちにもなった。
「ええー、マジか、神崎」
「いやまあ、内申が良うなるんなら、それもええか思うて。どうせ帰宅部じゃし。塾とか行きよるわけでもないし」
「まあのう」
俺が慌てて言った弁解に、木下はあっさりと乗った。
「ほいならワシも入っとこうかのう」
「ホンマ? 良かったあ」
川内が胸を撫で下ろす。そしてふわりと笑った。
なんだかまたどぎまぎしてきて、俺は慌ててパンを齧る。
「ほいでも、そんなに熱心にはやれんで?」
木下は川内のほうに顔を向けて言った。尾崎に対してとは違って、ずいぶん柔らかい口調だ。
「うん、ええよ。ときどき手伝ってくれたら」
木下の言葉に、川内はこくこくとうなずいている。
「ほいならええかあ」
木下は、そんな風に言うけれど。
もしかしたら最初から入部してもいいかと思っていたのかもしれない、とそんな気がした。
園芸部にいるのは、川内だけじゃない。
「川内の他には誰がおるん?」
木下は、そんなわかりきった質問を川内に言う。それを受けた彼女は、尾崎のほうを見て微笑んだ。
「今は、私と千夏ちゃんだけ」
「なんじゃあ、尾崎もおるんかあ」
わざとらしく木下が声を上げる。いや絶対これ、誤魔化しているんだろう。
尾崎はムッとしたように、口を尖らせる。
「ウチがおったらいけんのん。だいたい、ウチもさっきから勧誘しよったろ?」
「川内の手伝いなだけかと思うて。それこそ園芸部いう柄じゃないけえのう」
「はがええわ」
そんな風にまた、尾崎と木下が軽口を叩き合う。
はたから見ると、じゃれ合っているようにしか見えない。
「ありがとね」
川内がにこにことしながらこちらに言う。
「ああ、うん。別に、礼を言われることでもないけえ」
「でも、ありがと」
ほっとしたのか、川内は初めて弁当に手を付けた。卵焼きを箸で半分に割って、それを口に運ぶ。ぱくっとくわえてモグモグと口を動かしている様が、小動物みたいで可愛いな、と思った。
その日の放課後、俺たちは早速部室に案内された。
「部室いうても、部室って感じじゃないんじゃけどね」
苦笑しながら川内が言う。
連れていかれたのは、体育館の横にある、小さな温室だった。
まさかこんなところに誘導されるとは、と、木下と顔を見合わせる。
入り口には南京錠が掛けてあって、川内がガチャガチャと鍵を開けている。
「どうぞ」
扉を開けて、川内がそう言った。俺たちは恐る恐るといった体で、中に足を踏み入れる。
名前も知らない花が、鉢に植えられて並べられているのが目に入る。いや、たまには知っている花もあるけど。パンジーとか。
温室は外からは何度でも見たことはあるけれど、中に入ったことはなかった。なんとなく、普通の生徒は入ってはいけないような気がしていたのだ。
まだ外は少し肌寒いけれど、さすがは温室、暖かい。
中は意外に広くて、通路になっているところに木製の背もたれがないベンチが一つ、それから折り畳みのパイプ椅子がいくつか畳んで置いてある。
「はい、座って座って」
やっぱり尾崎がその場を仕切っている。
女子二人がベンチに並んで座る。なので必然的に俺たちはパイプ椅子を広げて座ることになった。
「二人しかおらんし、部室とか貰うても仕方ないけえね。じゃけえ、ここが部室なんよ」
「なるほどねえ」
初めて入ったその場所がなんだか物珍しくて、きょろきょろと辺りを見渡してしまう。
階段のようになっている棚が所狭しと置かれていて、その上にプランターや植木鉢が並ぶ。棚がないところには、背の高い観葉植物が置いてある。壁を見るとアナログの針時計のような温度計があった。
「たちまち、入部届書いといてもろうてもええ?」
川内が立ち上がり、温室の隅にある棚に向かう。
肥料やらじょうろやら、なぜか筆立てなんかも雑多に置かれた古い木製の大きな棚で、小さな引き出しが付いていた。彼女はそこから二枚、紙を取り出し、さらにバインダーを二つ棚から取り出し、筆立てから二本、ボールペンを抜いた。
こちらに歩み寄りながら、それぞれをセットし、そして俺たちに差し出した。
「はい」
木下と俺は素直にそれを受け取る。見てみれば、クラスと名前を書けばいいだけの、簡単なものだった。今まで帰宅部だったので、見たことすらない代物だ。
特に拒否する理由もないし、入部は決めたことなので、俺たちはなんの疑問もなく、その紙に自分のクラスと名前を書き込んだ。
「これでええん?」
木下と俺はほぼ同時に書き終わり、バインダーごと入部届を川内に渡す。
「うん、ありがと」
そう言って微笑むと、川内は二枚のバインダーを胸に抱える。
「よかったあ」
「よかったねえ」
川内と尾崎が顔を見合わせて笑い合っている。
「なんじゃ、大げさなのう」
呆れたように木下が言った。
「先生が、絶対二人を勧誘せえって言うたけえ」
「ほんまほんま。よかったわ」
ニコニコとしながら、女子二人が言う。
「……へえ?」
……なんだろう。
なんだか、嫌な予感がしてきた。
どうやらその予感は木下もしたようで、こちらに不安げな目を向けてきた。
なので、それを口にしてみる。
「聞いとらんかったけど……顧問って誰なん?」
俺の質問に、女子二人は顔を見合わせて。
それから川内は少し俯いて、尾崎はニヤリと笑った。
「今日、職員会議が終わったらここに来るって言いよったけえ、それまでのお楽しみ」
底意地の悪そうな声で、尾崎が言う。
「はあ?」
「ご、ごめんね。入部届書くまでは言わんほうがええって言われとって……。あっ、隠しとったわけじゃないんよ、訊かれたら言うつもりじゃったんじゃけど、ここまで訊かれんかったけえ」
言い訳がましく川内が続ける。
「え?」
「おおー、来たか」
そのとき、温室の扉が開いたと同時に、野太い声が響いた。
慌てて振り向く。そこにはヨレヨレの白衣を着た先生が一人、立っていた。
「えっ」
「げっ」
「げっ、とはなんじゃあ、げっ、とは」
ズカズカと中に入ってくると、その人は木下の頭を、上から掴むように握った。俺は「えっ」だったのでセーフらしい。
「いたたたた」
木下は自分の頭をつかんでいる手の手首を両手で握って抵抗しようとしているが、体勢もあって相手のほうが力が強い。
「痛うなかろうが、これくらい」
「痛いってえ!」
「ほうか、すまんのう」
ははは、と声を上げて笑うと、すぐに手を離す。
「よう来たのう。歓迎するで」
ニコニコとしながらそう言うその人は、生物教師、浦辺。間違いなく、この山ノ神高校で一番恐れられている教師だ。
がっちりした体格に、無精髭。それだけで、かなりの威圧感がある。しかも広島弁が割とキツくて、生徒の間では「カタギじゃない」だなんて話もあるくらいだ。
外見にふさわしく厳しい人で、制服に校章を付けていなかっただけで、一時間の説教は覚悟しなければならない。
そんな、教師。
「園芸部の顧問って……」
呆然としながらそう言うと、浦辺先生は口の端を上げて言った。
「ワシじゃ。よろしゅう頼むで」
俺たち二人はそれを聞いて、がっくりと肩を落とした。
「騙されたー!」
帰りの道すがら、木下はいつまでもそうわめいていた。
「人聞きの悪いこと言いんさんなや。騙しとりゃあせんわいね。言わんかっただけで」
「同じことじゃ」
ブツブツと続ける木下の横で、尾崎が笑いながら応えている。
この山ノ神高校はバスで通う生徒が多いのだが、最寄りのバス停からは、徒歩十五分かかる。いくらなんでも遠すぎると思う。
遠いだけならまだしも、ほとんどが坂道なのがつらい。住宅街を抜け、心臓破りの坂道を上ったところに高校は建っている。まあ、とはいえ帰りはほぼ下り坂なので、朝よりは帰りのほうが楽だ。
シャトルバスを出してくれればいいのに、どうやらそういうことは今後もないらしい。生徒は黙々とバス停と学校まで間の道のりを歩くしかない。
そこで、他の高校に行ったやつらによく言われることがある。
「山ノ神って、カップルが多いよな」
このバス停までの長い距離のせいで、カップルが生まれやすい、ということのようだ。
それは、入学前から言われていた。
ので、実は少々期待していたのだが……残念ながら、その恩恵には与っていない。
けれどこうして歩いていると、確かにカップルが目に付く。
自転車を押しながらそんなことを考えていると、自転車を挟んで左隣にいた川内が、おずおずと上目遣いで話し掛けてきた。
「ごめんね、騙したみたいで……」
「えっ、ええ、ああ、別に」
俺は自転車のハンドルを握っていた左手を離すと、ひらひらと振った。
「誰が顧問でも、別に構わんかったけえ」
「ほう? ほいならええけど」
川内は安心したように息を吐く。
木下が後ろを歩く俺たちのほうに首だけ振り向いて言った。
「いうか、神崎って、焼山なん?」
「ああ、うん」
焼山は、このあたりの地名だ。山ノ神高校の名前と同じく、地名でどんなところかわかってしまうのが悲しいところだ。
自転車で通うのは、ほぼ間違いなく焼山の人間なので、それがわかったのだろう。
俺たちは出席番号が並んではいるけれど、まだ二年に進級したばかりなのもあって、さして親しく話をしたことはない。特に俺は、他の三人とはほとんど言葉を交わしたこともない。なので基本情報は誰も知らないのだろう。
「木下は? どこ?」
これもいい機会だと、俺もそう質問してみる。
「ワシは和庄。尾崎も」
言われた尾崎もうなずいている。
呉の中心部に近いところだ。ちょっと羨ましい。
「家が近いけえ、幼稚園から一緒じゃわ」
「腐れ縁よのう」
「ウチに付いてきんさんなや」
「アホか! 付いてきたわけじゃないわ!」
そう言ってじゃれ合っている。いや本人たちがどういうつもりなのかは知らないけれど、どう見てもじゃれ合っているようにしか見えない。いつものことだ。
「川内は?」
最後の一人に訊いてみる。川内は少しこちらを見上げて言った。
「私は、仁方」
「仁方ー? 遠っ!」
前にいる木下が大声を上げる。
この長いバス停までの道のりを歩いたあと、バスに乗って呉駅まで二十分。そこから……。
「仁方って、広より向こうだっけ」
「うん、そう。広の次」
川内はこくりとうなずく。
とすると、呉駅から四つ目か。二十分くらい掛かるんじゃないだろうか。乗り換えがすべて上手くいったとしても、最低でも片道一時間はかかるだろう。
「もっと近い高校にすりゃあえかったのに」
前から木下がそう言った。
「あ……うん」
川内は、少し俯いてそう頼りなげに返事をする。
成績とかなんとかいろいろあるんだろうから、もしかしたら好きで山ノ神高校に来たわけじゃないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、尾崎がくるりと振り向いてこちらにやってくると、俺の自転車のカゴにポンとカバンを入れる。
「えっ」
「乗して」
「あっ、じゃあ、ワシも」
そして木下もポンとカバンを入れた。
「あー、荷物ないだけで楽ー」
そう言って二人は、意気揚々と両手を振って歩きだす。
まあ、自転車だし、大した負担ではないので、別に構わないかと小さく息を吐く。
本当は、カゴのないスポーティな自転車が良かったのだが、姉ちゃんのお古なのでママチャリだ。それに不満がないわけではないけれど、三年間だけだし、確かにカゴがあって助かる場面は多い。
「……川内も」
隣を歩く川内が、えっ、とこちらを見上げる。そしてふるふると首を横に振った。
「えっ、ええよ、私は。重たいじゃろ?」
「いや、一個増えたところで変わらんよ。早よ」
そう急かすと、川内は躊躇しつつも、そっとカゴの中にカバンを入れた。
「あ、ありがと」
「うん」
何歩か歩いて、川内はまたこちらを見て微笑んだ。
「ホンマじゃ。荷物ないだけで、楽」
その穏やかな笑顔は、ちょっとホッとさせられる。
「ねー、後ろ、乗せてや」
言いながら、また尾崎が寄ってきた。呆れたように木下が肩をすくめる。
「なに言いよるんなら。歩けや」
「ほいでも、楽そうじゃし。焼山の子ら、自転車でええなー思いよったんよ」
「千夏ちゃん、二人乗り、しちゃいけんのんよ」
慌てて川内がそんなことを言っている。
「ちょっとだって、ちょっと。ウチが運転したげるけえ」
そう言って、尾崎が俺の手からハンドルを奪い取ろうとする。
「えっ、じゃあ俺が後ろ?」
「なんでじゃ。それはおかしいじゃろ。それならワシが運転しちゃる」
「男子は歩きんさいや。ハルちゃんが後ろ乗ればええじゃん」
「千夏ちゃん、ダメだって」
俺たちがワイワイと騒いでいるのに呼応するように、さわさわと、道の脇の竹林が揺れた。
「ええじゃん、少しくらい」
「だって、先生、来るよ」
そわそわと後ろのほうを振り返りながら、川内が言った。
「え?」
そんなことを立ち止まって言い合っているうち、後ろから車がやってきたので、俺たちは道の端に寄る。
白のセダンはすぐに通り過ぎるかと思ったら、なぜかスピードを緩めて、そして窓を開けながら止まった。
「げっ」
「げっ、とはなんじゃあ、げっ、とは」
さきほどの温室内での会話が再現されたような感じだった。車の中からは手は伸ばせなかったようなので、頭をつかむまでは再現されなかったことは幸いか。
浦辺先生が車の窓辺に肘を乗せて、俺たち四人を見渡して言った。
「今、二人乗りしようとしとらんかったかいのう?」
「しとりませんよー」
尾崎がしれっとそんなことを言う。主犯は嘘つきだ。
「ほいならええが。二人乗りはすなよ。じゃあ気を付けて帰れ」
その言葉と同時に窓が閉まり、そして車は出発した。それを見送ったあと、俺たちはほうっと息を吐きだした。
「あっぶね」
「ワシは止めとけ言うたろ?」
「千夏ちゃん、危なかったね」
ワイワイと三人でそんなことを言っている。
「ハルちゃんが止めてくれんかったら、確実に怒られとったわ」
尾崎は川内のほうに向かって首を傾げた。
「ハルちゃん、なんで先生が来るのわかったん?」
「えと……そろそろかなって」
「ほうよのう、ちょうど帰る頃よのう。気を付けんにゃいけんわ」
女子二人は元々の部員なのでいいとして、木下は尾崎と仲がいいからか、溶け込んで話をしている。
三人を見ていると、俺だけが違う空気をまとっているような気がして、少しだけ、寂しさを感じる。なんだこれ、高校二年生にもなって。相手してもらえないのが寂しいってか。
「お前も尾崎にはっきり断れや」
ふいにこっちに振り向いて、木下が言う。あ、少し嬉しい。
「今度からそうする」
「せんでええわ!」
「千夏ちゃん、二人乗りはいけんよ?」
「もー、ハルちゃんは固いんよね」
そうして話をしながら帰る道のりは楽しい。徒歩十五分、いつもは自転車だからそんなには掛からない。
でもいつもより短く感じた。
翌日の放課後、温室に行くと。
「男子二人にゃあ、キリキリ働いてもらわんといけんよのう」
と、浦辺先生が上機嫌で言った。
「ワシ、そんなに熱心にクラブ活動するつもりなかったんじゃけど……」
木下がそう言ってうなだれている。
確かに木下は最初から、「ほいでも、そんなに熱心にはやれんで?」と言っていた。
その様子を見て、川内が首を傾げる。
「なんか、お家の用事とかあるん? 塾とか? ほいなら一週間に一回とかでも……」
「ないない、ないわー! 家帰ってゲームするだけよ」
と笑いながら答えたのは、なぜか木下ではなく尾崎だった。木下は少し睨みながら尾崎に言う。
「なんでお前が答えとるんじゃ」
「だって知っとるもん。おばさんが言いよったわ」
胸を張って尾崎がそう言うと、木下は吐き棄てるようにつぶやいた。
「あのクソババア」
「母親に向かってなにを言いよるんなら、コラ」
浦辺先生が素早く木下の頭に手を伸ばし、ギリギリと握っている。
「いたたたた」
「そがあなこと言うなよ、悪いやっちゃなあ」
「暴力教師ー!」
言われて、ははは、と笑いながら浦辺先生は手を離す。
「じゃ、働いてもらおうかのう」
恨みがましい木下の視線は意に介さず、浦辺先生は温室の隅っこに投げてあった台車を指差した。
◇
「まあ……大した手間じゃないけどのう」
二人でガラガラと台車を押していると、木下はため息をついてそう言った。
「でも校舎の入り口までしか台車は使うちゃいけんって言いよったよな」
「職員室が二階なんよのう」
さらに大きなため息を、木下は吐いた。
温室の中にあった背の高い観葉植物が五つ、台車の上に乗っている。今、校舎の中にあるものと入れ替えてきてくれ、とのことだった。
「陽当たりが悪かったり、水をやりすぎたりすると、弱ってくるんよの。じゃけえ定期的に入れ替えるんじゃ」
と浦辺先生が俺たちに指示を出した。
「今まで、女子二人とワシがやりよったんで」
確かにそれでは、男手が必要だと思うのも仕方ない。
「その前は?」
「ん?」
三年生の部員がいない。受験で引退するのは、夏頃のはずだ。まだ春なんだから、まだいてもおかしくはないと思うのだが。ということは、元々いなかったのだろうか。
「誰もおらんかったで。川内が久々の部員じゃ」
「じゃあその頃は……」
「シナシナの観葉植物が置いてあったんじゃ」
「なるほど」
「そういうことじゃけえ、頼むの」
というわけで、俺たちは渋々ながら台車を引いている。
「あー、早まったかのう」
と、木下がため息混じりに言った。
「尾崎がおるって聞いた時点で止めとけばよかった」
なんてことを言うので、少しばかりからかいたくなった。
「逆じゃろ?」
「逆?」
俺の言葉に、木下は足を止める。俺もそれに倣った。
「逆って?」
木下は本気でわからないようで、首を傾げている。
「尾崎がおるけえ、入ったんじゃろ?」
ズバッとそう言うと、木下は目を見開いて、みるみる耳まで赤くなった。
すごい。わかりやすい。
「なっ、なにを言いよるんなら! そがあなことはないで!」
「ほうなん?」
「ほうよ! 最初から尾崎がおるって知っとったら、入っとらんかったんで!」
ムキになってそう言うので、なんだかおかしくなって、笑いが漏れそうな口元を手で押さえた。
そんな俺を見て、木下はムッとしたようにしばらく口を閉ざしたあと、足を進め始める。
あ、まずい、からかいすぎたか。
俺は慌てて先に進む木下に駆け寄り、台車に手を掛ける。
「ごめんごめ……」
「それはお前じゃろ?」
俺の言葉を遮って、木下は言った。
「え?」
「お前は、川内がおったけえ入部したんじゃろ?」
再び、足を止める。木下も足を止め、そして仕返しだとばかりに俺のほうを見てニヤリと笑う。
なんだろう。台車の上の観葉植物が、こちらを伺っているような気がした。そんなはずはないのに。
けれど、なんだか、嘘をつきたくなくなった。こんなことで。
「うん」
だから思わず、首を前に倒した。
「うん、そう」
俺の言葉に、木下はあんぐりと口を開けた。まさかこんなにあっさりと認めるとは思わなかったらしい。
俺だって、こんなに素直に答える自分に驚きだ。
「な……」
呆然とした表情をしたまま、木下は言う。
「なんか……すまんの」
「いや……」
気まずい空気が流れる。これはどう取り繕うのが正解なのだろう。
どちらからともなく俺たちは足を踏み出し、また台車をガラガラと押していく。
しばらく沈黙が続いていたけれど、木下がふいに言った。
「神崎さあ」
「うん?」
「お前、姉ちゃんか妹、おるじゃろ。たぶん姉ちゃん」
「姉ちゃんがおるよ。なんでわかったん?」
「ワシの経験上、ああいう大人しめの女子が好きなやつは、姉ちゃんがおるんじゃ」
なぜか誇らしげに、木下は言った。
なるほど、木下の経験がどれくらいのものかは知らないが、一理あるかもしれない。
「ほうかもしれん。姉ちゃんにこき使われよるけえ、その反動が出るんかも」
「そんな気するよの」
「じゃあ木下には姉妹はおらんのか」
「当たり。一人っ子じゃ。尾崎は大人しい、からは程遠いけえ、わかるよの」
もう隠す気はなくなったらしい。
木下はそう言って、歯を出して笑った。
それからも毎日、俺たちは温室に入り浸った。
温室は、この上なく心地よかった。
温かいというのもあるけれど、花に囲まれて過ごすというのは、やっぱりどこか心穏かになれるものなのかもしれない。
いつの間にか定位置というものができていて、木製のベンチに女子二人、パイプ椅子を広げて俺たちと浦辺先生がその前を取り囲むという形にいつもなる。
四人と教師一人という布陣だが、最初に感じたほどの圧迫感はない。浦辺先生がいても、割とリラックスできている。
浦辺先生も、教室とこの温室では、ずいぶん雰囲気が違うような気がする。きっと俺たちと同じようにリラックスしているのだろう。
渋々ながら入ったはずの園芸部なのに、なんだか今まで入らなかったのがもったいなかったような気分にもなってくる。
「もうちぃと早うに勧誘すればよかったかのう。そしたら花壇を耕してもろうたのにのう」
と浦辺先生が言うので、心の中で前言撤回をした。
「一人じゃ、花壇までは手が回らんかったけえ」
川内が小さく笑いながらそう言う。
「一人?」
俺が首を傾げると、ああ、と川内はうなずいた。
「一年のときは、私一人じゃったんよ」
「ほうなんか」
尾崎がベンチに座って足をプラプラと振りながら、言った。
「ウチは、二年になってすぐ入部したんよね」
「じゃあ俺らとほとんど変わらんのんか」
「うん。こないだ入ったばっかりよ」
「ほうよの。一年のときは帰宅部じゃったよのう」
それは知っていたのか、木下がうなずいている。
それからなにかに気付いたように、あ、と声を出した。
「でも今、チューリップがいっぱい咲いとるじゃん。あれ、園芸部がやったんじゃないんか」
首を傾げてそう言う。確かに、校門の横のほうにある花壇には、たくさんのチューリップが咲いている。
赤、黄色、白と色鮮やかな上、校門から入ってすぐなだけに、ものすごく目に付く。
「チューリップは毎年、勝手に咲きよるんよ」
川内が苦笑しながらそう答える。
「へえー」
そんなものなのか、案外簡単なんだな、と感心していると、浦辺先生が恐ろしい提案をした。
「今年は四人おるけえ、一度全部掘り出すか。ほいで保存して、秋にまた植えよう」
「でも、勝手に咲くんなら、放っといてもええんじゃないん?」
尾崎の言葉に、木下がウンウンとうなずいている。たぶん、面倒くさいと思っているのだろう。もちろん俺もそう思っていた。
しかし浦辺先生は残念ながら、首を横に振る。
「球根にも寿命があるけえ、そう簡単でもないんじゃ。それにホンマは花が咲いたあと、花を摘んだりせんにゃいけんので?」
「ええー」
「それからたぶん、イタチが掘るんよの。じゃけえ、まばらに咲いとる。綺麗に並べたいじゃろ? 花壇の外に生えたりとかもしとるし」
「イタチがおるんっ?」
尾崎と木下が二人して驚いた声を上げた。
「おるよ。お前んとこもおるんじゃないんか」
浦辺先生が俺のほうを見て淡々とした口調でそう言ったから、うなずく。
「見たことはないけど、母ちゃんがおるって言いよる」
「この場合、母が、って言うとけ。クソババアよりマシじゃがの」
浦辺先生の言葉に、木下が肩をすくめた。先日、頭をつかまれたことを思い出しているのだろう。
「焼山、やっぱすげえ。イタチおるんか」
「和庄でも、山のほうならおるじゃろ」
「見たことないもん」
「俺も見たことはないわ」
三人がそんなことを話している間、川内はニコニコとしてそれを聞くだけだった。
それをどう思ったのか、木下が話を振る。
「仁方はどうじゃ。イタチ、おるじゃろ」
なんだかんだ、木下は気の利くやつだと思う。以前にも俺だけが話の輪から外れていたとき、こちらに話を振ってくれた。
しかし川内は急に話を振られて驚いたのか、しどろもどろになってしまっている。
「ど……どうじゃろ……」
「はいはい、田舎論争はその辺にしとけよ。そろそろ時間じゃ。帰れ帰れ」
浦辺先生がそう言って、結局俺たちは温室から追い出された。
四人で帰り道を歩くのが、もう定番となりつつあった。
だいたい尾崎と木下が先を歩いてじゃれ合い、その後を俺と川内でついて歩く。俺は自転車を引いて歩いていて、カゴには四人分のカバンが入っているのもいつものことだ。
「いっつもごめんね」
と川内は申し訳なさそうに言うが、尾崎と木下は二人して「ラッキー」と言うだけだ。
「お前ら、仲ええよのう」
先を歩く二人に向かってそう言うと、二人は同時に振り向いた。
木下は少しだけ考えるような素振りをしたあと、口を開く。
「まあ、悪うはないよのう」
「兄弟みたいなもんよ。腐れ縁じゃし」
その尾崎の言葉に、木下が少し落胆したような表情を見せたのは、気のせいではないと思う。
「尾崎は出来の悪い妹みたいなもんじゃけえ」
木下が気を取り直してからかうように言うその言葉に、尾崎は目を吊り上げた。
「はあ? 出来の悪い弟はあんたじゃ。ウチのほうがお姉さんじゃろ? 生まれたんも先じゃし」
「たった半年じゃろうが」
「半年は大きいわ」
肩をすくめて尾崎が言う。ぶっちゃけ、どっちもどっちだと思う。
しかし木下は気に入らないようで、反論を続ける。
「いや、半年もないわ。お前が七月生まれで、ワシは十二月じゃし。五ヶ月しか違わん」
「細かっ」
そこで、ふと気付いた。
「ああ、もしかして、夏生まれで千夏なんか」
俺の言葉に、尾崎はにっこりと微笑んだ。よくぞ気付いてくれました、と顔に書いてあった。
「ほうよ。ほいで木下が冬生まれで隼冬」
尾崎は木下を指差しながら、そう言う。
「二人ともが、生まれた季節の名前?」
まあ珍しくもないのかもしれないが、幼馴染の二人が揃って、というのは意図的なものを感じる。
「ウチら、母親同士が仲ええんよ」
「そうなん?」
「ご近所で、同い年じゃけえかしらん、いっつも井戸端会議やりよるわ。うるそうて、やれん」
「ほいで、ウチが生まれたとき季節が入った名前がええ言うて千夏になったんじゃけど、木下のおばさんが、それええね、って。じゃけえ、木下の名前はウチのパクりよ」
「パクり言うな!」
そう軽快に二人が言い合っている。夫婦漫才か。
「あっ、あのね!」
しかしふいに川内がそう呼びかけて、皆がいっせいに川内のほうに顔を向けた。それに驚いたのか、川内はまた俯いてしまう。
「あ、ごめん……大した話じゃないけえ……」
そう言って、次の言葉を発しない。
「なんじゃあ、言いかけたんなら言えや」
「え……あ……」
木下の言葉が強すぎたのか、川内はますます俯いてしまう。
尾崎が慌てたように川内に話し掛けた。
「なに? ハルちゃん、気になるわあ」
明るい声で、そして労わるように、尾崎は言葉を紡ぐ。
どうも川内は、内気にもほどがあるような気がする。人の話をニコニコといつも聞いているし、相槌を打つ程度に話したりはするが、自分で発信することはほとんどない。
ちょっと、極端な気がする。
尾崎が根気強く川内をうながして、そして彼女はようやく口を開いた。
「あの……あのね、四人全員……みんな、季節が入っとる名前じゃなって思うて……」
ぼそぼそとそんなことを言う。
「え?」
俺たち三人は、首を傾げる。四人全員?
尾崎千夏。木下隼冬。この二人はわかる。
残り二人。
川内遥。
「ああ、ハルちゃんもハルが入っとるよね」
「え、じゃあ神崎は?」
神崎孝明。
パン、と尾崎が手を叩いて、「ああ!」と声を上げた。
「アキね! なるほど!」
「ホンマじゃ! 春夏秋冬、全部おる!」
尾崎と木下が、興奮気味にそんなことを言っている。
遥、はハルから始まるから、それもなんとなくアリなような気もするが。
「いや……俺だけなんか強引じゃない……?」
「細かいことはええじゃんか。揃っとるんが大切なんよ」
そう言ってから、二人は川内のほうに振り返る。
「よう見つけたねえ」
「ホンマよ」
川内は、照れたように頬を紅潮させている。だからもう、水を差す気はなくなった。
「俺、今、アキが入っとって良かった思うた」
「一人だけ仲間外れになるもんね」
そう言って、みんなで笑って盛り上がる。
川内は、ずっと嬉しそうに微笑んでいた。