それから川内はしばらく目元をハンカチで押さえ、そして顔を上げた。
 もう涙は流れてはいない。

「聞いてくれて、ありがとね」
「ああ、うん。いや、こっちこそ、話してくれてありがと」

 そう言うと、川内ははにかむように笑った。

「こんな朝早くに来る思いよらんかったけえ、びっくりした」

 川内がそう言って首を傾げる。
 ああ、そうだった。本来の用事があるのだった。忘れてた、ヤバい。

「ああ、いや、その、昨日の……謝らんといけん思うて」
「あ、ああ……」

 川内はまた俯いた。けれどさきほどまでの俯きとは違うと思う。

「あの、ついで、じゃないから」
「うん……」

 川内は、こくりとうなずいて続けた。

「そんな、怒るようなことでもなかったんじゃけど……あのときは、なんか、腹が立って」
「いや、一発アウトでも仕方ないこと言うた」

 姉ちゃんにもそう言われた。

「じゃけえ、謝ろうと思うて」
「うん……大丈夫……。本当は、嬉しかったけえ……」

 ぼそぼそと、口の中で言うようなその言葉が、耳に届く。
 嬉しかった? 本当に?
 ということは。

「えーと、付き合うってことでいい?」

 つい急いてしまって、そう口にしてから、はた、と気付く。
 あれ、これ、脅しみたいになっていないか?

「あっ、それとこれとは話は別だから、断っても別に笑ったりしない」

 慌てて両手を胸の前で振りながらそう言うと、川内は小さく笑った。

「うん、わかっとる。付き合うんじゃったら、ちゃんと話さんといけんと……思うて……話したんじゃし……」

 最後のほうの言葉は、消え入りそうになっていた。
 ということは。つまり。

「じゃ、じゃあ。よ、よろしくお願いします」
「お願いします」

 二人して頭を下げ合い。
 そして顔を見合わせて、笑った。
 温室の中は、俺にとっても特別な、心地良い場所になった。

          ◇

 なにを話せばいいのかわからなくて、でもなんだか立ち去りがたくて、俺はパイプ椅子に座ったまま、ただ黙っていた。

「あの……神崎くん」
「えっ」

 声を掛けられて、弾かれるように顔を上げる。
 川内は、困ったように首を傾げていた。

「私、まだ途中じゃけえ……」

 そうか、水やりの最中だったのだ。

「あっ、ああ、うん。手伝おうか」
「ううん、朝は私、やりたいけえ」
「そっか」

 植物と会話しているのだと、さっき確かに聞いた。
 けれどやっぱり、その現場を見られる、というのは抵抗があるのかもしれない。

「わかった。じゃあ先に教室に行ってる」
「うん」

 そう言って、二人して席から立つ。
 けれどそのまま立ち去ったら、これから彼氏彼女として付き合っていく、という事実が流れていくような気がして、足が動かせなかった。

「あのっ、川内」
「えっ」

 そう呼びかけると、彼女はこちらに振り返る。
 この子が、俺の彼女なんだと思うと、なんだかどぎまぎしてしまう。不思議な気分だ。

「あの、今度、二人で出掛けない?」
「二人で?」
「二人で」
「う、うん」

 川内は、こくりとうなずく。それにほっと息を吐いた。

「つっ、次の日曜とか」
「うっ、うん」

 川内がこくこくとうなずく。よかった。

「あの、尾崎と木下には……」
「あっ、どうしようか」
「ちょっと……タイミングを見計らおう」
「うん、わかった」
「じゃあ、またあとで」
「うん、あとで」

 そう言ってしまっては、もう温室を出て行くしかない。
 ものすごく立ち去りがたかったけれど、俺はなんとか足を動かして、教室に向かった。