「あ、ごめん、驚かすつもりはなかったんじゃけど」

 俺は慌てて駆け寄り、そして落ちたじょうろを手に取った。
 もうほとんど中の水は零れてしまったようだった。

「大丈夫? 濡れんかった?」

 しばらく呆然としていた川内は、はっとしたように顔を上げて、コクコクとうなずいた。

「ごめん。ビックリさせてしもうて」

 その言葉に、ふるふると首を横に振ってくる。
 しかし彼女は俯いて、両手を胸の前で握りしめて、少し震えている。

 なんだ?

「あの、昨日のこと、謝りたくて」

 川内はまた、首を横に振る。
 そんなに驚かせたのだろうか。それとも、近寄っても欲しくないという嫌悪感か。

「あの、本当に、ごめん」

 これはとにかく謝ろうと、頭を下げる。
 しかし川内は首を横に振るばかりだ。
 それから少しして、ぼそりと言った。

「……謝ってもらうことは……何もないけえ……」
「でも……」
「大丈夫……私こそ、ごめんね」

 そう言って弾かれたように顔を上げる。そして口元を笑みの形にしている。
 けれどどう見ても、微笑んでいる、という感じではなかった。無理に笑っているようにしか見えなかった。

「……どうかした?」

 そう問う。
 これは勘でしかないけれど、俺の昨日の告白とは違う部分で問題が起きているような気がする。

「なんでもないよ」

 そう言って、また、笑う。けれどやっぱり引きつっているように見える。
 いつもの穏やかな、柔らかい、心休まるような、そんな笑顔ではない。

 俺は手に持ったじょうろを、近くの棚の空いているところに置いた。

「なんでもないようには見えん」

 そうきっぱりと言うと、けれど川内は俯いた。

 さっき、なにがあった? そう懸命に記憶を探る。
 俺が温室を覗き込んで。川内が植木鉢に向かって話し掛けていて。そして彼女が俺に気付いて振り返った。それだけだ。

 なにか問題があったようには思えないのだが、俺にはわからないような問題が潜んでいたのだろうか。
 姉ちゃんによく、「あんたは気が利かん」と怒られるので、俺が気付いていないだけの可能性も高い。

「ええと……なんか、悩みでもあるん?」

 とにかく突破口を開こうと、そう尋ねてみる。すると彼女は、首を縦に振るでもなく横に振るでもなく、ただ、ますます俯いた。
 ということなら、やっぱりこれは昨日のことではなく、川内の悩みに関することで問題が起こっているのだろう。

「話聞くだけなら聞くけど……いいアドバイスはできんかもしれんけど、話するだけで楽になるいうし」

 そう言うと、川内は俯いたまましばらく考えたような素振りをして、そして小さく首を横に振った。

 けれど、放っておくだなんてできないだろう。
 いつも俯きがちな川内。極端に内気な川内。これはもしや、この彼女の悩みに端を発しているのではないのか。

 今、川内を放っておいてはいけない、と心のどこかで警鐘が鳴り響いている。いや、なにかが俺の足を止めているような気がしている。

 立ち去っては、いけない。

「俺、川内のことが好きだし」

 口をついて出た。川内の肩がピクリと揺れる。

「だから、俺にできることは、ちゃんとしたい」

 そう言うと、川内はゆっくりと顔を上げてこちらを見つめてきた。

「あ、いや、力になれるかはわからんけど、でもがんばるし。えっと、頼りないかもしれんけど」

 しどろもどろになりつつ、そう言う。今さら、顔が熱くなってきた。
 川内はしばらく黙って俺の顔を見つめていた。
 そうしているうち、彼女の瞳にじわりと涙が浮かんでくる。

「えっ、ごめん、なんか悪いこと言った?」

 あたふたとそう言うと、川内はブンブンと首を横に振った。

「ううん、ありがと」

 そして、はっきりとそう言い、俺の顔をまたじっと見つめる。

「話……聞いてもらっても……ええ?」

 そう言われて、ほっと息を吐く。

「うん、俺でよければ」

 川内は一度深呼吸をして。
 それから俺に視線を移し、そっとその言葉を舌に乗せた。

「信じんでもええよ。でも、笑わんでほしい」

 さわさわと、川内が育てている、パンジーが揺れた。