小さくため息をつくと、そこへ、正宗くんが来た。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「おはよう」
挙げた手はぎこちなくギィギィ鳴りそうだ。いま初めて会った感じで挨拶しなければいけない。余計な隠しごとを増やしてくれたものだ。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
しらじらしく挨拶なんかしちゃって……と、いけない。隠せていないのはわたしのほうじゃないのか。
口を尖らせていたら、正宗くんが耳打ちをしてきた。
「いま先輩たち見ておはようって言いましたけれど、夜勤でおはようはOKですか?」
「OK、OK。朝も夜もおはようよ」
小声で返すが、細かいことを気にするのね。
「なんか適当ですね、先輩……」
「内容より態度でしょ。とにかく挨拶はきちんとすること。挨拶できないのはクズ」
「厳しい!」
コソコソ言い合っていたら、朋美が嬉しそうにしている。
「正宗くん、だいぶお千代に懐いているんだね」
「そうですね。初対面から仕事以外、お互いの話をあまりしなかった分、歓迎会で色々お話できたので」
ああ。腹の底がムズムズする。わたしこういうのとても苦手。朋美に言ってしまいたい。歓迎会のあとうちに転がり込んで泊まった挙げ句、少しのあいだ置いてくれとか言いやがったんだよって。
言えないけれど。
とにかくわたしの役目は、彼にこの病院で看護師としての仕事の基本を教えること。プラスアルファでもっとたくさん教えてあげられたらいい。ただ、そのプラスアルファは一緒に住むことではないのだ。
避難所だと思え……彼はいまわたしのところに避難して来ているんだ……わたしの部屋に……。彼の部屋は、ドアを開けると爆発物が仕掛けてあると県警から連絡が入ったから仕方なく……。
「ラウンド行かない? ちょっと術後が気になる患者さんのところへ行きたいんだけれど」
妄想を膨らませて自身を納得させようと思っていたところに、朋美からお誘いがある。現実って厳しい。申し送り前に病棟を見て回る「ラウンド」ができるように、みんな余裕を持って出勤する。
「正宗くん連れてラウンド回ろうと思っていたところだから、一緒だと助かる」
「ちょっとね、微妙でね。柏木のおじいちゃんなんだけど」
「ああ、柏木さん。オペから二日だね」
「うん」
「耳もちょっと遠いからね」
誰が聞いているか分からないので、あまり大きな声で話すと患者さんに聞こえてしまうから、お互いに抑えた声で話す。
「よし行こう。正宗くん」
「はい、分かりました」
三人は静かに速やかに病室へと向かった。
「かしわぎさーん。ともちゃん来たけどもー」
朋美は、大きめの声で白髪頭の男性患者に話しかける。ともちゃんとは、柏木さんにそう呼ばれているんだと思われる。可愛らしい。
「おお、ともちゃん。ばあさんは」
「お帰りになりましたよ」
「おう……」
もうすぐ夕食の時間だが、きちんと食事ができるだろうか。
柏木おじいちゃんは、七十代男性。ベッドの上で横向きになり目を閉じてしまった。話したくないのだろう、わたしたちにいなくなって欲しいのだと思う。
「じゃあね、ともちゃんまた来ますからね」
朋美は声をかけてベッドから離れる。そして静かに病室を出た。
「さっきちょっと、奥様が帰る時に興奮していて、帰るって我が儘を言ったの。だから心配で」
「わかった。注意しとく」
そばでわたしと朋美の会話を聞いた正宗くんが、眉をひそめた。
「心配ですね……」
柏木さんは、自宅で転倒し負傷、救急搬送され両膝の手術を行った患者さんだった。もともと膝が悪かった。
「心配よね。患部は膝だから無理に動くのは良くない。けれど、動いてしまうかもしれないのよ」
「いざというとき、男の腕力は助かる」
わたしと朋美は同時に正宗くんを見てしまった。
「……分かっています」
「理解が早いね。さすがお千代のプリセプティ」
「それは関係ないよ」
理解が早いのは彼の実力だ。とにかく、安静が必要な患者さんだもの。興奮して暴れたりしたら大変だ。少なからずそんな患者さんはいるのだ。胸ポケットのナースウォッチを見て時間を確認する。そろそろステーションへ戻らなければいけない。
「正宗くん、申し送りにいくよ」
「はい」
軽やかな返事と自分より頭ひとつ大きい後輩を従えて、ナースステーションへ移動した。
「それでは、夜の申し送りをはじめます……」
メモ帳を手に、正宗くんは神妙な面もちで話を聞いている。日勤は経験済みでも、準夜勤は今日が初めてなのだから、先輩たちみんなの言うことをよく聞いて欲しい。
「三〇五の柏木さんは術後ちょっと不穏入ってるので気にしてくださいね。あと昼間緊急OP五件あり経過観察の患者さんがいますので……」
先任の先輩は、正宗くんの存在があるからか、分かりやすい言葉を使って説明してくれている。みんなが黙って真剣に聞いている。
「……以上。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
キビキビとした行動で仕事へ入っていくスタッフたち。申し送りを済ませ、カーデックスを確認すると、あることに気付く。これはなんだろう。読めない字がある。誰の字?
そういえば正宗くんは、整った字を書くんだよな。
「今日の日誌、正宗くんに書いて貰おうかな」
「日誌ですか……?」
「みんなが見る書類だからみんなが読めたほうがいいから。字の綺麗なひとに書いて貰おう」
わたしの字は丸っこい。解読不能というわけではないが綺麗な字だという自信はないし、言われたこともない。
眼帯の顔が不思議そうにわたしを見ている。真新しいナースウェアも、段々と見慣れてきた。
「あれだよね。入ってきてから絶望的に字が汚かったらどうしようかと思ったよ」
「履歴書、見ませんでしたか?」
「わたしが見たのは履歴書じゃなくて、新入生データだったから文字は分からないよ」
「そうですか。日誌、分かりました」
字が下手だろうと上手だろうと、なんの職業でも文字は書くから。
正宗くんは、トイレに行くといいその場を離れた。わたしはそばにいた主任に声をかける。
「すみません、主任」
「はい?」
「正宗くんですが、ずっとつけているあの眼帯のこと、なにかご存じですか……?」
主任と、師長あたりはなにか知っているかもしれない。ずっと外さない眼帯には、なにかしらの事情があるはずだ。
「眼帯ね、面接の時にはすでにしていました。ちょっと目の具合が悪いとのことで」
目の具合……。今朝の感じだとよく分からなかった。外傷というよりは眼球の病気だろうか。視力? ものもらいをこじらせたのだろうかと思っていたけれど、部屋で眼帯が外れた顔には傷などついていなかった。
分からない。ここに来てからもう1ヶ月以上経つのに、まだ眼帯をしているなんて。
スタッフのみんなだって不審に思うだろう。
「健康状態は良好、成績優秀でご親戚にお医者様もいらっしゃって、高校生の時に医療に携わる仕事がしたいと思ったそうですよ」
「……はぁ」
主任、話が脱線しています。眼帯をしていて健康状態良好ってなに。
相変わらずゆるふわな主任だ。でもいざとなると誰より動きが早く先生やまわりの数歩先を読み、機転が利くのだから凄い。
「おはようございます」
「あ、おはよう」
「おはよう」
挙げた手はぎこちなくギィギィ鳴りそうだ。いま初めて会った感じで挨拶しなければいけない。余計な隠しごとを増やしてくれたものだ。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
しらじらしく挨拶なんかしちゃって……と、いけない。隠せていないのはわたしのほうじゃないのか。
口を尖らせていたら、正宗くんが耳打ちをしてきた。
「いま先輩たち見ておはようって言いましたけれど、夜勤でおはようはOKですか?」
「OK、OK。朝も夜もおはようよ」
小声で返すが、細かいことを気にするのね。
「なんか適当ですね、先輩……」
「内容より態度でしょ。とにかく挨拶はきちんとすること。挨拶できないのはクズ」
「厳しい!」
コソコソ言い合っていたら、朋美が嬉しそうにしている。
「正宗くん、だいぶお千代に懐いているんだね」
「そうですね。初対面から仕事以外、お互いの話をあまりしなかった分、歓迎会で色々お話できたので」
ああ。腹の底がムズムズする。わたしこういうのとても苦手。朋美に言ってしまいたい。歓迎会のあとうちに転がり込んで泊まった挙げ句、少しのあいだ置いてくれとか言いやがったんだよって。
言えないけれど。
とにかくわたしの役目は、彼にこの病院で看護師としての仕事の基本を教えること。プラスアルファでもっとたくさん教えてあげられたらいい。ただ、そのプラスアルファは一緒に住むことではないのだ。
避難所だと思え……彼はいまわたしのところに避難して来ているんだ……わたしの部屋に……。彼の部屋は、ドアを開けると爆発物が仕掛けてあると県警から連絡が入ったから仕方なく……。
「ラウンド行かない? ちょっと術後が気になる患者さんのところへ行きたいんだけれど」
妄想を膨らませて自身を納得させようと思っていたところに、朋美からお誘いがある。現実って厳しい。申し送り前に病棟を見て回る「ラウンド」ができるように、みんな余裕を持って出勤する。
「正宗くん連れてラウンド回ろうと思っていたところだから、一緒だと助かる」
「ちょっとね、微妙でね。柏木のおじいちゃんなんだけど」
「ああ、柏木さん。オペから二日だね」
「うん」
「耳もちょっと遠いからね」
誰が聞いているか分からないので、あまり大きな声で話すと患者さんに聞こえてしまうから、お互いに抑えた声で話す。
「よし行こう。正宗くん」
「はい、分かりました」
三人は静かに速やかに病室へと向かった。
「かしわぎさーん。ともちゃん来たけどもー」
朋美は、大きめの声で白髪頭の男性患者に話しかける。ともちゃんとは、柏木さんにそう呼ばれているんだと思われる。可愛らしい。
「おお、ともちゃん。ばあさんは」
「お帰りになりましたよ」
「おう……」
もうすぐ夕食の時間だが、きちんと食事ができるだろうか。
柏木おじいちゃんは、七十代男性。ベッドの上で横向きになり目を閉じてしまった。話したくないのだろう、わたしたちにいなくなって欲しいのだと思う。
「じゃあね、ともちゃんまた来ますからね」
朋美は声をかけてベッドから離れる。そして静かに病室を出た。
「さっきちょっと、奥様が帰る時に興奮していて、帰るって我が儘を言ったの。だから心配で」
「わかった。注意しとく」
そばでわたしと朋美の会話を聞いた正宗くんが、眉をひそめた。
「心配ですね……」
柏木さんは、自宅で転倒し負傷、救急搬送され両膝の手術を行った患者さんだった。もともと膝が悪かった。
「心配よね。患部は膝だから無理に動くのは良くない。けれど、動いてしまうかもしれないのよ」
「いざというとき、男の腕力は助かる」
わたしと朋美は同時に正宗くんを見てしまった。
「……分かっています」
「理解が早いね。さすがお千代のプリセプティ」
「それは関係ないよ」
理解が早いのは彼の実力だ。とにかく、安静が必要な患者さんだもの。興奮して暴れたりしたら大変だ。少なからずそんな患者さんはいるのだ。胸ポケットのナースウォッチを見て時間を確認する。そろそろステーションへ戻らなければいけない。
「正宗くん、申し送りにいくよ」
「はい」
軽やかな返事と自分より頭ひとつ大きい後輩を従えて、ナースステーションへ移動した。
「それでは、夜の申し送りをはじめます……」
メモ帳を手に、正宗くんは神妙な面もちで話を聞いている。日勤は経験済みでも、準夜勤は今日が初めてなのだから、先輩たちみんなの言うことをよく聞いて欲しい。
「三〇五の柏木さんは術後ちょっと不穏入ってるので気にしてくださいね。あと昼間緊急OP五件あり経過観察の患者さんがいますので……」
先任の先輩は、正宗くんの存在があるからか、分かりやすい言葉を使って説明してくれている。みんなが黙って真剣に聞いている。
「……以上。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
キビキビとした行動で仕事へ入っていくスタッフたち。申し送りを済ませ、カーデックスを確認すると、あることに気付く。これはなんだろう。読めない字がある。誰の字?
そういえば正宗くんは、整った字を書くんだよな。
「今日の日誌、正宗くんに書いて貰おうかな」
「日誌ですか……?」
「みんなが見る書類だからみんなが読めたほうがいいから。字の綺麗なひとに書いて貰おう」
わたしの字は丸っこい。解読不能というわけではないが綺麗な字だという自信はないし、言われたこともない。
眼帯の顔が不思議そうにわたしを見ている。真新しいナースウェアも、段々と見慣れてきた。
「あれだよね。入ってきてから絶望的に字が汚かったらどうしようかと思ったよ」
「履歴書、見ませんでしたか?」
「わたしが見たのは履歴書じゃなくて、新入生データだったから文字は分からないよ」
「そうですか。日誌、分かりました」
字が下手だろうと上手だろうと、なんの職業でも文字は書くから。
正宗くんは、トイレに行くといいその場を離れた。わたしはそばにいた主任に声をかける。
「すみません、主任」
「はい?」
「正宗くんですが、ずっとつけているあの眼帯のこと、なにかご存じですか……?」
主任と、師長あたりはなにか知っているかもしれない。ずっと外さない眼帯には、なにかしらの事情があるはずだ。
「眼帯ね、面接の時にはすでにしていました。ちょっと目の具合が悪いとのことで」
目の具合……。今朝の感じだとよく分からなかった。外傷というよりは眼球の病気だろうか。視力? ものもらいをこじらせたのだろうかと思っていたけれど、部屋で眼帯が外れた顔には傷などついていなかった。
分からない。ここに来てからもう1ヶ月以上経つのに、まだ眼帯をしているなんて。
スタッフのみんなだって不審に思うだろう。
「健康状態は良好、成績優秀でご親戚にお医者様もいらっしゃって、高校生の時に医療に携わる仕事がしたいと思ったそうですよ」
「……はぁ」
主任、話が脱線しています。眼帯をしていて健康状態良好ってなに。
相変わらずゆるふわな主任だ。でもいざとなると誰より動きが早く先生やまわりの数歩先を読み、機転が利くのだから凄い。