大丈夫とは自分の確認。突然転がり込んできた後輩のしかも男を置いておけるのか。大丈夫かそうでないかを考えるのが面倒なので大丈夫と思いこむことにする。
最高潮にダメだったら本当に出て行ってもらえばいいか。
考えこんでいる場合ではない。とにかくそれぞれで準備をして、部屋を出た。
マンション駐車場へ行き、白い軽自動車に乗り込む。
わたしは準夜勤と深夜勤では車通勤、日勤の時は徒歩数分のバス停まで徒歩で行きバスに通勤をしている。病院の目の前に「あおば丘整形外科病院前」というバス停があるのだ。
「乗せていただいてすみません」
正宗くんは自転車通勤なのだ。雨の日にレインスーツを着て出勤してきて、なのに中身がずぶ濡れになっているからみんなに心配をかける。濡れないようにレインスーツなのに服がびしょ濡れとはどういうことなのか。さらに眼帯をしていて視界も悪いと想像できるから、危ないし。
「自転車通勤は天気が悪いとき大変だよね。うちの病院マイカー通勤可だから、考えてみたら」
「はい。実は車を買おうかなと思っていて。うちのマンション、駅は近いけれど病院に通勤するには微妙なんです。自転車は先輩の言うとおり天気が悪いと本当最悪。運動だと思っていたんですけれど、最初のうちだけですね~」
彼は、あははと笑った。
「運動もいいけれどそれより濡れない努力をよろしく頼む」
「そうですね。がんばります」
本当に素直でいいやつなんだよね。
段々と日が傾き始めて平日の帰宅ラッシュにかかる時間帯は仕事帰りの気怠さがそこらに浮かんでいるようだ。わたしたちは出勤するのだが。
「病院、駅からちょっと遠いからね。電車通勤しているスタッフもいるけど、バスや車が楽かなぁ。住んでいる場所にもよるけれど」
「そうですね。病院の目の前にバス停あるから」
あの病院に勤務が決まってから、いま住んでいるマンションを見つけた。駅からは遠いけれど、バス一本で通勤できる。夜勤の時はバスが使えないから、中古の車を購入した。
「仕事と生活の便利はいいから、これ以上の場所は無さそうで引っ越せないよ」
「いいところですよね。先輩のマンション付近は静かだし」
そうね。徒歩で買い物に行けるし。自転車で少し走れば大きなショッピングセンターもある。わたしも新人の頃、自転車通勤をしていたのだけれど、夜勤明けに自転車を漕いで帰るのが本当に辛くて、辞めてしまった。以前、そのことを話したら「確かに」と言って正宗くんは笑った。
「うちのマンション古いけれどね」
「そうですか? あんまり気にならない」
「リノベしてあるからね。でも、お風呂場が古さを残しているのよ」
ユニットバスじゃないのがちょっと残念かも。いまはもう気にしていないけれど、タイルの目地は掃除が面倒なんだよね。
「綺麗にしていたじゃないですか」
お世辞にもピカピカに綺麗だとはいえないと思うが、気を使って言ってくれているのだと分かる。
「古いからって汚くしているとなんか全て終わるよね。ますます古くなるというか」
「たしかに」
 部屋は綺麗ではないことは言わないで欲しいです。
「掃除も片付けも、あんまり得意じゃないんだよー」
「分かっています。大丈夫です。俺、掃除も片付けも得意なんで」
あっそ。
あの部屋を見れば掃除も片付けも下手くそな先輩だってことは分かるよ。とっ散らかったところを見て、どう思っただろうね。
段々とじわじわと、綺麗にしておけばよかった、よくこの部屋に人を入れたなという思いが湧く。
……もう部屋に入っちゃったんだから仕方ない。片付ける暇が無かったんだから。いいのよ、もう! 仕事に集中しよう!
「準夜の途中に食事を買いに行ったりする暇は無いと思うから、途中でコンビニかスーパー寄るからね」
「分かりました」
「コンビニ飽きたぁ~」
「先輩、行く前からそんな」
正宗くんは眼帯を直しながら苦笑いをしている。
「夜勤は今日が初めてだもんねぇ、正宗くん」
正宗くんは、外部の勉強会に出るように言われていたこともあり、準夜勤に入るのは今日が初めてだ。わたしもプリセプターの研修があったり、夜勤に入ることがあっても正宗くんはいなかったから。彼は日勤に少し慣れた頃だから、ちょうどいいのかもしれない。病院によっては、もっと最初のころに新人の夜勤を入れられることもあるから。
うちの病院は、日勤・準夜勤・深夜勤の三交代制で機能している。
今日は準夜勤で深夜一時三〇分まで。同じ職場で展開される三つの勤務であっても、仕事内容が違うしリズムがあるので、慣れるまでは大変だ。
ほどなくして病院に到着し、着替えを済ませると仕事モードのスイッチが入る。同僚の朋美が声をかけてきた。彼女はわたしのひとつ先輩で、気が合いよくふたりで飲みに行くようになった。最初はわたしも敬語だったが朋美の気さくさも手伝って名前で呼び合う間柄になった。いまでは一番の仲良しだ。
「おはよー。飲み会楽しかったよねー! お千代先輩お疲れさん」
「茶化さないで」
「飲み会でも後輩の面倒見なくちゃいけないから大変だよ」
「だってみんなわたしに押しつけて帰るんだもの」
「でもお千代はわたしと違って指導する側に向いているんじゃないかな」
ふいに暗い顔をする。明るい朋美には似合わないなと思った。
わたしがいま担当している正宗くんは優秀な新人だと思う。だから、プリセプターの問題じゃないと思うよ、と言おうとしてやめた。
去年、彼女が担当していた新人が途中で辞めてしまった。プリセプターとしての朋美はとてもショックを受けていた。責任を感じてしばらくはとても元気が無くて、見ていられないほどだった。患者さんの前では元気にしていたけれど……ひとたびナースステーションに戻ってくれば、まるでお通夜みたいな顔をして。
自分も教えられる立場を経験し、プリセプターとして動く先輩たちを間近で見ていたから大変さは感じていただろうけれど、自分が初めてプリセプターになり、初めてのプリセプティは最後までいかずに辞めてしまった。
「ひきずらないで、前を向こうよ」
月並みなことしか言えないことが歯がゆかったが、あまり後ろばかり向いていると、朋美のためにもならないような気がして。
「お千代は前向きだなぁ。新人も成長すると思うよ」
「わたしは、途中で考えるのが面倒になるだけだよ……」
暗い顔して言わないで欲しいな。朋美のほうが優秀なのにな。